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1-3 リーズベルト邸にて

 リーズベルト邸は控えめに言っても、怠助の想像の十倍以上の面積を有していた。遠くの窓から城を覗いた時点で、自分のなすべき仕事を軽く見積もっていたことを、彼は後悔し始めた。あの大邸宅の令嬢の婚約者にのしかかる重圧は、アメリカ大企業の経営者に比肩するものではないかしら。そんな予感は、馬車が城に近づくごとに大きくなっていった。

 

 城門の端に着いてから、優に十分を超えてやっと門番に会えた。そうして門番の訝しむような眼を見たときには、映画で見た銀行強盗が自動ドアを通るような気分だった。それから門の中に入ってみると地平線の先を見るような距離に城が控えており、左右を見渡すとなだらかな丘が、馬車を走らせても『優に十分を超え』る距離まで続いていた。その途中には美しい湖があり、怠助の緊張も知らずに白鳥がむしゃむしゃ魚を食べていた。この庭園は東京ドーム何個分ですよと言われれば、やっと怠助はこのわかりづらい慣用句の尺度を理解しただろうが、残念ながらレーラは東京ドームを知らなかった。

 

 城に到着するまで果てしない時間が過ぎ、怠助はよくある小説で見るような異世界ではなく、カフカの世界にでも入り込んでしまったのではないかと思った。しかし、ありがたいことにしばらく待つと城には着いたので、少なくともそれほど不条理な世界でもないことが証明された。

 リーズベルト城に到着した時には、既に夕食が準備されていた。あいさつもそこそこに、地震が起きた時には間違いなく誰か一人は下敷きにして殺しそうな玄関のシャンデリアを眺める間もなく、食堂へと通された。


(私が話を進めるから、聞かれたことだけ答えるようにしてね)

 レーラに先にそう言われていたため、怠助は特に何も言わずに席に着いた。両親が部屋に入るまでの間、彼は広い食堂でレーラと他愛もないことを話したり、上流階級の食事作法について簡単にレッスンを受けたりした。しかし、そうした最中でも、この豪邸の端々への注意は怠らず、頭上のこれまた日本では建築法上許可が下りなさそうなシャンデリアや、今朝狩って来たといわれても信じ込んでしまいそうな生々しい鹿のはく製を見ては畏怖が止まらなかった。ただ、仮に両親からごろつきの烙印を押されて家を放逐されたとしても、この畏怖に見合うだけの料理はテーブルの脚にしがみついてでも食べてしまおうと決めていた。少なくともデザートまでは、日本の中下流階級出身のしぐさは隠し通さねばならない。そう決心していただけに、両親が席に着くなり、レーラが「この人が私の婚約者です」と言ったのには、いかな怠助も度肝を抜かれた。


「「婚約者!」」

 異口同音にそう叫ぶと、両親は開いた口が塞がらないとでもいうように、怠助を怪訝な顔で見つめた。

「そう、婚約者」彼の肩に親しげに手を置いて、レーラは言った。「中々かっこいいでしょ。救貧院で出会ったの。優しくて素敵な人よ」

「救貧院!」母親が叫んだ。「それじゃあ、乞食と結婚するっていうの?」

 レーラは乞食をまさしく乞食と呼ばれてもなんとも思わなかったが、建前上、眉をひそめた。

「乞食じゃありません。救貧院で働いていたのよ、ねぇ?」

「え、ああ、まぁね」事前の打ち合わせなしにこんなキラーパスを出されて、いささか怠助は面食らった。「そうだなぁ、まぁ。トイレを流したり、いや便所掃除なんかね」

「便所掃除!」母親がまた叫んだ。

「いやいや、他にもしましたよ。ええと…ええ…そう、ベッドメイキングとかね」

「下男じゃないの!」

「下男なんかじゃありません」レーラは母親をにらんだ。「カウンセラーもしていました。一日のほとんどは、職員の不満を聞いていたんですから。雑用なんてほんの少しです」

「君がカウンセラーを好きとは知らなかった」父親が言った。「でも何も婚約というのは早かろう。いやいや、怠助くんがどうとかいう話ではないけどね。でもまだ十代で婚約というのもなぁ」

「あら、それなら今まで私に紹介してくれていた方々は婚約者にするおつもりじゃなかったの?」レーラは我が意を得たりとばかりに言った。「それなら結構です。少なくとも十代の間は結婚なんて考えなくていいなら」

 

 父親(リーズベルト公)は口ごもった。娘の賢しい論理に、しばし反論が思い浮かばなかったのだ。しかし夫婦というのは助け合うものである。そして怠助に言わせれば、年を取った女は論理を武器にしないものである。リーズベルト公が黙り込んだのを受けて、夫人が感情任せに叫んだ。

「じゃ、あなたは救貧院の職員と本気で結婚するつもりなの?今まで紹介した殿方を袖にして、そんなどこの馬の骨とも知れない男と結婚するつもりなの?」

「ええ、もちろんよ。少なくとも今の時点では婚約だけど」

 レーラは事も無げに言ってのけた。しかし、怠助にはひとつどうしても言っておかねばならないことがあった。

「あのう、すいませんが」おずおずと怠助は切り出した。夫人は夏のコバエでも見つけたような視線をこちらにくれた。「救貧院の職員でさえ資格がないという話の最中で申し訳ないんですがね、私は今日付であそこは辞めてきたんですよ」

「辞めた?それなら何か、別の職にでも就くの?」リーズベルト夫人が期待を込めて聞いた。

「いいえ、何にも」

「何にも!それじゃあ、これから一体どうするのよ?」

「さぁ、まぁ働かなくてもいいとは聞いてましたが」

「レーラ!」夫人が叫んだ。「見なさい!明らかにお金目当てじゃない!」

「失礼なこと言わないで!私も彼が働かないことは認めています。私のほうが働かない彼を認めたんだから、お金目当てなんかじゃありません。本当に好きなんです。その、ほら……ええと、何かな……」レーラは困ったように怠助を見た。

(何を言おうとしてるんだ?)すかさず怠助は助け舟を出そうとした。

(あなたのいいところよ)レーラが小声で返した。(でも一つも思い浮かばないのよ)

(僕は正直な自分を誇りに思ってるけどな)傷ついたのを隠して怠助は言った。(しかし君がそうは思わないなら……)

「この人は本当に正直なんです!だって働かないなんて言ったら、お金目当てだと思われるに決まっているじゃないですか。それなのに自分を曲げなかった。本当に大好きで、この人の言うことならなんでも聞けます」


 婚約者の身分を案じる母親以上に、リーズベルト公は父親として、この愛娘の発言に心底傷ついたのは言うまでもない。それほど積極的に教育に介入した自負はないが、間違ってもこんなゴロツキを愛するように仕向けるような間違いは犯さなかったはずだ。

「君はその」リーズベルト公は一縷の望みを懸けていった。「これから働く気はないのかね?職なんていっぱい探せるよ?私の手の届く範囲ならなんでも……」

「ないですね」聞き終わる前に怠助は言った。

「働く気はない?」確認のために公は言った。

「死んでも」これまた確認のために怠助も言った。

「死んでも!」

「確認のために言っておきますがね」怠助は前菜をあきらめる覚悟で言った。「僕は死んでも働きませんよ。そうしてこの家においていただきます。修行僧だったらよかったと思われるでしょうが、残念ながら将来の息子は健康この上ないので、三食よろしくお願いいたします」

「絶対に認めんぞ!」リーズベルト公は叫んだ。




「まさかあそこまで言われるとはなぁ」

 前菜どころかデザートにまで預かり、夢見心地で怠助は来客用のベッドに寝転んだ。傍の肘掛椅子に座ったレーラは、呆れるようにため息をついた。

「あなたが死んでも働かないなんて言うからでしょ」

 結局、議論は平行線のまま終わった。遠い異国から巨匠と名高いシェフを高額で雇ったにもかかわらず、怠助以外は誰もそのありがたみを理解しないまま食事は進んだ。リーズベルト公はむっつり黙り込み、夫人はもう別の婚約者候補の名前を、子供の名前を考える親のように連呼し続けた。

「あなた、本当にこれでいいと思ってるの?」

「というと?」怠助は煙草を吸いながら聞いた。

「だって、二人があなたのことを認めるわけがないじゃない。そうなったらあなたは破滅なのよ?婚約詐欺未遂の恥さらしとして家を追い出されて、うちの領地ではまともに就職なんてできなくなるの。そうなったら、責任はあなたにあるんですからね」

「確かに来る家を間違えたのかもなぁ」

「だから、あなたが死んでも働かないなんて言うからよ!それに私にだって実害があるのよ。今までは、のらりくらりお見合いなんて断ってきたけど、お母様もお父様も本気になっちゃったじゃない。嫌よ、あなたよりましだなんて理由で結婚相手を決められたんじゃ。もう今週末には、男の人と会う約束までさせられちゃったじゃない」

「そりゃ、確かに悪かった。」怠助はおとなしく非を認めた。「悪かったついでに、このたばこも客用としては悪いから、もうちっといいやつに変えてくれないかな?」

 レーラは父親が叫んだ気持ちがよく分かった。


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