2-1 レーラの禁煙令
今回から章が変わります。こんな感じで短編を続けていければと思います。
白井怠助はリーズベルト城のひときわ風通しの良いバルコニーで、特注の椅子に腰かけていた。この家の一人娘レーラ・リーズベルトの婚約者として正式に認められ、もう一週間が経過していた。正式に穀つぶし(もとい居候)としての身分が確約され、今日も朝飯を掃除機のような馬力で吸い上げ、このバルコニーで心行くまでくつろぐことが許されていた。毎日働きもせずに飽きないのかとレーラに聞かれることはあれど、そのたびに彼は飽きるほど刺激が少ないことこそ本当の幸せだと答えていた。それにほんの少しでも今の生活に嫌気を感じるようなことがあれば、城中の使用人を一人見つければ済む話だ。例えば今、眼下で洗濯物を干す女中。彼女が額の汗を拭いて重い布団を物干し竿にかけるのを拝めば、この世の至福こそ我にありと再確認できる。
それに今日は怠助にも予定があった。城内の図書館から借りてきた有害図書(発禁になって押収した図書が保管されている)の中から、特にいかがわしいシーンを探すと決めていたのだ。タイトルは『人妻ユズの遍歴』で、パラパラとページをめくっていた。ところがお目当ての部分は一向に見つからず、二往復した挙句に怠助は諦めた。きっとこの国は未開すぎて、人妻が一人で出歩くだけでも大問題なのだろう。いささか落胆して本をテーブルに投げ捨てると、後ろから声がした。
「怠助君、ちょっといいかしら?…あら、読書中?」振り返るとレーラ・リーズベルトが立っていた。
「いや、もう終わったよ。あまり面白くなくてね」
「あら、『人妻ユズの遍歴』じゃない。」
「えっ!知ってるの?」怠助は驚いて顔を上げた。
「発売当時、話題になったのよ」レーラは顔を赤らめた。「それにあなたが思ってるような本じゃありませんからね。一途な夫人が生き別れた夫を求めて何百キロも放浪するのよ。純粋なラブストーリーなんだから。発禁になったのも最後の再会のシーンが過激すぎたからで、全体としては健全なほうよ。」
「そうかい、ありがとよ」
怠助はお礼を言うと、本の最後から読書を始めようとしたが、レーラがすぐにそれをひったくった。
「やめないさいよ、汚らわしい。本当に純粋な愛の物語なんだから。初めから読んでこそ価値のある本なのよ。遠い場所に引き離されていた夫婦がついに再会して、会えなかった時間を埋めるように愛し合うの。最後だけ読んだら、ただの官能小説じゃない」
「会えなかった時間を埋める?」怠助は鼻を鳴らした。「前から思ってたけど、君もロマンチストだよな。あいにく僕には、そんな色気はなくてね」
怠助は肩をすくめてテーブルの煙草をとった。と、またもレーラが、まるで主婦がタイムセールの卵をひったくるように、煙草を怠助の手から奪い取った。鷹にアイスでも取られた子供よろしく、怠助はしばし呆然としていた。
「一体、何のつもりだ?」ややあって怠助が聞いた。
「このことを伝えに来たのよ」レーラは奪った煙草をグシャリと潰した。「朝、言い忘れてたけど、今日からリーズベルト城は全面的に煙草を禁止します」
「おい、そりゃどういうことだ?ちゃんとした説明してくれるんだろうな?」
怠助はそう言うと、さながら首相を追い詰める蓮舫議員のように襟を正した。筋の通った答弁ができないのなら、実力行使にでも出るぞという目つきだった。
「とうとう、お父様が折れたのよ。最近、このリーズベルト所領で禁煙運動が盛んなのは知ってるでしょ?」
「そりゃ領主の娘がハチマキつけて音頭を取ってればな」
怠助の言う通り、この頃レーラ・リーズベルトは神秘主義者が神の啓示を受け取ったように、煙草の有害性について信者を集めては啓蒙活動を行っていた。最近では決起集会にとどまらず、領主の娘の立場を存分に利用して、まるで戦場で死体の山を積みあげるように煙草税を積み増し、戦地の略奪のように喫煙所を撤去するまでに至っている。
「煙草の害は知ってるわよね。吸う人だけじゃなくて、周りの人の健康も損なわれるの。それに気づいてた?あなた、煙草を吸った後、ひどい口臭よ。この前、畑仕事をしたときにあったドブみたい」
「なかなか手厳しいことを言うね」
何でもないように怠助は返したが、内心は深く傷ついていた。こないだのドブときたら、怠助が嗅いだ中で最も臭いものに殿堂入りしたばかりだった。
「普通のドブより悪質じゃない。有害なガスを発生させるんだから。だからもう禁止です。」
「やれやれ読書も禁止で、煙草も禁止か。怪しからんな。禁止するのは労働までにしてほしいもんだ」
「労働は禁止してないのよ」レーラは冷ややかに言った。「それから午後に禁煙運動を街でするからついてきてね」
「なんで僕がそんなことを!」怠助は飛び上がった。
「私のフィアンセなんだから当然じゃない」レーラは勝ち誇ったように言った。「最初に約束したでしょ。家にいさせる代わりにフィアンセとして自然に振舞ってもらうって。禁煙運動を促進する私が、ヘビースモーカーを婚約者に選ぶわけないんだから。タバコなんてもうやめてほしいくらいよ」
「よし分かった。禁煙を始めよう」
「本当?ありがとう」レーラは目を輝かせた。
「今はね。一時間後には禁煙終了だ」
まるでシケモクのように使い古されて味の薄くなった冗談を放って、怠助は椅子を立った。