一生の苦悩
一人目、井上 一生は、ここ数日悩んでいた。
彼は、現在は42歳。男の厄年である。
身長は、175cmと高めなのだが、毎日の接待と、運動不足なため、軽くメタボになっている。真っ黒の短髪に、黒ぶちの眼鏡、濃い茶の瞳に、程良く飛び出した腹。その容姿は、よく町中で見かける、和製カーネルサンダースを彷彿させるものがある。
その善良そうな彼を悩ませている問題とは、部下の横領だった。
一生は、一流の会社に勤め、営業部長のポストに就いている。バブルの絶頂期に、今の会社に就職し、始めは面白い様に物事が進んだ。25歳の時に、今の妻と結婚し、一男一女の子宝にも恵まれ、側から見れば、何の迷いもない順調な人生だ。
しかし、バブルの崩壊と共に、会社の業績は傾く。会社は、不景気を理由に、大幅なリストラを決行し、たくさんの同志達が、一生の前から去って行った。何とか残っているものの、上からは業績のアップを毎日せっつかれ、下からは、つきあげられる毎日。給料は下がる一方で、残業時間ばかりが長くなる。
そこで、一念奮気で立ち上げたプロジェクトは、上手く軌道に乗り、後は実行のみとなっていたのだが、信頼していた部下が、金を持ち逃げし、一生は今、追い詰められていた。
今のところは、まだ上司には話していないが、あと1日が限界だろう。そう、隠し通せるものではない。部下が行きそうな場所は、探しに探しまくった。しかし、彼の居所は、ようとして知れない。
ため息をつき、一生は、会社を後にする。
駅のホームで電車を待っていると、このまま飛び込んでしまおうかという、考えまで浮かんでくる。
一生は、何とか絶望の淵で踏みとどまり、安住の地である、我が家へと重い足を向ける。
慣れ親しんだ、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗り、一生は、考える、
数年前にローンを組み、一戸建て購入したばかりで、死ぬ訳にも、会社を首になる訳にも行かない・・・。
子供達だって、長女の凛は16歳の高校1年生で、長男の聡は14歳の中学2年生。これから大学に行かせて、就職、結婚まで見届けたい。孫だって、人並に抱いて、おじいちゃんと呼ばれてみたい。
家族の幸せのために、こんな所でくじけている場合ではないのだ。
「・・・はぁ・・・」
魂まで抜け落ちそうなため息をつき、一生は、狭い箱の中から解放され、マイホームへと帰って行く。
「ただいま」
鍵を開け、家の中に入ると、玄間で長女の凛とはち合わせる。凛は、まるで汚いものでも見るかの様な視線を一瞬向け、無言のまま、2階にある自分の部屋へと駆け上がって行く。
「あら、あなたお帰りなさい」
妻の朝佳が、少し遅れて、一生を出迎え、使いこんだ鞄を受け取る。
「朝佳、凛はどうしたんだ?」
不機嫌だった娘を思い返し、一生は、妻に尋ねる。
「ああ、何時もの事なのよ。私が、あなたの服と一緒に、凛の洗濯物を洗ったから、それで怒っているみたいなの・・・」
靴をぬぎ、上がってくる一生に、朝佳は言い淀む。
「・・・バイ菌扱いだな・・・」
妻の返答に、一生は、何とも言えない表情になる。
正直、最近では、家にいても落ち着かない。年頃の娘は、自分をバイ菌扱いし、ろくに口を聞こうともしない。会社で理不尽に耐え忍び働いているのは、一体誰の為なのか・・・?そんな事を考えると、時々、酷く虚しくさえなる。
「あなた。気にしないで。今の女の子は、何処でもそうみたいだから」
疲れた表情の一生に、朝佳が、慰める様に話しかける。
「それで?凛は、まだバイトを続けているのか?」
「ええ、決められた時間だけ。大丈夫ですよ。バイトが終われば、直ぐに帰って来てますから」
「・・・全く。こずかいが欲しいのなら、毎月渡しているのに・・・」
背広を脱ぎながら、一生はぼやく。
高校に入り、凛は、バイトを始めた。勉強はきちんとするとの約束だったので、一生達は、渋々承諾をした。約束通り、学校の成績もいいため、一生には、凛のバイトを止める事が出来ないでいる。
「仕方ないですよ。年頃の女の子には、親にも言えない買い物もあるでしょうから」
そう言い、一生の肩を軽く叩き、朝佳は、食事の準備のため、台所へと向かう。
一生が服を着替え台所に行くと、隣の居間で、長男の聡が、ゲームをしていた。
「面白いのか?」
聡の横に座り、一生は話しかける。
「あっ、お父さんお帰り。うん、これ最高なんだ」
テレビの画面を見つめたまま、聡が答える。
聡との関係は、極めて良好で、特に問題はない。
一生がゲームのパッケージを手にして見ると、RPGと書かれ、内要は、勇者が魔王を倒し、平和をもたらすというものだった。
「聡、お前は何になりたいんだ?」
「俺?やっぱり、勇者かな?」
パッケージを戻しながら問いかけた一生に、聡が、今度も顔を見ずに答える。本当は、将来の事について聞いたつもりだったが、子供らしい息子の返答に、一生は、思わず頬を緩ます。
「で?お父さんは、何が好き?」
今度は聡が、一生に問いかけてくる。
「・・・そうだな。商人かな?」
「・・・嘘、何それ。何で?」
一生の返答に、聡は、初めて視線を移し、父の顔を驚いた様に見つめる。
「だって、商人なら闘わなくて済むし、お金も儲けられる。それに、旅立つ勇者達に、最高の武器や防具を用意してやれるだろ?いくら勇者が強くたって、商人や宿屋の主人がいないと、彼等は冒険も出来ないんだぞ」
「分かるけど、夢なさ過ぎ・・・。まあ、お父さんらしいけどね」
一生の言葉に、笑った後で、聡はゲームの世界に戻って行く。
「あなた、ご飯出来ましたよ」
台所から、朝佳が呼ぶ。
「分かった、今行く」
一生は立ち上がり、台所に足を運び、何時もの指定席に着く。
そして、よく冷えた発泡酒を、旨そうに口に運ぶ。この安上がりな瞬間だけは、嫌な事が忘れられる。次に、妻の作ってくれた食事に、箸を運ぶ。薄味だが、妻の料理は、最高に美味い。
「やだ、あなた。もしかして、また太った?」
一生の正面に座り、朝佳は、程良く飛び出した一生の腹を見つめている。
「・・・ああ、かも知れないな」
自分の腹を撫で、一生は、特に気にした様子もなく答える。
昔は、剣道で体を鍛え、妻と知り合った頃には、それなりに引き締まりスリムだったのだが、日頃の不摂生で、今は当時の面影は、見る影もない。
「俺、知ってるよ。それって、メタボって言うんだよね?」
ゲームをしたまま、聡が背を向け、言葉を投げかけてくる。
「これは、頑張った証だ。でも、ちょっと痩せるか・・・」
残っていた発泡酒を飲み干し、腹に巻く脂肪達を睨みつけ、一生は、明日からのダイエットを誓う。
「そうね。あなた自身の健康のためにも、少しは痩せた方が、いいかも知れないわ」
朝佳も、静かに頷く。朝佳と言えば、今も細く、若さを保っている。
この日は、何事もない会話を繰り広げ、一生達は眠りにつく。
次の日、一生は重い足を引きずる様にして、会社へと出社する。やはり、横領をした部下の行方は知れず、一生は覚悟を決め、上司に報告をする。
上司からの反応は予想通りで、一生は満足に話も聞いて貰えず、自宅謹慎を命じられた。
・・・この先に待っているのは・・・。
一生にも、簡単に先の事が想像出来、彼の血の気は全身から、音を立てて引いて行く。
噂が直ぐに広まったのだろう、一生とすれ違う者達は、皆声を潜め合い、何かを話していた。しかし、誰ひとりとして、一生に手を貸そうとする者はいなかった。
夕闇の街に繰り出し、一生は、一人彷徨う。行くあてもなく、誰にも話せない理不尽の苦しみを抱えて。
何処をどう彷徨ったのか、気がつけば一生は、見知らぬ街を歩いていた。空は夜の暗闇に覆われ、それとは対照的に、町はネオンの光に溢れ、眩しく輝いている。
何軒か梯子をしたまでは覚えているが、どうやってここまで来たのかは、全く思い出せない。
その時、一生の携帯が鳴る。電話は自宅からで、朝佳の名前が表示されている。おそらくは、一生の帰りが遅いため、心配をしてかけてきたのだろう。
「・・・」
今の惨めな声を聞かれたくなくて、一生は、電話には出ずに、電源を落とす。
「・・・ごめんな、朝佳・・・」
申し訳なくなり、一生はうつむき、拳を強く握り締める。
そんな一生の目に、ある看板が飛び込んでくる。
そこには、『人生に迷われた方、やり直しのチャンスはいりませんか?当店では、必ず満足する結果を与えられます。さあ、その扉をお開け下さい』と書かれていた。
「・・・?人生相談か・・・?」
怪しげな看板の前に立ち、一生がつぶやく。
こんなもので人生が思い通りになるのなら、誰も苦労はしないと、一生は、乾いた笑みをもらす。
1度は立ち去ろうとするも、何故か気になり、一生は引き返し、扉に手をかける。
予想に反して、そこはスナックの様な店だった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけ下さい」
カウンターの中にいた20代の青年が、一生に、座る様に促す。
言われるままに、一生は、止まり木に止まる。店の中を見渡してみるも、客は自分一人の様だ。
「お客様、ご注文は?」
カウンターの中の青年が、一生に尋ねる。
「ああ・・・。あの、看板を見たんだが・・・」
「作用でございましたか。では、これにご記入を」
一生の返答に、青年は意味深な笑みを浮かべ、一枚の紙を差し出す。
そこには、
『なりたい職業は?
戻りたい時間は?
今の現状に満足していますか?』
等、不思議な質問が複数にわたり書かれていた。
「・・・えっ、これは?」
「さあ、お答え下さい。大切な事ですので、嘘偽りのないようにお願いします」
一生の質問には答えず、青年は、ペンを差し出してくる。
訳の分らないまま、一生はそれを受取り、ぼんやりとした頭で、質問に答え始める。
『なりたい職業?』
実的に答えるなら、大金持ちの息子だとか、会社の社長とかなのだろうが、一生には、書けなかった。頭の中に、何故か、聡が答えた、『勇者』という言葉が浮かんでくる。
本当は、商人の方が好きなんだが・・・。
笑いながら、一生は紙に職業は『勇者』と記入する。
次に、『戻りたい時間は?』
その質問には、迷わず、部下の横領が行われる前と書く。
『今の現状に満足していますか?』
この質問には、勿論、『いいえ』と答えた。
こんな理不尽な対応に、満足など出来る筈はない。
そうして、全ての質問に答え終えると、カウンターの中から、青年が紙とペンを回収する。
「お疲れ様でした」
「それで?これで、一体何がわかるの?何かの心理テスト?」
微笑む青年に、少しずつはっきりしてきた頭で、一生が尋ねる。
「ええ、その様なものです。喉が渇かれたでしょう?宜しければ、どうぞ」
そう言い、青年は、透通る様なブルーの液体を、一生に差し出す。
「ありがとう」
疑う事なくそれを受取り、一生は口に運ぶ。
「・・・?」
味は美味しいのだが、一生は、液体に違和感を覚える。
「どうか、いたしましたか?」
そう尋ねてくる青年の顔と声が、気持ち悪く歪み、やがて一生は、意識を失い、テーブルにもたれかかる。
「・・・うふふっ。まずは、一人目。『勇者』、井上 一生」
そこには、先程までの青年の姿は消え失せ、あの女神の様な女が立ち、意識を失った一生を、楽しげに見下ろしていた。
そうして人間世界から、始めから存在しなかった様に、その店と、一生は消え失せる。




