第1話「異世界の扉」
本日公開は5話までです。
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空は、どこまでも澄んでいた。
夕暮れの帰り道。神崎陽翔は、コンビニの袋を片手にアパートへ続く坂道を登っていた。
少し肌寒くなった風が、街路樹の葉を揺らす。夕焼けに染まるビルの隙間を見上げながら、彼はため息をついた。
今日も、何も変わらない一日だった。
学校では退屈な授業をこなし、部活は適当にこなして帰るだけ。進路希望調査の提出期限は明日だが、白紙のままだ。書くことがない。やりたいこともない。
「……俺、これからどうするんだろうな」
誰に言うでもなくつぶやく。
ふと、違和感を覚えた。
——音が、消えている?
いつもなら聞こえるはずの車のエンジン音や、遠くで話す人々の声。すべてが、一瞬にして消えたような感覚。
次の瞬間、視界の端で**空が裂けた。**
まるでガラスを砕いたように、黒い亀裂が夜空に走る。そこから、白く眩い光があふれ出し——
気づいたときには、全身が吸い込まれていた。
地面がなくなり、身体が宙を舞う感覚。強烈な眩しさに目を閉じる。耳の奥に響く轟音。そして、心臓が凍るような寒さ——
**——気がつくと、俺は異世界にいた。**
***
目を開けたとき、そこには見知らぬ世界が広がっていた。
床は滑らかな大理石。広々とした大広間の中央に、自分が倒れている。天井には金細工のシャンデリア、壁には精緻なタペストリー。見上げると、壮麗な玉座に座る王らしき人物がいた。
そして——
「ようこそ、異世界へ」
透き通るような碧い瞳。長い金髪をなびかせ、純白のローブを纏う少女が、微笑みながらそう言った。
「あなたは、この世界を救うために召喚されました」
「……は?」
理解が追いつかない。
だが、そのとき、すぐ隣で微かなうめき声が聞こえた。
「……陽翔くん?」
見覚えのある少女——藤宮莉音。
同じクラスの彼女が、そこにいた。だが、その瞳に浮かぶのは驚きではなく、ほんの一瞬の——迷い?
それはすぐにかき消され、彼女は戸惑いながらも俺を見つめていた。
どうやら、俺たちは一緒に召喚されたらしい——。
***
「待ってくれ。俺たちが、何だって?」
混乱する陽翔に向かって、巫女の少女——エリシアは静かに告げた。
「あなた方は『救世の勇者』。この世界に災厄が訪れようとしている今、それを阻止する力を持つ者として召喚されました」
「……冗談、だろ?」
陽翔は、改めて周囲を見回した。
高貴な衣装をまとった王、甲冑に身を包んだ騎士たち。だが、その目には露骨な失望の色が浮かんでいる。
胸の奥が冷たくなり、背中に冷や汗が伝った。——ここで否定されたら、俺はどうなる?
「勇者……俺たちが?」
陽翔がそう呟くと、隣で莉音も戸惑いの表情を浮かべた。
「わ、私たち、ただの高校生なのに……」
「そのはずです。でも……」
エリシアは少し眉をひそめ、そばに控える魔導士に合図を送った。
「では、まずは魔力の適性を確認しましょう」
魔導士が呪文を唱えると、陽翔と莉音の足元に魔法陣が浮かび上がった。
だが——
異変が起こった。
「……っ!?」
大広間に、重苦しい沈黙が流れる。
魔法陣が発するはずの光が、陽翔の周りだけ、まるで吸い込まれるように消えていく。
「……ありえない。魔力が……ない?」
魔導士の声が震えた。
「召喚された勇者に、魔力がないなんて……」
王宮の空気がざわついた。王の表情が険しくなり、騎士たちが失望したように目を伏せる。
「つまり……俺、ハズレってこと?」
思わず自嘲気味に呟く。
何か特別な力を手に入れたわけでもない。ましてや、剣も魔法も使えない。
その事実が、場の空気を決定的なものにした。
「……勇者にふさわしくないのなら、追放すべきでは?」
王の側近が冷たく言い放つ。
陽翔は、わけもわからず異世界に召喚され、そして今、存在を否定されようとしていた——。
***
「待ってください」
そのとき、エリシアが声を上げた。
「彼は……もしかすると、違う形の力を持っているかもしれません」
「……どういうことだ?」
王が眉をひそめる。
エリシアは、陽翔をまっすぐ見つめた。
「あなた、さっき何かを視ていましたね?」
「……え?」
確かに、先ほど魔法陣が展開されたとき、陽翔は奇妙なものを見ていた。
空間の中を、何か目に見えない流れが漂っていた。まるで空気の波のように、ゆらゆらと揺らめいている。
そして——
それが、魔法の流れなのだと、本能的に理解した。
「俺……魔力はないみたいだけど、何か、流れみたいなものが視えるんだ」
その言葉に、エリシアの目が輝いた。
「やはり……!」
「この力は、何なのですか?」
陽翔の問いに、エリシアは一瞬だけ考え、言葉を選びながら答えた。
「もしかすると、あなたには **“世界の法則”** を視る力があるのかもしれません」
世界の法則——?
陽翔は、まだ自分の能力の意味を理解できずにいた。
***
陽翔は、まだ自分の能力の意味を理解できずにいた。
魔法は使えない。でも、何かが「視える」。
それは、一体どういうことなのか——。
「彼の力を、もう少し試すべきです」
エリシアは、王に向かってそう進言した。
「……ふむ」
王はしばらく考え込むと、ゆっくりと頷いた。
「ならば、試験的に滞在を許可しよう。ただし、役に立たないと判断されれば……」
その先の言葉は聞くまでもなかった。
「……わかりました」
陽翔は、現状を受け入れるしかなかった。
こうして彼は、「力のない勇者」として、王宮に滞在することになった。
***
その夜、陽翔は客間に通された。
豪華なベッド、繊細な刺繍が施されたカーテン。王宮らしい立派な部屋だが、どこか落ち着かない。
「……魔力がないのに、勇者?」
窓辺に座りながら、ぼんやりと呟く。
何の能力もないのならまだしも、「視える」だけなんて、どう使えばいいのかわからない。
ふと、ドアの向こうで騎士たちの声が聞こえた。
「……魔力のない勇者なんて、聞いたことがない」
「召喚自体が間違いだったんじゃないか?」
「いや、エリシア様が彼に何かを感じているようだ」
陽翔はため息をついた。
「……どうすればいいんだよ」
答えのない問いを投げかける。
***
一方——
莉音は、別の部屋で月を見上げていた。
その瞳には、深い思索の色が浮かんでいる。
「……どうして、また……」
彼女の小さな声は、誰にも届かない。
彼女は、すでにこの世界のことを知っているようだった。
そして、陽翔にはまだ言えない秘密を抱えている——。
***
翌朝、陽翔はエリシアに呼ばれ、王宮の庭園へと案内された。
「あなたの力を、試してみましょう」
彼女はそう言い、陽翔の前に魔法陣を展開した。
足元の石畳に紋様が浮かび上がる。ほんのりと発光する光の輪が、まるで呼吸するように脈動していた。
周囲の空気が静まり、魔力の波がじわじわと広がっていく——。
「目を閉じて、感じてみてください。魔力の流れを……」
陽翔は、ゆっくりと目を閉じる。
すると——
**世界の「流れ」が、視えた。**
空間の歪み、魔法の糸のようなエネルギーの流れ。
それが、まるで「システム」のように組み上がっているのがわかる。
「……これが、俺の力……?」
だが、そのとき——
王宮の奥で、何かが崩れる音がした。
「——敵襲!!」
騎士たちの叫び声が響く。
陽翔が顔を上げたとき、宮殿の奥から黒い影が溢れ出してきた。
異形の魔物たち。
「なっ……!?」
「……早すぎる」
エリシアの顔が険しくなる。
まるで、何かが予定よりも早く動き出してしまったかのように——。
***
魔物の襲撃——それは、予想よりも早かった。
騎士たちはすぐに剣を抜き、応戦の体勢をとる。
だが、陽翔は異変に気づいていた。
魔物たちの動きが、**異常に効率的** なのだ。
通常、こうした魔物の襲撃は混沌としたものになるはずだ。
だが、彼らはまるで王宮の構造を熟知しているかのように、迷いなく侵入していた。
「……おかしい」
陽翔の目には、魔物の動きと共に、奇妙な「流れ」が視えていた。
それは、まるで見えない糸が魔物たちを導いているかのように——。
「これ、仕組まれてる?」
陽翔は咄嗟にエリシアを振り向いた。
「エリシア! こいつら、なんか誘導されてる!」
「何ですって?」
エリシアの瞳が一瞬驚きに揺れる。
その間にも、魔物たちは次々と王宮内に侵入し、戦闘が始まる。
騎士たちは応戦するが、魔物たちの動きには**明確な意図** があった。
「陽翔くん、伏せて!」
莉音の声と同時に、目の前を炎の魔法が通り過ぎた。
火球が炸裂し、黒い魔物の一体が爆発する。
「莉音、お前……!」
「あとで話す。でも、今は戦わないと!」
彼女は既に魔法を使いこなしていた。
どうしてこんなに自然に? まるで、元々知っていたみたいに——。
***
陽翔は、再び魔物たちの流れを注視した。
すると、見えてきた。
彼らは、ただ闇雲に襲ってきているわけではない。
明らかに、一つのルートを辿っている。
「……王を狙っている?」
陽翔は叫んだ。
「エリシア、王の元に警備を! 魔物はそっちに向かってる!」
「……!! すぐに!」
エリシアが指示を出すと、騎士たちが王の周囲を固める。
すると——
魔物たちの進軍が、わずかに迷ったように乱れた。
「やっぱり……!」
陽翔の推測は確信へと変わった。
魔物たちは、何者かの意図で誘導されている。
そして、それを視えていたのは、陽翔だけだった。
***
戦いが続く中、突如として宮殿の奥から響く轟音。
「……っ!?」
天井が崩れ、巨大な影が降り立った。
「これは……」
それは、今までの魔物とは明らかに異なる異形の存在。
禍々しい黒い鎧を纏い、まるで意思を持つかのように陽翔たちを見下ろしている。
「……お前が、“勇者”か?」
重く響く声。
陽翔の心臓が、凍りついた。
ただの魔物ではない。知性を持った存在——敵の指導者、あるいはもっと大きな存在。
そう考えた瞬間、陽翔の中で何かが目覚めた。
「……違う。でも、俺は知ってる。お前たちの動きが、不自然だってことを」
その言葉に、黒鎧の魔物が目を細める。
「……ほう?」
次の瞬間、陽翔の視界が、一気に広がった。
**魔物の動きの「法則」が、視えた。**
それは、世界の根幹にある見えないシステム。
まるでゲームのプログラムを解読するかのように、彼らの動きが「規則性」を持っていることが分かった。
「お前たち……プログラムされているのか?」
陽翔の問いに、黒鎧の魔物は短く笑った。
「やはり、貴様……少し、興味深いな」
次の瞬間——黒鎧の魔物は、陽翔に向けて剣を振り下ろした。
***
全てが、スローモーションになった。
剣の軌道、空間の歪み、魔法の流れ。
陽翔は、それらすべてを「視た」。
「……っ!!」
反射的に身を翻す。
寸でのところで避け、床に転がる。
「……チッ」
黒鎧の魔物が舌打ちした。
しかし、陽翔の手は震えていた。
この世界の法則が視える——だが、それをどう活かせばいいのか、まだ分からない。
「陽翔くん!!」
莉音が叫ぶ。
その声に、彼は顔を上げた。
目の前に広がる戦場、まだ続く混乱。
この世界の仕組みを知るために、陽翔はここにいる。
だが、同時に思った。
「——俺は、本当にこの世界で生き抜けるのか?」