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1-5 当て馬の登場

 その日の昼、怠助とレーラは、ブリグ・ラッシュラートと顔合わせをした。ブリグは顔立ちの整った青年で、レーラより二つ年上だった。法学を学んでおり、いずれは裁判所に努める予定だといった。怠助は『彼岸過迄』の主人公の心情を思い出して、自分の細長い体を見ては、確かに劣等感に苛まれるような気がした。女性を本気で好きになったことのない自分には幸いなことだったと考えた。

 ブリグは両親の持ち出した最終兵器なだけあって、何につけても如才ない男だった。いきなりレーラがぶち上げた男女論についても、熱心に聞き入り、見事な合いの手を打って見せる。執事の給料について聞くという無作法も許したばかりか、それが少ないと彼女がケチをつけると、レーラの眼をまっすぐ見つめ改善しますと答える始末だった。


(あれは本気なのかね)こっそりと怠助が聞いた。

(本気なわけないでしょ)レーラが答える。(こういうことは今までにもあったのよ。ちょっと話が合って、ついこんなことを口にしても皆はいはいと受け入れたの)

 食事がすむと、ブリグは自分の領地を散歩がてら案内するといった。リーズベルトほどの広大な領地はないが、美しさには自信があるといった。実際、庭園はきれいに整えられており、その花々について庭師が丁寧に解説してくれた。また彼とブリグの会話を見る限り、所有者と被所有者というよりは、仲のいい親子のような砕けた関係に見えた。


 続いて農地が案内された。ラッシュラート領は農業が盛んで、今もまさに百姓が田植えを行っていた。レーラはいい機会だとばかりに裾を上げ、ブリグに向かって言った。

「自分で農業はおやりになるの?」

「ええ?いや、私自身はそういう経験はないですが……」

「それはいけません!まるで私たちが搾取するために生まれてきたみたいじゃないですか。立場が同じということを実地で示す必要があります」

 

 そう言うとレーラは靴を脱ぎ、裸足でぬかるみに入っていった。そのまま、難儀そうに腰を曲げて、稲を植える百姓に向けて自分も手伝うと言った。

「お嬢ちゃん」百姓は言った。「あんた、普段はこんなことなさらんだろ?裸足で土の中に入ったら危ないよ。菌やら何やらがいっぱいあるんだから」

「ご心配なく!さぁ、稲をください。私にも労働をさせてください」

 百姓はなおも心配していたが、レーラがあまりにも頑固なので、彼女にやり方を一通り教え、苗をいくらか任せた。レーラはこちらにやってくると、怠助にも手伝うように言った。

(なんで僕が!労働は契約の対象外だろ?)

(私のフィアンセにふさわしいところを見せなきゃ仕方ないじゃない。こればっかりはやってもらいますからね)

 怠助が渋々田んぼに入ったところで、農魂たくましい少女はブリグに向き直った。

「ブリグさんはやられないの?怠助くんはこんな風にいつも手伝ってくださるのだけど」

 間男から婚約者に成り上がるためには、現在の婚約者をも上回らねばならない。逡巡は一瞬だった。

「もちろん、私も手伝わせていただきますよ。レーラさんがおっしゃることなら」

 ブリグは迷いもせずに泥の中に飛び込んだ。いささか怠助たちは面食らったが、こうまでされては引き返せないので、おとなしく日差しの照り付ける中、田植え作業にいそしんだ。百姓は自分に土地を貸している領主の息子が手ずから苗を植えていることに肝を冷やしたが、ブリグはなんのなんのと愛想よく笑って、精魂込めて仕事をつづけた。


(あそこまで行くと尊敬するな)怠助は言った。

(本当ね、でももうちょっと試す必要があるわ)

 レーラはそう言うと、ショッピングモールで時限爆弾を見つけたような素っ頓狂な声を上げた。

「あ、怠助くん、見てみて!あんなに大きいイボガエルがいるわよ!」

 それを見た瞬間、時限爆弾のほうがいくらかましだったと怠助は思った。レーラが指さした方向にはゲロゲロという擬声語さえ可愛らしく思える、不快なうめき声をあげる物体があった。それはゴツゴツしているのに、それでいてぬるぬると生々しい質感をしていた。レーラは冷や汗を浮かべながらもそれを持ち上げると、怠助のほうに持ってきた。

(おい!何してんだ!僕はカエルが苦手なんだよ!)

(仕方ないでしょ!こんなのに怯えてたら、農作業ができるだなんて思ってもらえないもの)

「ほら触ってみて、こんなに大きいのよ!」

 怠助は今まで経験した中で、最も不愉快な瞬間が訪れることを即座に察知した。そうしてそんな目に遭うくらいなら、もういっそフィアンセの振りなんてやめてしまおうかしらと考えた。だが、ここ数日のあまりに快適すぎる生活が脳裏に浮かび、皮肉なことに彼を男にしてしまった。

「わ、わぁ、なんて大きなカエル」おじいちゃんから要らないプレゼントをもらった孫のように、怠助は精一杯喜んだふりをした。「か、かわいいイボだねぇ?子供の時に見た、お父さんのお尻みたい~」

 イボガエルは可憐な少女から無骨な少年の手に移ったのが気に食わなかったと見えて、即座に糞をこぼした。屈辱と嫌悪の入り混じった最低最悪の経験だったが、それさえも怠助は耐え抜いた。

「ブリグさんもどうですか?こんなにかわいいイボガエルがいますよ」

 努めて田植えに集中している様を装っていたブリグは、レーラに声をかけられたとき、聞こえないふりをした。しかし彼女と怠助が、この珍獣をもって近づいた時には観念して顔をそちらに向けた。

「ああ、イボガエルですか。大きくて見事に育ってますね」

「お触りにはならない?」

「ええ?」

「お触りにはならないの?これくらい農業のお手伝いをしていれば、日常茶飯事だと思いますが」

 

 もしブリグが、女性の関心を引くためにイボガエルを触らなければいけないと知っていたならば、もしくは法律よりもカエルの解剖学を学んでいたかも知れない。しかし悲しいかな。誰もそんなことを教えてはくれなかったので、彼の人生はイボガエルとは無縁の平穏な道を歩んできた。そうして今になってそのツケが回り、もはや隠すことなくブリグはその顔をしかめた。

 が、そこは如才ない紳士なだけあって、如才なくとは言えないものの覚悟を決めた。つばを飲み込む音が二人にも聞こえるほど、彼は緊張していた。しかし、ブリグはこの気持ち悪い物体を怠助の手から受け取った。そうして暑さのせいばかりとは思えない量の汗をかきながら言った。

「いやぁ、なかなか可愛いカエルさんですねぇ。表面がぶつぶつしていて、まるでラフレシアみたいですねぇ」


 男の手から男の手へと渡ったことでさらに不満が爆発したのか、カエルはよく分からない反吐のようなものをブリグの手にぶちまけたが、彼は何とかそれにも耐えて優しく土に還してやった。

 ここまで英雄的な行動を見せられては、レーラも怠助もそれ以上やりようがなかった。もっと言えば、それ以上のことをしようとすると、イボガエルを舐めたり口の中に入れるくらいのことをしなければいけないというの可能性もあったからだが。


 それ以降は、誰しもおとなしく農作業に従った。気をよくした農家から、追加で作業を頼まれ、彼の益にしかならない作業が続いた。

 ようやく農作業がひと段落ついたとき、既に日は沈む一歩手前だった。三人はラッシュラート邸に戻り、怠助は喫煙所に行った。レーラはブリグと二人きりになったとき、気まずい思いを感じたが、むしろ彼はここぞとばかりに話を切り出した。

「レーラさん、本日はありがとうございました。あなたのような女性とお知り合いになれたことを光栄に思います」

「いえいえ、そんな。むしろご迷惑じゃなかったかしら。私はいつもあんな風に過ごすものですから、親にはもっと貴族らしく、淑女らしくしなさいと怒られます」

「とんでもない。むしろ感激しています。救貧院や慈善団体に積極的に出向いているとお聞きしていましたが、ここまでお優しく行動力のある方だとは思いませんでした。」

 レーラは顔を真っ赤にして、手を振った。あそこまで場違いな行動をして、受け入れてもらえるとは思っておらず、むしろ恥ずかしさに消え入りそうだった。

「それでレーラさん」ブリグはやましいことでもいうかのように口を開いた。「今現在、あなたは怠助さんとお付き合いをしているとお聞きしています。ただ、ご両親から聞いた話ではまだ日が浅いそうですね。もしも…もしもまだ、変節の余地があるのでしたら、どうか求婚者のリストに私を入れてはいただけないでしょうか?」

「え、えぇ?」レーラは思わず目を見張った。

「驚かれるのも無理はありません。破廉恥なことを言っている自覚はあります。ただ、今日のあなたのふるまいを見て、私は心から感動しました。巷では救貧院にお金だけ援助して、自分は学校に通うだけのブルジョワだという声もあります。ですが、本日のあなたのふるまいを見て、決して偽善者ではないということがわかりました。怠助さんとのお付き合いもあることは分かっております。ただ、もしも私のことを憎からず想ってくださるのであれば、繰り返しにはなりますが、どうか私を求婚者のリストに記録していただければ幸いです」

 

 その時ちょうど怠助が喫煙所から戻ってきた。ブリグは顔を赤らめて、気まずそうに御者を呼びに行った。

 一方、レーラはというと、今朝は予想もしていなかったことだが、厄介者だと思っていた男の求婚に思わず心動かされていた。これまで出会った男たちは、誰も彼も、レーラの男勝りな面や理想主義で説教臭いところを見るにつけて、失望の色を隠さなかった。それに求婚者でなくても、親や知り合いから忌避されるような面が、自身にはあることを自覚していた。それを前面に押し出した今日、自分が受け入れられるだろうとは予想だにしていなかったのだ。生まれて初めて、レーラは恋の予感とでもいう、胸の高鳴りを感じていた。

 

 だからそれを率直に怠助に伝えた時の、彼の反応は全く度を越えたものだった。

「惚れちゃったかもしれないぃ?」

「そんな大きな声で言わないでよ!」レーラは声を潜めた「かもしれないだけなんだから」

「かもしれないって、なんでまた?」

「だって初めてだもの。あんな風に振舞って私のことを褒めてくれた人なんて。みんな、仲良くなって私が本音を言うたびに避けていった。でもあの人だけは違うのよ」

 

 怠助は口をへの字に曲げて彼女を見た。それは軽蔑というよりは同情のような……

「それでね、怠助くん」今度はレーラが気まずそうに切り出した。「偽装婚約の件だけど、もしよかったら解消させてくれない?」

「えぇ!」

「わがままなのは分かってる。一度、生活を保障したのにね。お金なら何とか出すわ。でも、あんなふうに本気で求婚してくれた人に嘘なんてつけないから」

「いや、驚いたのはそっちじゃなくて、あいつは明らかに……」そこまで言って、怠助は言葉を区切った。「でもまぁ、そういう可能性もあるのかな?まぁ、それならそれでもいいよ。元々、君の人生を邪魔してまで楽に生きようとは思ってないさ。君にもメリットがあると思って引き受けたんだ」

「本当?本当にいいの?」レーラは目を輝かせた。

「ああ、構わないとも。ただちょっとばかし試したいことがある。それを見てから判断するといい」

 彼女が怪訝な顔をしたのも束の間、ブリグが馬車に乗ってやってきた。怠助は馬車に乗り込むなり、ブリグに向かって言った。

「僕のフィアンセに向かって求婚をされたようですね」

 さっとブリグの顔が青ざめた。レーラが何か言おうとするのを手で止め、怠助は続けた。

「責めているんじゃありません。ただ、僕以外に彼女に求婚できる人がいるのに驚いたんです。何せ彼女は、農地を引き継いだら、それを農民にすべて解放しようというんですから」

「え?」ブリグの顔が何十倍も青ざめた。

「あれ?聞いてませんでしたか?それどころか、彼女は領地への税金を下げたり、年貢の割合も下げるつもりですよ。だって農民も商人も平等ですからね。まぁ、彼女の今日のふるまいを見て、それでも彼女を愛しているあなたには些細な問題でしょうが」

 怠助はこういうと、御者に家まで届けるよう頼んだ。それきり彼は何も話さなかったが、せっかく二人きりで話せる機会を、ブリグはそれほど喜ばなかった。


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