第9話「過去の影」
視界が、暗闇に包まれる。
落ちていく。
深い、深い闇の底へ——。
陽翔は咄嗟に手を伸ばすが、何も掴めない。感覚が消えていく。ただ意識だけが宙に浮いているような、不安定な感覚が広がる。
(何だ……これは……?)
突然、視界が開けた。
——目の前に広がるのは、**王都の崩壊**だった。
建物が崩れ、人々の叫び声が響く。炎が街を覆い、黒い影が蠢いている。その中心に立っていたのは——。
「……俺?」
そこにいたのは、自分自身だった。
黒い影を背負い、剣を握る自分。冷たい瞳で燃え上がる王都を見つめている。その姿は、まるで破壊者のようだった。
(これは……未来?)
「そうだ」
声が響く。
目の前の"影の陽翔"がゆっくりと口を開いた。
「これはお前が生み出す未来だ」
「嘘だ……! そんなはずが……!」
「信じたくないか? だが、お前はすでにこの世界を歪ませた。お前がここにいることこそが、世界の終わりを招くのだ」
影の陽翔は、剣を構えた。
「俺を、倒せるか?」
陽翔の手が震える。
(これは……試練……?)
黒鎧の男が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
——「過去の影に打ち勝つことで、お前たちは『時の鍵』を得ることができる」
——「だが、過去の影に飲まれれば、お前たち自身がこの世界から消滅するだろう」
(負ければ、消える……?)
だが、それ以上に——。
(俺が……王都を滅ぼす……?)
自分が、何かを間違えているのかもしれない。
それを問いかける前に、影の陽翔が動いた。
「選べ」
その声と共に、陽翔の脳内に二つの光景が流れ込んできた。
一つ目——。
王都が燃え尽き、無人の廃墟となる未来。
その未来には、陽翔は存在していない。
(俺が……いなければ……?)
二つ目——。
封印の間に立つ莉音。
その手に握られているのは、「時の鍵」——だが、その次の瞬間、彼女の身体が霧散する。
(莉音が……いない……?)
「お前はどちらを選ぶ?」
影の陽翔が問いかける。
「お前がいなければ、この未来は訪れない」
「お前が"鍵"を壊せば、すべてを終わらせられる」
鍵——莉音。
つまり、陽翔がいなければ王都は救われる。
陽翔が「鍵」を壊せば、歴史の歪みが消え、すべてが正される。
——どちらを選んでも、彼は何かを失う。
陽翔の胸が締め付けられる。
(そんなの……どっちも選べるわけがない……!)
だが——。
影の陽翔は冷たく告げた。
「答えろ」
***
「……答えろ」
影の陽翔の声が、鋭く響いた。
選択しなければならない。
(俺がいなくなれば、王都は滅びない……)
(莉音を消せば、歴史は修正される……)
だが、どちらも——ありえない。
「……どちらも選ばない」
陽翔は震える拳を握りしめた。
影の陽翔が嘲るように笑う。
「選ばない? お前は何も理解していない。お前がこの世界にいることこそが、すべてを狂わせる元凶なのに?」
「俺がいることで未来が歪むなら……それを正せばいいだけだ」
「正せるとでも? "鍵"が二つ存在した時点で、この世界は修正される運命なのだ」
"鍵"が二つ——。
陽翔は息をのんだ。
「つまり……俺も"鍵"なのか?」
影の陽翔は口を閉ざす。
その沈黙が、何よりも雄弁に語っていた。
(俺は、ただの召喚者じゃない?)
何かが、決定的に間違っている。
「……だったら、俺はその修正に抗ってみせる」
陽翔は剣を握った。
影の陽翔が冷笑する。
「無駄だ」
「そんな未来、俺が変えてやる……!」
次の瞬間、影の陽翔が剣を振り下ろした。
***
——同時刻、莉音の前。
「……お前は、私の代わりにここにいる」
目の前の"消された召喚者"の影が、莉音を見つめている。
「私が呼ばれたはずだった。でも、私は"上書きされた"」
「上書き……?」
「お前の記憶のどこかに、私の痕跡が残っているはずだ」
莉音の胸がざわめいた。
(記憶の混濁……?)
確かに、召喚されたときの記憶に、違和感があった。
何かが欠けている。
(私は……本当に、この世界に召喚されたの?)
「お前は、本当に"莉音"なのか?」
影がそう告げた瞬間、莉音の意識が揺らぐ。
——何かが、思い出せそうで、思い出せない。
「……私は……」
「お前は、本来ここにいないはずの存在だ」
その言葉が、莉音の心を締め付ける。
***
「莉音……!」
陽翔の声が、遠くから聞こえた。
その瞬間、莉音ははっと息をのんだ。
(……違う)
たとえ、私が消された召喚者だったとしても——。
「今、ここにいるのは私」
莉音は影を真っ直ぐに見据えた。
「私は、陽翔くんとともにいるために、ここにいる」
その言葉に、影がわずかに揺らぐ。
「……お前は……」
影の輪郭が淡くなる。
だが、まだ完全には消えない。
***
陽翔もまた、影の陽翔を見据えていた。
「俺は……消えない」
その瞬間、二人の影が、同時に消滅し始める。
陽翔と莉音は、互いに向かって走り出した——。
***
影の陽翔が崩れゆく。
陽翔は剣を握ったまま、その光景を見つめていた。
「……まだ、終わりじゃない」
確かに影を打ち破った。
だが、違和感がある。
まるで、"試された"だけのような——。
「陽翔くん!」
莉音の声が響く。
振り返ると、莉音もまた影の召喚者を振り払い、こちらへ駆け寄ってきていた。
だが、その直後。
「——!」
足元が崩れた。
世界が、反転するように揺らぐ。
視界が闇に包まれ——再び、映像が流れ込んでくる。
***
「……これは……?」
陽翔は、知らない光景を視ていた。
王城の奥深く。
そこで、ひとりの少女が、光に包まれながら立っている。
(莉音……?)
違う。
見たことのない少女だった。
だが、その少女が振り向いた瞬間——陽翔の中に、何かが刻まれた。
「私の……名は……」
音が歪む。
声が、途切れる。
「お前は——!」
次の瞬間、陽翔の視界が弾け飛んだ。
***
「……陽翔くん!」
莉音が、陽翔の身体を支えていた。
「……今、何を視た?」
陽翔は、息を整えながら答える。
「分からない……けど、俺は……」
その時だった。
「試練は、ここまでだ」
重く響く声。
陽翔と莉音が顔を上げると、そこには黒鎧の男が立っていた。
「お前たちは、影を乗り越えた」
黒鎧の男は、手をかざす。
すると、陽翔の手のひらに——**青白く輝く「時の鍵」**が現れた。
「これは……」
「お前たちは、この鍵を手にする資格を得た」
黒鎧の男は、静かに言う。
「だが、この鍵が開くのは、単なる扉ではない」
「……どういうことだ?」
「"歴史の狭間"を覗く者は、自らの存在の意味を問いかけることになる」
黒鎧の男が陽翔を見据える。
「お前は、何を視た?」
「……」
陽翔は、言葉を詰まらせた。
(あの少女は……誰だ?)
思い出せない。
だが、何かが確かに"視えた"。
「時の鍵は、お前たちの運命を映す」
黒鎧の男は言葉を続けた。
「この先、封印の間の扉を開く時、お前たちは"消された真実"に触れることになる」
「……真実?」
「そうだ」
黒鎧の男は一歩近づく。
「本当にお前たちが、この世界に"呼ばれた理由"を知ることになる」
陽翔と莉音は、無意識に互いの手を握り締めた。
「それでも、進むのか?」
問いかけるような黒鎧の男の声が響く。
***
「……行く」
陽翔は、迷いなく答えた。
莉音も、小さく頷く。
黒鎧の男は、静かに目を閉じると、わずかに微笑んだ。
「ならば、行け」
次の瞬間——。
陽翔たちの視界が、一気に光に包まれた。
***
——光が消えた時、陽翔と莉音は元の場所に戻っていた。
暗闇の試練は終わり、目の前には王宮の石造りの廊下が広がっている。
「……終わったの?」
莉音が、ゆっくりと息を整える。
陽翔は、自分の手のひらを見た。そこには、青白く輝く「時の鍵」が確かに存在している。
試練を乗り越え、手にした証——。
「これは、本当に……」
「時の鍵……」
莉音が、その輝きをじっと見つめる。
「……でも、開くのが"扉"だけじゃないって……どういうこと?」
陽翔は思い出す。
黒鎧の男の言葉——。
**「時の鍵は、単なる扉を開くものではない」**
**「歴史の狭間を覗く者は、自らの存在の意味を問いかけることになる」**
(自分たちの存在の意味……?)
陽翔の脳裏に、試練の最後に見た少女の姿がよぎる。
(……あれは、一体……?)
その時——。
「——陽翔様、莉音様!」
駆け寄る足音。
振り向くと、エリシアが息を切らして立っていた。
「ご無事でしたか!?」
その顔には、安堵と驚きが入り混じっている。
「エリシア……?」
「……突然、お二人が光に包まれて消えてしまったのです。どこに行かれたのか、結界が乱れており、探すことも……」
どうやら、試練の間、現実世界では彼らが忽然と消えたように見えたらしい。
「……俺たちは、試練を受けていた」
「試練……?」
「そして——これを手に入れた」
陽翔は、手のひらの鍵を見せた。
エリシアは一瞬、息を呑んだ。
「まさか……それが、時の鍵……?」
「知ってるのか?」
「……ええ。王国の最古の記録にのみ、その存在が記されています。ですが、それを手にした者など、一人として——」
エリシアが言葉を止める。
「……まさか」
「エリシア?」
彼女は眉をひそめたまま、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……時の鍵を手にしたということは、この王国の"歪み"が、限界を迎えているという証です」
「"歪み"?」
「この世界には、正しく進むべき時間がある。しかし、もしそこに異物が混ざり込めば、世界のバランスは崩れます」
異物——。
その言葉が、陽翔の胸に重く響く。
「俺たちが、その"異物"だって言いたいのか?」
エリシアは口を閉ざす。
その沈黙が、何よりも答えを示していた。
「……俺たちがいることで、この世界が歪んでいる……」
陽翔は、そっと時の鍵を握り締める。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
だが、黒鎧の男の言葉を思い出す。
**「この先、封印の間の扉を開く時、お前たちは"消された真実"に触れることになる」**
今なら、その意味が分かる。
(……俺たちが、本当にこの世界にいるべき存在なのか)
それを、確かめなければならない。
「……行こう」
陽翔は、莉音を見た。
彼女は少しの間迷っていたようだったが、やがて微笑み、小さく頷いた。
「うん」
彼らは、封印の間へと歩き出す。
***
「……この鍵を手にしたということは」
その頃。
遠く、薄暗い部屋の中で、一つの影が呟いた。
「やはり……"主"の目覚めは、避けられぬということか……」
不気味な笑いが、静かに響いた。
***