鏡に映る私は、鏡の中にいた私
瑞稀は鏡の中の自分を覗き込んだ。
「酷い顔…」
そう呟いて、ははと乾いた笑いを漏らす。
瑞稀は仕事から帰って、そのまま倒れ込むようにソファーで寝てしまっていた。
今はもう夜中の12時。――今日が終わろうとしている。
本当に酷い顔だ。
化粧を落とさないまま寝ていたので、顔はテカっているし、落ちないはずのマスカラは目の周りに細かく散っている。アイシャドウはよれて、顔は浮腫んでいつもより5歳は老けて見えた。
鏡の中の5歳老けた自分をボンヤリと見つめながら、瑞稀は今日一日を振り返る。
今日も最悪な一日だった。
「もう嫌だ…」
最近は口癖になってしまった言葉を、瑞稀は無意識に呟く。
瑞稀は社会人1年目の事務員として働いている。
今はもう夏なので、仕事を始めてから数ヶ月が経つし、少しは仕事も慣れてきそうなものだが――いつまでたっても瑞稀は事務の仕事に慣れる事が出来ない。
もともとパソコンを触る事が苦手な瑞稀が、事務の仕事に就いている事自体が間違っているのだ。
この仕事に向いていない事は、瑞稀自身が最初から分かっていた事だった。
「谷口さん、写メじゃなくてPDFで送ってよ」
出先から指示を出す、営業の五十嵐さんの言っている意味が分からない。
みんなが日本語を話しているのかさえ疑ってしまう。
今日も瑞稀がいつの間にか余計なキーを押してしまったようで、みんなの仕事に少しの混乱を招いてしまった。
本当に自分には向いていない仕事だと思う。
定時に帰れる仕事であるものの、
「あ、谷口さんはもう帰っていいよ。後は私が処理しておくから」
そう言ってくれる井上先輩の目が、いつも怒っている。
「申し訳ありませんが、よろしくお願いします。……お先に失礼します。お疲れ様です」
そう言って瑞稀は帰るしかない。
出来る事なら瑞稀だって、自分のミスは自分で責任を持って片付けたい。
だけど片付ける方法が瑞稀には分からないのだ。
今日のお昼休憩中、瑞稀がお手洗いの個室に入っている時に、先輩達が話す声が聞こえた。
「井上さん、昨日もまた定時過ぎてから、谷口さんのミスの処理をさせられたんでしょう?自分のミスじゃないのに井上さんが尻拭いしなきゃいけないなんて、本当かわいそう」
――その言葉に瑞稀の胸がズキッと痛む。
はぁと大きなため息が聞こえる。
――おそらく井上先輩だ。
「谷口さん、自分は定時になったら「お疲れさまでーす」って嬉しそうに帰っていくのよ。もう人事はどうしてあんな子採用したんだろ。いる方が迷惑よね」
「本当よね〜もっと使える子を入れてくれないと、人はいるのに仕事が片付かないってどういう事?って感じよね」
ブツブツ文句を言う先輩達の声が小さくなっていくのを聞きながら、瑞稀は個室の中で震えるしかなかった。
声が聞こえなくなっても、個室から出る事が出来ない。
『もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう何もかも投げ出したい!』
そんな感情が湧き出すが、投げ出す訳にはいかない。
それが瑞稀の生きる現実だからだ。
そこからの午後の仕事は、いつもよりさらに気をつけて仕事を進めるが、慎重になるほどに仕事の進みが遅くなり、それはそれで先輩の機嫌が悪そうだった。
そして定時の17時を迎えてしまい、また今日も瑞稀は井上先輩に謝って帰ってきたのだ。
「ここまでしか進みませんでした。申し訳ありません」
「大丈夫よ。明日からもう少しペースを上げようね」
声に怒りを含ませた井上先輩に、「……お疲れ様です」と瑞稀は言葉を返すしか無かった。
17時に仕事を上がれて早く家に帰る事が出来ていても、瑞稀は家に帰り着く頃にはいつも疲れ果てている。
酷い一日だった。
だけどまた明日も酷い一日が始まる。
「ああもう12時だ。もう『明日』じゃない。もうすぐ『今日』になっちゃうじゃない」
瑞稀は自嘲気味に笑う。
鏡の中の酷い顔をした瑞稀も、自嘲気味に笑った。
真夜中の12時に笑う自分。
鏡を見ながら瑞稀は、ふと子供の頃に聞いた怖い話を思いだす。
「真夜中の12時ちょうどに鏡を見ると、鏡に映る自分だけが笑うんだって……。それを見ちゃうと本当の自分は鏡の中に閉じ込められて、鏡の中の自分がこの世界に入ってきちゃうんだよ。
そうなったらもう、本当の自分は鏡の世界からこの世界を見ることしか出来なくなるの。……一生戻れない事だってあるんだから」
聞いた当時子供だった瑞稀は、そんな時間まで起きていた事が無かったから、12時の世界なんて想像さえ出来なかった。
瑞稀とは関係のない世界だったが、それでも怖くなって、夜になると鏡を見ることが出来なくなった。
瑞稀はそんな怪談話を思い出した。
『鏡に映る自分が違う自分なら、私もその別世界に行ってみたい。この世界じゃないどこかに行きたい』
そこまで考えて、瑞稀は自分でもおかしくなってしまい、小さく笑った。
鏡の私も小さく笑っている。
『いい加減お風呂に入らなくちゃ。明日も仕事だ』
そう考えてまた気が重くなる。
瑞稀ははあっと大きなため息をつこうとして……
鏡の中の瑞稀が、それより先にはあっとため息をついた。
「え?」
身体が硬直する。
――今、鏡の中の瑞稀と動きがズレていた。
驚いてまじまじと鏡の中の瑞稀を見つめる。
鏡の中の瑞稀も、驚いた顔でまじまじと瑞稀を見つめている。
『疲れてるんだわ。早くお風呂に入って寝なくっちゃ』
鏡の中の瑞稀と共に苦笑しながら、何となく鏡の自分に触れてみた。
グルンと世界が反転したような気がした。
――目眩?
いや、違う。
ここは……違う。ここは瑞稀のいた世界ではない。
周りを見回すといつもの部屋だったが、だけどここは瑞稀の部屋ではない。
分かるのだ。――何故だか分からないけど。
私は『谷口瑞稀』だ。
それに変わりはない。
だけどこの世界の瑞稀は、『会社勤めの事務員の瑞稀』ではない。
『母の経営する小さなカフェを手伝う瑞稀』だ。
この世界の瑞稀の記憶が頭の中に自然に流れてくる。
――母の経営するカフェ?
瑞稀は首をかしげる。
瑞稀の母は、小学校の教員だ。
とても真面目な人で、瑞稀が就職を考え出した時も、
「サービス業は駄目よ。あんなの若いうちしか身体がついていかない仕事よ。事務員になって堅実な道を進みなさい」
そう母に強く推されて瑞稀は事務員の道を選んだのだ。
「事務員になって堅実な道を」
それは母が体調を崩しがちになった事もあって、尚更に瑞稀の将来を心配してかけられた言葉だった。
学生時代は接客業が好きで、『カフェで働きたい』と強く思っていた瑞稀だったが、確かに先を考えると『堅実な仕事の方が安心だ』とも思えたので、母が接客業を否定した時からその道は諦めていた。
だけど。
だけどこの世界の母はカフェを開いている。
とても小さくて古いお店だけど、カフェはカフェだ。
常連さんもたくさんいる。
『本当に?本当に明日からカフェで働けるの?事務の仕事ではなくて?』
瑞稀は、鏡の中の瑞稀を見ながら涙が出そうだった。
鏡の中の瑞稀も泣きそうな顔で瑞稀を見つめている。
どうやら……鏡の中の瑞稀は、接客業が苦手なようだ。
この世界の瑞希が就職を考え出した頃、母が体調を崩しがちになり、母のお店を手伝うように頼まれたみたいだ。
学生時代に事務業のバイトをしていたこの世界の瑞稀は、本当は堅実な事務の仕事を就職先として選びたかった。
立ち仕事なんて嫌いだし、常連さんとのお喋りも面倒だった。飲み物や食べ物を提供するなんて、どこに面白味があるのかさえ分からない。
今日のこの世界の瑞稀の一日は、特に最悪だった。
今日は母の体調が悪かったので、瑞稀は一人で店を回していた。
そんな時に限って忙しいお昼に、「今、虫がサンドイッチにとまった」と返品交換を言われるし、今日は営業時間が終わってもいつまでも客が帰ってくれなかった。
別れ話をしているカップルだったので、流石に声をかけづらく、最後には女がコップの水を男に浴びせていた。――床を拭くのは瑞稀なのに。
閉店後に客が使った後のトイレ掃除をしながら、瑞稀は泣いた。
『もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう嫌だ。もう何もかも投げ出したい!』
そんな感情が湧き出すが、投げ出す訳にはいかなかった。
それが瑞稀の生きる現実だからだ。
そうして疲れ果てて帰ってきて、ソファーに倒れ込んで今まで寝てしまっていた。
『なるほど。鏡の中の私は、そんな事情があってこの世界から抜け出したかったのね』
『なるほど』と瑞稀が頷くと、鏡の中の私も『なるほど』と納得する表情をする。
それがおかしくて笑うと、鏡の中の私もおかしそうに笑っている。
「ねえ、あなたはその世界の仕事の方が得意なんだよね。このまま入れ替わっちゃいましょう?」
瑞稀の口と同じ動きをする鏡の瑞稀に、瑞稀はにっこりと笑いかけた。
鏡の中の瑞稀もにっこりと笑う。
どうやらお互い納得の上に、入れ替わる事が出来たようだ。
翌朝、瑞稀は早朝に目覚めた。
今日から始まる新しい一日が楽しみすぎて、これ以上は眠れない。
『そうだ。今日から接客業なら、ちゃんと綺麗にしておかなくっちゃ』
最近は毎日が辛くて化粧をするのも億劫になっていたが、元々瑞稀はコスメ好きだ。
学生時代もバイト先のカフェでたくさんのお客様と顔を合わせるので、メイクに力を入れていた。
厚化粧ではなく、『ナチュラルで可愛い自分』を創り上げるのが楽しいのだ。
……たとえ『可愛い』と誰も褒めてくれなくても、自分史上可愛いという事にしておこう。
念入りに基礎化粧品をお肌に押し込んで、時間をかけてお肌の基盤を作る。
それからUV下地を塗って、コンシーラーでアラだけ隠して、ちょこっと隠しハイライトやシェーディングを入れて、艶肌の小顔効果を狙う。
化粧直しをする時間がないと思うので、ファンデーションは使わない。塗らなければ崩れる事はない。
軽くパウダーをTゾーンに乗せるだけにする。
アイシャドウは優しく見える色合いのものにして目力をつけすぎないように気をつける。
それから眉も人好きするような優しげなラインにして、頬には自然な感じで血色良く見えるようにチークを入れる。
完成だ。
今日は久しぶりに頑張った。
瑞稀は学生の頃の浮き立つ気分が蘇ったように感じていた。
鏡に向かってニッコリ微笑んでみる。
鏡の中には、明るい笑顔のなかなか可愛い瑞稀がいた。
――自分で言うのはどうかと思うが。
だけどそんな風に自分を認められた事が、瑞稀は嬉しかった。
やっと息が出来たような気持ちになれたのだ。
ご機嫌で鏡を見つめると、鏡の中の瑞稀も機嫌良さそうに見つめてくる。
『よくあんな仕事をする日に、そんな気合い入れた顔を作ろうと思えるわね』
鏡の中の瑞稀に呆れた顔を見せると、鏡の中の瑞稀も呆れていた。
苦しいだけだった元の世界を喜ぶ、鏡の中の自分。
――それに呆れるお互いの自分。
どうやら一晩経っても、お互いの気持ちに変わる事はないらしい。
「私と、鏡の中の私。なんかややこしいわね」
瑞稀はふふふと笑って鏡に背を向ける。
そしてウキウキと浮き立つような気分で、瑞稀は母の経営するカフェに向かった。
母は今日も調子が悪そうなので、仕事は瑞稀一人だ。
だけど不安はない。
元の瑞稀の記憶があるので、やるべき事は分かっている。ただ思考が入れ替わっただけなのだ。
誰も新しい瑞稀を見て不審に思う事はないし、瑞稀にとっては新しく出逢ったお客様でも、ちゃんとその人を認識出来た。
「いらっしゃいませ、山田さん!今日も暑いですね」
瑞稀が、常連のおじさんの山田さんに声をかけると、山田さんは一瞬驚いた顔をしたが、嬉しそうに笑ってくれた。
「瑞稀ちゃん、おはよう。なんか良いことあったの?そうやって綺麗にしていたら、瑞稀ちゃんのファンがたくさん出来ちゃうだろうね」
「じゃあ毎日綺麗にしておこうかな」
瑞稀は軽く言葉を返す。
「いらっしゃいませ、笠井さん。今からお仕事、大変ですね。今日もホットでいいですか?」
常連の笠井さんも一瞬驚く顔を見せるが、嬉しそうだ。
次々と訪れる常連客に愛想よく声をかけながら、瑞稀は心から仕事を楽しめた。
美味しい珈琲を入れるのは得意。
一番美味しいタイミングで、トーストを取り出すのも得意。
軽いお喋りは好きだし、このお店の時間を楽しんでゆっくり寛いでくれているお客様を見るのも嬉しい。
何もかもが輝いて見えた。
『私はこの世界で生きて行きたい』
瑞稀はそう強く感じていた。
お客様が引いたタイミングで、瑞稀がお手洗いに行った時に気づいた事がある。
お手洗いの洗面台には大きな鏡があり、瑞稀が鏡を覗きこむと、そこに映っていたのは今いる世界の瑞稀自身だった。
――元の世界の、事務員の瑞稀はいない。
考えてみれば『そうか』と思う。
この世界の瑞稀はカフェスタッフだ。
母の経営する小さなお店なので制服はなく、元の世界では通勤服として着ていたブラウスとパンツに、ロングエプロンをつけているだけの軽装だ。
元の世界の会社勤めの瑞稀ならば、今頃は事務員の制服に着替えているはず。
同じタイミングでお手洗いに行けたとしても、格好も後ろに映り込む背景も違うのだ。
――鏡に映し合える状況ではない。
今、目の前の鏡に映るのは、この世界にいる瑞稀自身だ。
瑞稀には分かる。
鏡に映る瑞稀が瑞稀自身なのか、元の世界の瑞稀なのか、本人には感覚で分かるらしい。
『お互いの状況が完全に一致した時だけ、元の世界の私と繋がるのかしら?』
そう瑞稀は予想を立てたが、それが真実であるとの確信が、これも感覚として持てた。
『なるほど』
瑞稀は納得をして、またお店の中へ戻っていった。
これからお店は、一番忙しいランチの時間に入る。
鏡を眺めてぼんやりしている暇などないのだ。
お昼もとっくに過ぎて、お客様が引いた頃。
カランと店の扉が開く音が鳴り、またお客様が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
入ってきたお客様に元気よく声をかけ、お客様の顔を見ると、その人は見知った顔だった。
――営業マンの五十嵐さん。
五十嵐さんは、元の世界で事務員をしている時に、瑞稀が散々迷惑をかけた男性だ。
確か五十嵐さんは26歳だったはず。
26歳に見えないくらい落ち着いて見えるが、五十嵐さんは人当たりが良さそうに見えて、本当に人当たりの良い人だ。
五十嵐さんが電話で指示してくる内容は、瑞稀には難し過ぎる事が多かったが、瑞稀の事を頭ごなしに怒ったりしない人だった。
「谷口さんは真摯に仕事に向き合っているからね。今は大変だけど、きっとそのうち仕事にも慣れて、何でも出来るようになるよ」
そう言って、瑞稀が分からなくて失敗しても、間違っているところを丁寧に教えてくれる人だった。
そんな五十嵐さんは、この世界では仕事の接点はない人だ。
たまに彼の営業途中に立ち寄ってくれるお客様のようで、瑞稀の母とは話すが、瑞稀とはほとんど会話をした事はない。
――この世界の瑞稀の記憶が教えてくれる。
そんな事を考えてる瑞稀に、五十嵐さんに声をかけられた。
「あれ?瑞稀さん、いつもと感じが違うね。今日の方が良い感じだよ。……えーっと、アイスコーヒーもらおうかな」
「はい、すぐに用意しますね」
そう答えて、まずはお水と手拭きの用意に動く。
お水を差し出しながら、瑞稀は五十嵐さんに声をかけた。
「今日はちょっと良い事があったんです。このお店に仕事に来るのが楽しみで、お化粧頑張っちゃったんですよ」
おどけたように瑞稀が笑うと、五十嵐さんも少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「そうなんだ。最近の瑞稀さん、なんか元気なかったから心配してたんだよ。仕事を楽しみながら淹れてくれる珈琲、楽しみだね。これから毎日通いたくなるかもね」
そう言葉を返した五十嵐さんと私は、あははと笑い合った。
――この世界で会う五十嵐さんは優しい先輩ではないが、優しいお客様のようだ。
お店で会う五十嵐さんは、元の世界の同じ会社の五十嵐さんより身近に感じられた。
『本当にまた明日も来てくれるといいな』
そんな風に思いながら、瑞稀は今まで元の世界で助けてもらった感謝を込めて、アイスコーヒーの横に小さなクッキーもオマケに付けておいた。
いい一日だった。
全ての時間が充実していた。
あっという間に終わった一日だった。
元の世界でも、仕事の時間はあっという間に過ぎていったが、それは仕事が追いつかず、いつでも焦っていたからだ。
『17時の定時までにミスなく仕事を終わらせないと、また井上先輩を怒らせる』
そんな思いで、いつでも必死だった。
今日はそんな追われる思いで過ごした一日ではない。
『楽しい時間はすぐに過ぎる』、そう言い表したい一日だった。
『さあ、今日は早く休んで明日も頑張ろう!』
お風呂に入る前に洗面台の鏡を覗こうとした瞬間――瑞稀はふいに子供の頃に聞いた怪談を思い出す。
「こっちの世界に来た自分が鏡に戻る事を望むまで、鏡の世界に閉じ込められちゃうんだよ」
『こっちの世界に来た自分』――今の瑞稀にとっては、『今瑞稀のいる鏡の世界から、元の世界に行った自分』だ。
もし、元の世界の瑞稀が、この世界に戻る事を望んでいたら?
元の世界に行った瑞稀はどんな一日を送っただろう。
もしかしたら井上先輩に怒られて、やっぱりこの世界に帰りたいと思っているかもしれない。
「帰りたい」――そう望んでいるだろうか。
そう望まれたら、瑞稀はあの酷い世界に戻るしかないのだろうか。
だけどこんな充実した一日を知った今、今更元の世界に戻る事は出来ない。
あんな辛すぎる日々に耐えられるはずがない。
『帰りたくない』
瑞稀の身体が震える。
鏡の中の真実を見るのが怖かった。
もし元の世界の瑞稀がこの世界に戻る事を望んだら、瑞稀は元の世界に戻されてしまうかもしれない。
子供の頃聞いた怪談は、今の私には怖い話ではなくなっていた。
本当に怖いのは、「鏡の中に閉じ込められて帰れなくなる」事ではなくて、「受け入れる事が出来ない、元の現実に戻されてしまう」事だ。
瑞稀は恐る恐る鏡を覗き込む。
鏡の中の瑞稀も、何かに恐れるような顔をしている。
『怖い。でも確かめなくちゃ』
瑞稀は震える手で、鏡の瑞稀にそっと触れる。
……何も起こらなかった。
世界は反転しなかった。
瑞稀は、はあああと大きな安堵のため息をついた。
鏡の中の瑞稀も安堵のため息をついている様子を見せた。
どうやら鏡の中の瑞稀は、元の世界が気に入ったようだ。
『あんな世界、どうやったら好きになれるか教えてほしいくらいだわ。……助かったけど』
お互いに苦笑しあう私達は、お互いに自分の居場所を見つけたらしい。
もしかしたら、と瑞稀は思う。
『もしかしたら私の本当の世界はここだったのかもしれない。だって違和感が全く感じられないもの。生まれる世界をお互い間違えちゃったのかしら?』
カフェで働きたかったけど、会社勤めで事務の仕事をしていた元の世界の瑞稀。
事務仕事をしたかったけど、母の店で手伝いの仕事をしていたこの世界の瑞稀。
今は新しく『入れ替わった』というより、『元に戻れた』という思いの方が強い。
ふふふと鏡の中の瑞稀と笑い合う。
これからはこの世界での日常が、瑞稀に取っての現実になるのだ。