1-6 結末
明くる日の午後、ラッシュラート家より届いた一通の手紙によって、リーズベルト家に大恐慌がもたらされた。手紙は、レーラが生涯受けてきた賛辞に匹敵する量のお世辞から始まった。
ご令嬢は大変な美質を備え、リーズベルト家の名は古今東西に知れ渡り、親交を温める機会を得たことは天にも勝る喜び…云々。結末を予想していなかったリーズベルト公は、生来の親バカを発揮して、見え透いたお世辞にうんうん頷き、手紙の末尾と古今東西に知れ渡るリーズベルト家の将来を合わせて勘違いしていた。というのも、長々続いた文章の最後の一行に「しかしながら」という予想だにしなかった接続詞が挟まれ、婚約を見合わせるとの旨で終わったからである。公は読み終えたとき、はてなと首を傾げた。安泰な家柄に胡坐をかいた悪童時代の、国語の文章問題を飛ばして読む悪癖が再び現れたのかと思った。そうして百行以上の讃辞にわたる三下り半を再び読み終えたとき、自分が手紙をまともに読めない大人ではないことに気がついた。
血相を変えたリーズベルト公から手紙を渡された夫人は、さすがに女学校を優秀な成績で卒業しただけに、一度読んだだけで文意を読み取った。その結果として、カンカンに怒り出し、ラッシュラート家に怒りの問い合わせをすべく立ち上がった。それを止めたのはレーラ本人で、彼女が婚約破談(というより婚約未遂破談)の真相を説明した。自分が農地を受け継いだら、それを手放すと言ったことで、相手の反応が芳しくなかったことを手短に伝えたのだ。
噴火は大抵一度で済まないものである。否、案外二度目の方が規模が大きいものである。両親ともに顔を真っ赤にして、この無政府主義的企みを悪罵した。そうと来れば、レーラも意地になって、今のうちに老後の貯えをするよう訓戒を加えた。娘の頑なさを見て取った両親が、今度は泣き落としに方針を変えると、いかに二人にとって領地が重要で、いかに人々が搾取されているのかの証明になったと言い出す始末だった。要するに譲り合いは起こらなかったのである。
一方そのころ怠助は、沈みゆく夕日を眺めながら、ベランダで一人、肘掛椅子にもたれていた。喧騒を逃れ、彼は煙草を心行くまで楽しんでいた。ブリグの変節は予想通りだったものの、彼を軽蔑するには至らなかった。むしろ怠助が常日頃主張するような怠惰趣味の仲間を見つけたような気がして、コロンブスが西インド諸島を発見したような気持になっていた。
と、後ろから近づく人影があった。
「やぁ、怠助くん、ここにいたんだね」人影は疲れ果てた顔をしたリーズベルト公だった。
「まぁ言ってみれば雨除けですね。もうお話は済んだんですか?」
「いや、まぁ、議論は終わったよ。結論は出ていないが……」
「農地を手放す話をお二人にはしていなかったんですね。さぞかし驚かれたでしょう」
口ではそう言いながら、怠助は同情らしい同情も見せなかった。後ろを振り返らずに、テーブルから何本目かわからない煙草を取って、プカプカふかし始めた。
「問題なのは私より妻だよ」リーズベルト公はため息をついた。「私が死んだら農地は娘に行く。それで彼女が全てを手放したら、妻の老後はどうなる?娘はもっと清貧な生活を送る時が来るんだ、とか言っているけど、妻は大反対でね。さっき、彼女と二人だけで話してきた」
怠助は煙を吐き出しながら、「それはそれは…」と言ったが、吐息のリソースはむしろ煙草の方に集中しているようだった。リーズベルト公が顔を見せた時以降、怠助は後ろを振り返らなかったが、なおも公はぐずぐずその場に留まっていた。
「ああ、煙草ですか。」こりゃ気づかずに失礼と、怠助は煙草を一本、箱から出した。「まぁ、なかなか行けますよ。前にもらった奴は不味くて不味くて…。それでもっといいのをよこせってレーラに言ったらこれをくれたんです。まぁ極上とはいいがたいですけど、飲める味です」
「それは私のだよ」
「あれ?」怠助は堰を切ったようにむせた。「そりゃ、すいません。今すぐお返し…」
「いや、いいんだ」リーズベルト公は鷹揚に手を振った。「君が喜んでくれるならそれでいいんだ」
怠助はこの反応を怪訝に思った。この家に来て以来、リーズベルト公はさほど厳しい態度を怠助には見せたことはない。とはいえ植民地時代のパナマでさえ煙草を有償で売っていたのに、こうも収奪されておいて、まるで十年来の友人のような態度を取る人間ではなかった。怠助は内心どんな企みがあるのかしらと警戒しつつも、この寛大な処置に調子を合わせた。
「さっすが、あの社会主義者を育てただけありますなぁ。これも所得の再分配ってやつですか」
この軽口にリーズベルト公はギクッとした。今まさにその社会主義者の婚約者と停戦調停を試みようとしていたのである。リーズベルト公はなおも躊躇っていたが、やがて意を決したように、屈辱の哨戒戦を始めた。
「なぁ、怠助くん。君はレーラと結婚する気なんだよね?」
「え?ああ、まぁ今のところは。というのも、レーラさんの心ひとつですからね」
「で、その、なんだ、レーラは君に首ったけで、君の言うことなら何でも聞くと言っていた。これは間違いないのかな?」
「まぁ、どうでしょうねぇ。ぼくの意見を尊重する時があるのは間違いありませんが」
「で、もしも君たちが結婚したとして、レーラが農地を手放すと言ったらどうするんだ?君は働くのかね」
「まさかまさか!」怠助は煙草を持った手を振った。煙が前後左右上下に巻き散らかされた。「お義父さんには悪いですけど、尻をバシバシひっぱたいてでも止めさせますよ。お前の農地は俺のものってわけですからね」
この物騒な告白を聞いたリーズベルト公の屈辱がいかばかりだったかは、想像に難くない。こんなごろつきに愛する娘の尻をひっぱたかれるくらいなら、いっそこいつの煙草を取り上げて、その尻に押し付けてやろうかとさえ考えた。
しかし、その背後にはまだ均衡を保っているあまりにも大きい天秤があった。片方には最愛の娘が尻をバシバシひっぱたかれる未来。そしてもう片方には、最愛の妻から尻を乗馬鞭でひっぱたかれる未来があった。
リーズベルト公は怠助の先にある自分の領地を眺めた。目の前に広がる麦畑。夕日を浴びてキラキラ光る湖と、列をなして泳ぐアヒル。風に吹かれる緑の丘からはツグミが飛び立っていった。先祖代々受け継ぎ、その維持管理に一生を注ぐ予定のわが領地。何たる業か!そのすべてを吹き飛ばす爆弾を、この手で育ててしまったのだ。さらに救いがたいことに、その爆弾を解除できるのは、目の前の寄生虫のみだった。やがてリーズベルト公は目を閉じていった。
「怠助くん、君とレーラの交際を認めよう」
「え?な、なんで?」思わず怠助は後ろを振り向いた。
「君が死んでも働かないと言ったからだよ」