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少年と少女シリーズ

いらない君を忘れないで

作者: 亜麻猫 梓

 プロローグ


――いずれ眠りは醒めるものだから。みんな口を揃えてそう言うよね。じゃあ醒めなかったら私たちは一体どうなるのかな?

 生きているの? 死んでいるの?

 体が生きていても、動かなければ死なのかな。逆に、死んでいても精神が生きてさえいれば死にはならないのかな。

 でも、眠っていたらそれは確かめられないよね。じゃあ確かめるべきだよ。起きるべきさ。

 人は生きていることを確かめる為に、証明する為に起きるんだ。誰が担うわけでもない、自分自身が生きている証拠を示す為に起きるんだ。

 ね、君も一緒に起きようよ。




   1


 気だるい重みをずしりと感じ、青年は起きた。

 まるでそれ自体が眠りを妨げていたかのように、目覚めたばかりの体に鈍い痛みを走らせる。

 薄っすらと開いているだけの瞳を左右に揺らす。見えるは深い青のただ一色。どうやら仰向けで寝ていたらしい。

 眩しい日差しを遅まきに感じると同時に、どこまでも広がる青空がキラキラと透き通って見えた。

 おもむろに上体だけを起こす。まだ光に慣れていない瞳を限界まで細めながら、見える景色の全てを映し出す。

 辺り一面畳を張ったかのような真緑の草原。かと思うと次の一瞬には、今立っている場所が町を見下ろせるほどの小高い丘の上であることが伺えた。

 すると、今度は途端に何やら騒がしい音が耳の奥に響きだす。セミだ。セミの鳴き声がする。

 その音は、不思議と今までの間ずっとマヒしていた季節感を呼び起こさせた。

早くも汗を搔きはじめ、僅かだが額にも湿り気を帯びさせ始めていた。

 はて、自分は一体どうしてこんなところで寝ていたのか。

 寝起きの頭をゆっくりと回しながら、ぼんやりと記憶を辿る。

 そして、あることを思い出す。今は夏休みだ。大学の夏期休校期間の真っ最中だ。

 今は田舎の実家に帰省していて、祖母の墓参りを終えた後、暇を持て余した挙句この丘でうっかり眠りこけてしまったらしい。ただ、果たしていつ頃から自分は眠ってしまっていたのか、それが上手くは思い出せなかった。

「あれ、おかしいな……」

 当然おかしいに決まっていた。眠りにつくまでの記憶が上手い具合に繋がっていないのだ、通常ならもどかしい事この上ないことだ。

 けれど、青年はそれ以上に奇妙な感覚に首を傾げていた。

 何故だかこの記憶の事をもどかしいと思う反面、意外にもすんなりと自分の中で納まっていく感覚があったのだ。

 青年は、もどかしいと思えないことを一番もどかしく思った。

 しかし、それすらも次第にどうでもよく思えてくる。むしろ、最初から疑問に思うようなことでは無いとでも言うように、先ほどまでの悪寒にも似た衝動はすうっと抜けていった。後には間の抜けた疑問だけが転がっていた。

 青年は、そうしてしっかりと目が覚めるまでの間疑問に思い続けた後、すっと軽やかに立ち上がる。

 ともかく戻ろう。ここは暑い。伊達に八月の盆なだけはある、いつまでもここにいては熱中症になるだけだ。

 青年は丘を下りる為に歩き出した。

 そこで。

「ねぇ、そこの君」

 唐突に女性らしい凜とした声を掛けられ、青年は後ろを振り向く。だれかは分からない。そこにはとても綺麗な女の子がいた。

 夏の日差しを、まるでチカチカと反射するかのように輝かせるのは、淡い白のワンピース。更にそこから生える脚は、それと負けないほどにまで病的に白く塗り潰されている。

 そして、大きめの麦藁帽を被った頭からは、対照的なまでの長い黒髪を伸ばしていた。

 一体いつからいたのか、青年が立ち上がる前には微塵も感じなかった気配が、今は確かにそこにいた。

 すっと女の子が薄く微笑む。腕を持ち上げ、かさる横髪を手でかき上げながらゆったりと、それでいてハッキリと喋りだす。

「やっぱり。久しぶり、元気だった?」

 脈絡の無い唐突な言葉。

 それだけでは無い、青年はこの女の子のことを知らない。知るはずも無かった。

 けれど、

「……あぁ、それなりに」

 青年は気付くと彼女の質問に答えていた。

 えっ、と思った。理由も分からなかった。だが、その声はどこか懐かしさを帯びていて、更には今自分が言った言葉でさえも懐かしいものに思えたのだ。

「よかった、やっと会えた」

 彼女は、そう一言だけを口にした。安堵するかのように胸を撫で下ろす。

 青年には分からなかった。自分はこの女の子を知らないはずなのに、何故こうも緊張感が無く、安心感すらも湧いてきているのかを。

 多少混乱気味の頭を回しながら、自分の記憶の中から彼女を探そうとする。

 だが、それも直後には断念することになる。

 彼女は、はっと気付いたように目をしばたかせ。

「ん、あれ……もしかして背、伸びた?」 

 と言い出すと、すたすたと青年の目の前に迫ってきて、手を自分の頭の上にかざしながら背を比べ出した。

 彼女の遠慮の無い行動にますます混乱する。

 そして、たじろきながらも少しの間だけ大人しく背を比べさせた後。

「……君は、君はだれ? いつからそこにいたの?」

 ようやく口をついて出たのは至極単純な疑問だった。

 青年の言葉に彼女は、一瞬だけ表情を真顔に戻す。背比べも止めた。

 しかし、再び表情を元に戻すと、彼女は分かりきったことのように微笑を浮かべた。

「誰でもいいよ。でも、私にとってあなたは大切だし、あなたにとってもきっとそう」

「な、なんだよ……それ?」

 まただ。またあの奇妙な感覚だ。

 彼女の言葉は全てが要領を得ていないことだらけで、言っている意味など理解できようはずもなかった。

 けれど納得はできてしまった。自分にとってもこの子のことは大切だ。全く根拠が無いにも関わらず、青年にはそう思えてならなかった。

「あ、そうだ。ねぇ、これから時間ある?」

「え、時間……?」

 自分自身の心の矛盾について考える暇も無く、彼女は無邪気に笑った。

「うん、あなたに見せたいモノがあるの」

 そう言うと、彼女は断りも入れずに青年の右手を取った。そのまま腕を引き、小走りに丘を下ろうとする。

「あ、えっ、ちょっと!?」

 案の定、青年は足をもつれさせた。けれど、何とか体勢を立て直し、青年は彼女に引かれるままに足を動かす。

「ごめんなさい。分かってる、でもお願い付いてきて」

 その表情は笑ってこそいたが、あたかも夕立の前触れのごとく陰っていた。

 どうしてそんな顔をするのだろう。青年は元々、性格上されるがままの傾向が強かった為、自分の返事も待たずにいきなり手を引いたことについては構わなかった。実際、時間は有り余るほどにはあったのだ。

 だが、その表情については気にならざるを得なかった。

 このまま付いていけば、その理由も分かるのだろうか。そう思った青年は、ほんの一瞬だけ振り向いた彼女の横顔に、優しく微笑みかけた。

「うん、分かったよ」


   2


「暑くても、こうしている限りはいくらかマシだね」

「ああ、そうだな」

 盆の昼に降りしきる日差しも、木陰の下までは届かない。

 女の子の腕に引かれるまま丘を下った青年は、大きくも無い街中をそのまま彼女の先導で歩き続けた。

 そして、今二人は小さな公園にいる。遊べる遊具も二つほどしかなく、あまり手入れも行き届いていないのか雑草だらけで、とても子供が好んで遊びに来るとは思えない場所だった。事実、子供の気配は一つも無かった。

 しかし、自分たち以外がいない公園というのは、ゆっくり腰を落ち着けて休憩をするには打って付けの場所であった。

 二人はこの公園で有逸の、大きな日陰を作っている大木の前にあるベンチに並んで腰掛けていた。ベンチは古く、ボロボロに剥げている。

「あ、それでさっきの続きだけれど、君は大学が詰まらないん、だっけ?」

 女の子が、右隣の青年の方を向きながら首を傾げながら言ったのは、ここに来る途中に話していた青年のことについてだった。麦藁帽は日陰の為か、すでに外している。

「ん、ああ。面白くない……というか、別の意味での失望、かな」

「失望?」

 青年は、遥か遠くにそびえる都会の光景を思いながら、さっきまでには無かった入道雲の浮かぶ空を仰いだ。

「正直、高校最後の年までは期待してた部分もあったんだ。だけど、やっぱり現実は現実でしかないよな。いくら場所を変えたって、結局は同じ空、同じ地面が続いているだけだ。俺自身が変わらないと、何も変わらない」

 青年は大学の面々を思い出していた。確かに、田舎の人間とは確実に雰囲気が違っている。けれど、本質は何も変わってはいない。所詮は地に足を着いて世界に縛られているだけのこと。そして、それは自分も同じでしかなかった。

「都会もここと大差無い?」

「大差がなんてことは無いさ、どっちにも特徴はあるからな。けど、ここよりはもっと色々あって楽しいかもな」

 青年は都会と田舎、どちらに対しても皮肉な気持ちになりながら、薄く微笑んだ。

 そして同時に、この不思議な安心感を、先ほどと同様奇妙に思っていた。

 青年は普段、あまり口を開くタイプではなかった。なのに、どうして初対面であるはずのこの人にここまで話せてしまうのだろうか。考え始めれば切りが無い。しかし、今はこの安心感の前では全てがどうでも良く思えた。

「ふーん、でも、こっちにも良い所はあるよ」

 女の子は、田舎を馬鹿にされたからであろうか、青年の話に対しどこか面白く無さそうに返事をすると、対抗するかのように立ち上がる。すたすたと後ろの大木に近づくと、女の子は何やらキョロキョロと木を見回しながらうろついていた。

「何をしているんだ?」

「ちょっと待ってて、えーと……あ、ほら見て」

 急かすように女の子は木の上を指差した。青年も立ち上がり、言われるままにそれを見ようとする。

「なんだ、何がいるんだ?」

「ふふ、都会に住んでいるとそういうのも節穴になるのかな?」

 小馬鹿にするような態度で青年を挑発する彼女は、更に別の場所を指差しながら。

「ほら、あそこにもいるよ。ここにも」

 青年は益々困惑する。女の子の言うそれが何なのかが一向に分からなかった。

 しかし、唐突にそれらは視界に入った。

「あ、セミだ……」

 一度見つけてしまえば連鎖的に次から次へと正体が暴かれていく。

「都会じゃあまり見ないでしょ?」

「うん、そうだね。さっきまで散々聞こえてたはずなのに、見るまですっかり忘れてた気がする」

 大人になると、見えていたものもいつの間にか見えなくなってしまうとはよく言ったものだ。

 大木に止まっていたのはアブラゼミだった。ジージーと騒々しく鳴くばかりで、ミンミンゼミのような面白みは全く無い。

 二人は少しの間木に止まるセミを見続けていた。

「……子供の頃、よくこうやって取っていたっけ」

 ぼんやりと言葉を口にすると、青年はおもむろに低くしゃがみ。そしてほぼ無意識の内に、跳んだ。

 自分の身体が一瞬だけ宙に浮く感覚がした。次の瞬間。

「う、あ、わあぁぁぁ!!」

 セミは、ジジジジジジジジっと音を立てて青年の手の中で暴れ出し、それにたまらず手を放した。セミは勢い良くどこかへと去っていく。

 うろたえた青年はバランスを崩し、後ろに倒れて尻餅をついた。

「ちょ、ちょっと大丈夫!?」

 その姿を見て、女の子は困惑した表情で覗き込んでくる。青年の表情もひどく驚いていた。

「どうしたの……? いきなりセミなんて掴もうとして」

 その通りだった。どうして自分はこんなことをしたのだろうか。

「ごめん、分からない。けど、何だろう……凄くそうしたかったんだ。そうしなきゃいけないような気がしたんだ」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。だが、言った通りだ。セミを掴もうとしてしゃがむ寸前、本当にそうしなくてはいけないような気が青年にはしたのだ。

 女の子は尚も困惑した様子で青年のことを見つめている。

「とにかく、立とう?」

 彼女のその一言ではっとなる。冷静になり、落ち着いた青年はすくっと立ち上がった。

「悪い。びっくりさせちゃったな」

「ううん、大丈夫。それよりも君の方こそ大丈夫?」

 自分でこけたにも関わらず、心配されるのはどこか気恥ずかしく感じられた。

「俺は平気。それよりも十分休憩したんだし、そろそろ行かないか?」

「うん、そうだね。夏だからって、早く行かないと日が暮れちゃうかもしれないし」

 女の子は頷くと、公園の出入り口に向って歩き出した。青年もそれに合わせて歩き出す。

 空に浮かぶ雲は、その色を薄っすらと橙色に染め始めていた。


   3


 公園を出てからの道のりは意外と長かった。

 二人は、歩きながら互いのことを話しては、笑い合い、理解し合っていった。途中、喉が乾くことすらも忘れているほどだった。

 青年が子供の頃の話。女の子が子供の頃の話。多くの時間が過ぎ去っていった。

 そして、いつの間にやら日は暮れ始め、今日が乾いた空気であったのもあり、この時間帯には吹く風も心地よいものになっていた。

 だが要因はそれだけでは無い。今いる場所も関係している。二人は山の斜面に面した周りを田んぼに囲まれた車道を歩いている。

 この辺りはどうやら風の通りが良いらしく、常にそよ風が吹いていて、時折強めの風も吹かせていた。

「この上が目的地?」

 青年が斜面を見上げながら問う。

「うん。君にはそこにあるモノを見てもらいたいの」

「そこには何があるんだ? 今まで、何となく聞かない方がいい気がして聞かなかったけど、そろそろ教えてくれても良いんじゃないか?」

 青年は純粋に何があるのか気になっていた。けれど、その一言を聞いた途端、女の子の足取りが若干だが鈍った気がした。

「あはは、それはできないよ。だって、今それを教えたら何の意味も無くなっちゃうでしょ?」

 そんな詰まんないことはできないよ、と女の子は笑った。

「まぁ、それもそうか。じゃあ、精々楽しみにしておくよ」

 後頭部で手を組みながら、青年も小さく微笑んだ。女の子も、そういうことだよ、と微笑む。

 二人はしばらくの間歩き続けた。

 するとその時、唐突に女の子が足を止めた。それに疑問符を浮かべた青年も数歩遅れて足を止める。

「どうしたんだ?」

 立ち止まる女の子の元に戻ると、眉をひそめながら問いかける。

「……ねぇ」

 しばしの沈黙。からの呼びかけられる声。

「君は、死んだ人間はどこに行くと思う?」

「……え?」

 最初に出会った時のような、脈絡の無い問いかけ。

 青年は一瞬だけ怪訝に思ったが、あえて真剣に考える。手を顎に当てて黙考する。

「あの世……って言っても君は満足しないだろうから、俺なりに考えてみるけど。多分、消えるんじゃないかな」

「どうしてそう思うの?」

 即答だった。その声音はいたって平坦。

 青年は彼女の意外な反応に呆気に取られていた。少しだけ緊張した面持ちで理由を述べる。

「少なくとも、俺はその方が良いと思ってる。ほら、何ていうか俺、自分がいらないんだ。だから、綺麗に消えれるならそれも良いかなって」

 そう言って青年は困ったような笑みを浮かべた。

 自ら命を絶とうとまでは思わないが、嘘偽り無く、いつ死んでも構わないぐらいは常に思っていた。

「そう。でもね……――――」

「えっ……?」

 その時、強めの風が大きく吹いた。

 彼女は何を言ったのだろう。小声だったのも相まって上手く聞き取ることができなかった。

 次第に風も止んでいき、二人の間には代わりに沈黙が流れていく。女の子の表情は悲しげだった。

 青年にはこの状況をどうしていいかが分からなかった。

 そうして困り果てていると、しかし、数秒間女の子は目を伏せて、またあの薄っすらとした微笑に戻っていった。

「あはは、変なこと聞いちゃったね。ごめん、早く行こう」

 言うと彼女は歩き出した。

「あ、うん。そうだな、行こう」

 青年も再び歩き出す。

 夕方のそよ風を気持ち良いと思っていたのはいつ頃までだっただろうか。気が付くと、目の前を歩く女の子の髪を揺らすさわさわとした風は、まるで夏はおろか、残暑の終わりすらも感じさせられるほどの冷たい風に変わっていた。


   4


 小さな山の中の、とても長い石段を二人は登っていた。

 新しくも古くもない、しっかりと掃除の行き届いているらしい少し幅の広めな階段からは、後ろを振り向くと眼下に街が一望できる。

 左右には奥が見えないほどに密集した木々の壁が迫り、ふと上を向くと、何人かもまた同じように登っている姿が伺えた。 

 そんな普段登り慣れない数の段に息を切らしながら黙々と足を動かすのは、大学の夏休みで帰省しているとある青年。

 そして横には、麦藁帽子を被り白のワンピース姿をした女の子が歩いていた。

「あと、少しのはずなのに……」

 はぁはぁ、と呼吸を乱しながら、青年は掠れるような声で呻いた。

「都会の登る手段は全てエスカレータにでもなっているの?」

 その姿に苦笑しつつ、女の子はあくまでも軽やかに登り続ける。足のペースは青年に合わせていた。

「う、うるさいな……。エレベータだってあるぜ?」

「あっはは、何それ―」

 青年の冗談に思わず笑うと、それにつられて青年も笑った。

 階段は後少しで終わろうとしていた。

「それにしたってキツイな、これ。今まで散々歩いてきた所為もあってか、足が棒だ」

 いつも家に篭っては本ばかり読んでいた青年にとって、長い距離を歩き続けるのは久しぶりのことで、当然のようにそこに身体がついていくはずなど無かった。

「やっぱり都会に住んでると、足腰なまるんだね。私はもう、ずっとここでいいや」

 そう言いながら、女の子はぴょんぴょんと石段を飛ばしていく。その姿を青年は恨めしそうに見つつ。

「都会に来れば分かるぜ。思ってた以上に便利にできてるんだってな」

 秒単位で正確な交通機関。田舎には真似できない、何でも揃う専門性の高い店舗にオシャレな飲食店などなど、娯楽に満ちた繁華街は楽しみ方で飽き知らずだ。

 青年は都会の便利さを一つ一つ挙げようとしていた。

 しかしそこで。

「ほら、見て君。やっと着いたよ」

 ちょうど最後の石段を登り終えてしまった。

 そこは、流石に都会とまではいかないが、喧騒と活気に満ち溢れていた。

 本来そこには、大きく開けたスペースがあったのだろう。登り終えた石段から更に先へと続く石畳の左右には、いくつもの屋台が軒を連ねていた。

 そこからは、ありとあらゆる食べ物の匂い。わらわらと集まる人の群れ。大声を張り上げる威勢の良い声などで溢れかえっていた。

「ここって……」

「お祭り、だよ」

 青年は驚いていた。だが、それは今まで明かされなかった目的が明かされたからでは無い。

「ああ、それは分かる。けど、こんなところで祭りなんか……してたか?」

「うん、してた、毎年ね。どうしたの? もしかして、忘れてたの?」

 青年は自分の記憶を疑っていた。どうして毎年執り行われているはずの祭りを全く覚えていなかったのか。

 覚えていさえすれば、こんなことは驚くに値しないはずなのだ。いや、それ以上におかしなことがある。むしろ、何故この女の子は秘密と称して誰でも知っていておかしくないはずの祭りへ、何も言う事無く連れて行こうとしたのだろうか。

 そして何より、何故この町の出身であるはずの自分が、この祭りの存在を知らないのか。

 青年は論理と記憶の矛盾の中で混乱していた。そこに。

「ねぇ?」

 冷たく透き通った声が、女の子の口から発せられた。

「な、なに?」

 青年は何とか平静を装いながら返事をする。

「行こう? 色々見て廻りたいんだ―」

 そう言うと、女の子はにこやかな表情で青年の手を取った。

 その手は、先ほどとは打って変わって冷たく感じられた。それは青年の体温が上がっていたからであろうか。

「あ、ああ。分かったよ」

 そして、青年は引かれるまま女の子に付いて行った。


 祭りの雰囲気は決して悪いものではなかった。

 女の子が興味を示すものにひたすら青年が付き合うだけであったが、そこで出くわす店主のおじさんにしろ、元気良くはしゃいでいる子供たちにしろ、どれも本当に楽しそうに感じられた。

 青年もその雰囲気の中で、次第に当初の疑念を忘れかけていった。

「見て見て、出目金だよ!」

「おう。どうした、食いたいのか?」

「はぁ!? どうしてそうなるのー?」

 きっと気のせいだ。大学での新生活に慣れるのに必至で忘れていただけだ。それに、地域の祭りというのもあるだろう。たまたまこの祭りの存在だけを知らなかったというのも考えられる、

 青年はいつの間にか、そう言い聞かせ始めていた。

「あ、ねぇアレやってよ!」

 人の行き交う中を二人で歩いていると、立ち止まり、女の子はある屋台に指を指した。

 そこには棚が三段設置されていて、いくつもの箱が置かれていた。そして、たった今見知らぬ少年が店主に小銭を渡しており、代わりにあるものを渡された。それは木製の筒だった。少年はそれを真っ直ぐに構えると、突然パンッ、と勢いの良い音を響かせた。

 直後、棚に陳列された箱はその場でパタリと倒れる。店主はそれを少年に渡した。

「射的か……」

 祭りの射的などいつ以来だろう。よくは覚えていないが、もう随分とご無沙汰だった気がする。

 けれど、青年は何やら好奇心のようなものに突き動かされ、そのまま屋台の店主に話しかけた。

「おじさん、五発分やらせてよ」

「おう、250円な!」

 青年はきっかり250円を手渡すと、射的銃を貰った。

 久々に手に持った銃は、意外と軽く感じられた。

「そうだよな……あの時はまだ子供だったもんな」

「君の欲しいモノを取って良いよ」

 隣で女の子がそう言った。

 自分の欲しいもの。青年は直感的に目線を配った。目に付いたのは、なんてことは無いただのガムの箱だった。

 青年は銃を構え、それに狙いを定める。銃身は、多少緊張しているのかブレていた。

 少しの間狙い続け、そしてゆっくりと引き金を引く。

「あ、惜しい!」

 女の子が悔しそうにウキウキとしながら言った。

 残念ながら初弾は外してしまった。

 コルク玉は惜しくも箱の真上を通過する形で飛んでいき、後ろの壁に跳ね返ると虚しく地面に落ちた。

「おうっと残念~。次はどうかなぁ?」

 その光景に店主は、あからさまに煽るような態度をとった。

 しかし。

「……いや、次はイケる」

 店主の言葉とは裏腹に、むしろ青年は勝利を確信していた。とくに根拠があるわけでは無かった。が、何故か当たる気がしたのだ。

 青年はもう一度ガムの箱に狙いを定める。さっきよりも少しだけ銃身を下げ、今度はしっかりと握る。

 その時。

――えっ……?

 何かが一瞬脳裏を過ぎった。

 それは、自分がこの後箱を倒し、見事景品を手に入れる未来の光景。

 今のは何だったんだ?

 青年は一瞬で目の前のことなどどうでも良くなり、引き金を引く指を離そうとした。

 だが。

「あ、当たった! やったね、当たったよ!」

「えっ……」

 すでに玉は発射されていたらしい。

 コツンと小気味良い音を立てて棚から落ちたガムの箱は、たった今青年が見た光景と全く同じように落ちていた。

 青年は、昼間目覚めた時以上の不気味な焦燥感に包まれていた。

――一体何が起こったというんだ? 今のは何なんだ? そもそも今日はおかしい。セミを掴もうとした時もそうだ。あれ? いや、違う。そもそも全ての始まりは……――。

「ねえ、ちょっと!」

 突然耳元で叫ぶ声がして、青年はハッと我に帰る。

 気が付くと、そこでは怪訝な表情をした女の子と店主のおじさんが青年を見つめていた。

「おい、あんたの連れどうしたんだ? 急に固まったりなんてしてよ」

「あ、ご、ごめんなさい! ほら、行くよ! いつまでもここにいたら迷惑でしょ!」

 店主の心配した様子に慌てて女の子が頭を下げると、彼女はそのまま青年の腕を半ば強引に掴み、屋台から離れる為に引っ張っていった。青年はひどく無抵抗だった。


 放心したまま引っ張られ、青年が連れて来られたのは大きな木造の建物の壁際だった。

 辺りはすでに暗くなっていて、建物に寄りかかっている自分と、その近くにいる女の子以外は周りに何があるのかはよく見えない。

 最初に登ってきた石段やら石畳、地形の形状からこの祭りが神社のそれであることは明白だった。

 すなわち、今いる場所は神社の建物の側面だ。

 青年が少し冷静になった頭でそこまでを理解したところで、女の子が恐る恐る口を開いた。

「ねえ、さっきはどうしたの? いきなり、動かなくなっちゃったりして……」

「ごめん」

 無気力にそうとだけ返事をする。

「あ、いや謝られても困る、というか……その」

 手をわたわたとさせながら、女の子はどう返そうか悩んでいた。しかし、青年にとってはそんな彼女の気持ちなど最早どうでも良いことだった。

「今日、おかしいんだ」

「えっ?」

 青年は腕をほんの少しだらけさせて、唐突に、ポツリポツリと呟くような言葉を紡ぎ始める。

「昼間、あの公園でセミを掴もうとした時も、この祭りに踏み入れた時も、さっきの射的の時も、よく考えればおかしいことだらけだったんだ」

「………………」

 女の子は何も言わずに、ただ耳を澄ましていた。

「本当は、この祭りが何なのか、全く分からない。身に覚えが無いんだ。俺はこの町の出身のはずなのに、何故かこの祭りのことを知らなかった。そんなのおかしいだろ? 俺の記憶には、昔のこの町での思い出が沢山あるんだ。祭りで遊んだ記憶もある。なのに、どうしてこの祭りの記憶だけが無い?」

「それは……」

「それだけじゃない! 俺はさっき、銃の引き金を引く寸前、あの景品が棚から落ちる光景が浮かんだんだ。妄想なんかじゃない。アレはなんだ? まさか未来視だなんて言うつもりか!? こんなこと現実で起こるわけが無い!」

 青年は高ぶる感情のままに拳を後ろの壁にたたき付けた。

「ちょ、ちょっと落ち着い――」

「大体、君は誰なんだ!? そうだ、そもそもそこからしておかしいじゃないか……。俺たち、初対面だったよな? なのに、どうして俺と君は……初対面なはずの俺と君は……こんなにマデ親シクシテルン――――」

「もうヤメテ!!」

 出会ってから一度も聞く機会の無かった、彼女の耳をつんざくような叫び声に青年は思わず口を閉じる。

「お願い……もうヤメテ」

 二度目の彼女の声は、微かに震えていた。顔を手で覆い、俯きながら青年に対し懇願する。けれど、青年は何も答えない。

「ごめんね、そうだよね。おかしいよね。無理も無いよ。こんなこと、普通じゃないもの……」

 ポタポタと零れ落ちる女の子の涙にも青年は意に介さない。ただひたすらに、黙って続く言葉を待ち続けている。

 彼女は一体何なのか。考えれば考えるほど、今日あった様々な出来事が浮かんでは消えた。

 青年の頭の中には、笑顔で語らう女の子の姿が浮かんでいた。

「……でも、もう君を返すつもりはないよ」

「え?」

 しかし、最後に発せられた言葉はとても冷たく響き、青年の脳裏に浮かぶ笑顔の少女を濁らせる。

「あれを見て」

 そう言うと、女の子はすっと顔を上げた。と同時に青年の目を見ながらある方向に指を指す。先ほどの射的を思い出すようだった。

 青年も指された方向を見る。

 そこには一本の曲がりくねった木があった。

「木……」

 だが、それだけではない。それはとても大きな木であった。

 更に断崖の斜面から生えている姿は、力強さと同時に異様な雰囲気を醸し出している。

「君は、アレを見て何か思い出すことは無い? いや、思い出さないはずなんてない。だって君はこれを知っているもの」

 彼女が何を言っているのか分からなかった。

 けれど、青年は素直に、そしてもう一度注意深く意識することにした。足取りおぼつかずに歩き出し、その巨木の前へと歩み寄る。

 手の伸ばし、実際に触れる。すべすべとした感触が手の平に伝わる。

「……フッ、クフフ。クハハハハ」

 突然青年は笑い出す。女の子は動じない。

 しばらくの間衝動が収まるまで青年は笑い続けた。そしてある時、何の前触れ無くゆらりと口を開く。

「なあ……俺、最初に君に言ったよな? 君は誰だ、ってさ。そろそろ教えてくれても良いんじゃないか?」

 薄々感づいてはいた。こんな出会い方ならばそれも有り得るのかもしれない。ただ認めたくなかった。こんなにも自分を理解して、一緒に笑ってくれる人は始めてだった。だからこそ、自分は最初から全てを無視してきた。けれど、それもどうやら終わりらしい。

「……いや、やっぱり答えなくていい。何となく分かるから。なあ、君は本当は――」

 盆の夏の物語なら、一つしかないだろう。青年は最後の一言を言おうとした。

 しかし。

「君は何か勘違いしているよ」

「え?」

 青年の言葉にほんの少し落ち込んだ表情をすると、女の子は目を伏せ気味に、淡々とした口調で喋りだす。

「君が気付くべきモノはそんなことじゃない。ほら、よく耳を澄まして。本当に思い出すべきモノが、そこにあるよ」

 再び指を差す彼女。釣られて青年もその方向に耳を傾ける。

 宵の口が写す世界は暗闇しか見せない。そこに有るものでさえ、無いものと同じにさせる力を発する。

 けれど、だからこそ見える微かなモノがあった。音だ。

 それは青年の鼓膜を僅かに揺らし、その振動を大きく増幅させてある形を映し出す。

 青年は小さく呟く。

「……セミ?」

 セミの鳴き声がした。だが、昼間のようなジージーとうるさい音ではない。

 羽を繊細に震わせて儚げに夜闇に紛れる姿は、たとえ見えなくともその姿をありありと彷彿とさせる。

「カナカナって鳴き声、私大好きなんだ」

 さっきと同様淡々とした声を聞いた青年は、驚いて頭だけで振り返る。気付くと彼女が真後ろに立っていたからだ。

「あ、ほら凄い。こんな目の前にいるよ」

 淡々と、あくまで平坦に。大根役者のような声で言葉を綴る。

 もう一度木を見る青年。目の前には、本当にヒグラシが止まっていた。

「やめろ……」

「ね、アレ取れないかな?」

 肩に手を置いて女の子は語りかける。

「やめてくれ……」

 青年にはまたしてもある光景が浮かんでいた。

 それは全ての発端であり、史実であった。だから、その通りに動かなければならない。

 青年は自分の意思とは反対に、崖に近づき、ヒグラシの止まっている方に手を伸ばす。

 一歩間違えばそこは崖の下。

「ごめんなさい……」

 その時、女の子の声と共に何かの影が青年にぶつかった。

 小さな衝撃だったが、身を乗り出していた青年がバランスを崩すのは容易だった。

 ヒグラシに届きかけていた手が遠ざかる。身体が不自然に宙を浮く感覚。

 そこからはとてもゆっくりとした時が流れた。

 青年は、自分に懺悔した女の子に振り返ろうとして身体を捻った。けれど思うように身体は動かない。スローな時間の中で、やっと彼女の顔を見る。驚愕だった。 そこには、自らも身を乗り出して今にも崖から飛び降りようとする女の子がいた。

――ダメだ! そんなことしたらいけない!

 青年は瞬間的にそう思った。されど、その先は口を開くよりも早かった。

 女の子の足が地面を離れる。そして、力いっぱい腕を伸ばすと青年の腕をギリギリ掴んだ。落ちながらも何とかして抱き寄せようとする。

 その行動からは、さっきまでのような冷たさは何処かにでも消えたように、温かく感じられた。

 だから、そんな彼女に青年も応える。落ちながらも、自分より少しだけ背の低い少女をぎゅっと抱きしめた。女の子はその感触にびくりと身を震わせながらも、すっと目を閉じた。口元が僅かに緩む。

 青年も必至に目を閉じた。このまま落ちたらどうなるのだろう。歯を食い縛りながらも一瞬だけ思考した。けれど速度は、見る見ると重力に引かれて加速していく。

 二人の背後には濃紺と僅かな光の空が広がっていた。まるで世界を二つに分けるかのように。だが、それもすぐに二つは一つへと消えていく。

 すぐ目の前にまで底が迫る。

 そして遂に、たそがれの狭間に二人は落ちた。


  5


 ここはどこだろう。辺りは黒で塗り潰したかのように暗く、もはや明かり無しでは何も見えないほどだった。のはずだった。

「……あれ?」

 見える。見えている。今自分は立っている。

 そして目の前に見えるのは壁。いやただの壁ではない。これは岩壁だ。

 なら、そこら一帯に見えるものは何なのか。頭を左右に動かして、青年は目を凝らした。

 そこには木が沢山あった。むしろ、木しか見当たらないほどに。

 青年は今いる場所を把握すると、溜息と共にひとまず落ち着いた。そして、改めて思い出す。遥か上の岩壁を見つめながら。

「はっ、そうだ! 俺はあの時……崖から落ちた。なら、何故俺は今こうして助かって……あっ」

 その時、青年の身に電撃が走った。

 彼女だ。彼女はどこだ。

 落ちる瞬間までは確かに一緒だった。では今はどこにいるのか。まさか、助かったのは自分だけなのか。そんな考えたくないことが頭を過ぎる。

「お、おーい……!」

 どこにいるんだ。そう叫ぼうとして、何かが足に当たった。

 ん?

 これは何だろう。何か柔らかいものが足に当たった。

 疑問に思い下を向く。直後。

「……――――!?」

 青年は目を疑った。そんなわけがない。青年の頭は否定の一色に染まっていった。

 どういうことだ。何が起こっているんだ。青年はその得たいの知れない事実に崩れ落ちた。

 その時。

「おはよう、良く眠れた?」

 聞き慣れた、女性らしい凜とした声が耳に届いた。

 縋るように、勢いよく後ろを振り返った。そこには、紛れも無い女の子が佇み微笑んでいた。

 淡い白のワンピースに長い黒髪。麦藁帽は被っていなかったが、そこにいるのは間違いなく女の子だった。思わず安堵の笑みが零れる。

 しかし、ならコレはなんだ……?

 青年は一瞬で表情を元に戻すと、恐る恐るもう一度コレに対し目線を配る。

 身体全体に力が入らず、目線だけがあちこちに動いて回る。

 そこには、薄く汚れた白のワンピースに、乱れた長い黒髪の女の子と。

 同じく薄汚れた黒のTシャツを着た、赤茶けた短髪の青年自身が横たわっていた。

「まだ思い出せない?」

 今にも錯乱しそうな青年に、近寄りながら問いかける。

「なんだよ……なんだよこれ! これは君だ……。それで、これは俺だ……!

 どうなってるんだよ!? 分けわかんねえよ!!」

 女の子と横たわるコレとソレを交互に見交わしながら、青年は頭を抱え込んだ。

 どう見ても死体だった。うつろに見開いた瞳は何も写してはいない。なのに、自分の後ろで悲しい表情をする彼女は確かに今そこにいる。

 これじゃあまるで……。

「もう一度思い返してみて。今日、ここで何があったのかを」

「今日……ここで……」

 青年は混乱した頭のまま、少しずつ記憶を辿っていった。

 都会に嫌気が差して、夏休みの盆に帰省した自分は、その日の気まぐれで祖母の墓参りをした。その後、丘の上で久しぶりに中学校以来会っていなかった同級生と再会して……――。

――え、同級生……?

 その時、青年の心が一つ軽快な音を立てて繋がった。無くしていたピースが見つかる。次から次へと連鎖的に嵌まっていくそれらは、流れ出した記憶を取り戻す。

「……そうか、俺はあの時」

「やっと思い出してくれた?」

 声と共に女の子がすぐ傍にまでやってくると、青年はすっと立ち上がった。

「あぁ、悪い……。随分と迷惑かけちゃったみたいだな」

「うん、凄く苦労した」

 微笑ながら女の子は頷く。

「あの時、君はヒグラシを取ろうとして、丁度その時鬼ごっこをしてた子供にぶつかられた。それで、ついでに私も手を伸ばして落ちちゃった」

「それで死んだ」

「うん、死ぬ寸前のことは私も覚えてないけど、きっと凄く痛かったんだろうなとは思う」

 女の子は傍で横たわる自分たちの死体を見ながら複雑そうな表情で言う。

「けど、その先が思い出せないんだ。……俺は、どうして今まで記憶が無かったんだ?」

 青年は眉間にシワを作りながら頭を捻った。それに女の子が答える。

「それは……きっと君の願望がそうさせたんだと思う」

「……どういうことだ?」

 青年は心当たりが無いという顔をする。

「ねえ、君は前にこう言ったよね。死んだら消えるんじゃないかって」

 女の子はいつかの青年の言葉を復唱した。青年も心の中で頷く。

「あの時君は、死んだことに激しく後悔してた。たまたま近くにいた人から、あの世みたいなものは無い、魂は還らないって聞かされて」

 青年は、その言葉にどことなく聞き覚えを感じていたが、あえて何も言わない。女の子の言葉を待つことにした。

「死んでも死ねないなら地獄じゃないか。そんなことを君は言ったわ。そうしたら、急に君の身体が透けだしたの。それで、びっくりして君に触れた瞬間、空間っていうのかな? すぐ傍でそれが割れたんだ」

「空間が割れた?」

 青年は漫画の話でも聞かせられているような、とても疑わしい面持ちで疑問符を浮かべる。

 しかし、彼女はいたって真面目にその時起こったことを話し続ける。

「うん、割れたの。私も信じられないって思うよ。それで、私たちはその割れた空間の中に吸い込まれた。私はその中で沢山の君の記憶を見た。まるで、夢を見ているみたいな感覚だった」

「………………」

「それと同時にいくつもの記憶が流れ出ていくのも見た。そんな光景をずっと見せられ続けた。このままじゃいけないと思って、私は君を探したの。そしたら……」

「俺が目覚めたあの丘にいた、っていう感じか?」

 ここに来てようやく自分とも共通する情報が入ってきて、青年はすかさず反応した。

「そう。あの時は最初、私のことを覚えてなかったことにちょっと傷ついたけどね」

「悪い、ひどいことしちゃったな。覚えてなくて」

 そう言うと、青年はバツの悪そうに下を向いた。

 けれど、女の子は首を横に振る。

「ううん。こうして思い出してくれたんだから、結果オーライだよ。ともあれ、結局君は、死んだことも忘れて眠りに就こうとしたんだよ。死んでもいなくなれないからと言って」

「ああ、その現象が何なのかは分からないけど、きっとそうなんだろうな……」

 死後の世界はまだまだ訳の分からないことだらけに違いないのだから。青年がこれも一つの現象だと納得しようとしていると。

「今でも消えたいって思う?」

 女の子は挑戦的な口調と態度で青年に問うた。

 それに対して多少苦笑いで返しながら。

「いや、もう消えたいとは思わないかな。あの記憶の世界で、いつの間にか考えが変わった。もうこりごりだ」

 肩をすくめながら降参のポーズをとる青年。

 そうだ、こんなにまで必至に自分のことを助けようとしてくれた人がいたのだから。

「うん、それで良いんだよ。未だに消えたがりだったら私、流石に愛想が尽きるもの」

 そうして女の子は優しく微笑む。青年もそれに優しく微笑み返す。

 傍に立つ二つの生と、横たわる二人の死を背景に、ようやく一つは二つへと戻っていった。




 エピローグ


――人の死に終わりは無いのだと思う。

 死とは自分の存在が認められなくなること。

 目覚めた自我が自分の存在を認めた時点で、存在は自我を失わない限り死にはならない。

 そして自分の自我を消すことは不可能なこと。人は自我の無い自分を想像することができないから。

 だから眠るしかない。眠っていれば自我を消すことはできなくても、曖昧にすることはできるから。

 だけど、どうか眠らないで。生きているのか死んでいるのかを曖昧にしないで。

 君がそれを望まなくても。私はそれでも確かめて欲しい。

 生きている証拠を示す為に起きて欲しい。


「これからどうする?」

 女の子は腕を後ろで組みながら歩いていた。

 その横では青年が歩幅をそろえて歩いている。

「今日みたいに、お前の行きたい場所に付いて行く」

 生きていた頃は、あまり関わりの無い二人だった。

「相変わらず主体性が無いね。うん、じゃあそれでいいよ」

 どうやらここからが二人の始まりらしい。

 死から始まる物語。それもまた、あっても良いのかもしれない。

 すっかり日も暮れた夜空に浮かぶ半月を見つめながら、青年は林の中でそう思う。


                                   (終わり)

 本当は二週間ほどあれば書き上げられたはずの短編を、某ディズ○ー系クロスオーバーRPG作品にうつつを抜かしたことで予定を一週間伸ばした人です。いいお話ですよね、あのゲーム。中学時代の厨二心が蘇るようです。

 ストーリーの壮大さも流石です。圧巻です。

 自分もあれぐらい壮大で尚且つ面白い作品を書いてみたいものです。しかし、チマチマと自分の楽しみで書いているだけの私には、夢もまた夢の世界なので、ここでひっそりと読んで下さる読者様の心の内を想像しながら卵かけご飯でも食べてることにします。

 どうもお久しぶりです、亜麻猫です。

 今回、Twitterのとあるフォロワー様より夏休みをテーマに何か書いて欲しいという要望を受けて書いてみました。

 と、言いながら最早テーマである夏休みは、この物語を形にする上で特に重要ではなくなりましたが。実際のところ、夏休みである必要はありませんでしたし。

 さて、この「いらない君を忘れないで」ですが、私としては久々に筆、もといキーボードを執った作品になるわけですが、自分では不思議な出来栄えだと思っております。それなりに自負はしていますが、同時にかなりヘンテコだとも思っております。良くも悪くも自分らしいな、と。

 この作品がはたしてどのように読者様に受け取られるのか、それを想像しながら私はまた卵かけご飯を食べることにします。


 それはそうと、今私は専門学生をやっております。毎日がとても忙しく、目まぐるしく時間が過ぎ去っていきました。

 そして気が付くと資格も一つ取得していました。びっくりです。

 今は夏休みの為、ある程度まとまった時間の作れた私は何か書きたいなと思っていました。

 そしたら、今回都合よくもお題を頂戴したというわけでございます。

 ここ最近は生活にも慣れてきて、少しずつ余裕を取り戻しつつもあるので、これからは書く頻度も少しずつ上げていこうと考えています。

 最後に、この物語を書くきっかけを下さったフォロワー様と、ここまで読んで下さった読者の皆様、ありがとうございました。

 死に終わりは無いのですから、私が物書きの卵としての自我を曖昧にしない限り、書き続けていく所存であります。

 それではまたいつか別の作品にて。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 描写が綺麗でその中に入り込める作品でした。 女の子がたくましいと言いますか強いですね。 私好みです← 素敵な作品をありがとうございました。
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