お味噌汁 〜ある独身男の後悔〜 【1000文字読み切り】
人生を振り返るたびに、あそこからやり直せたら、と思う場面がある。
二十代だった頃、俺は同棲していた。
背が小さく、朗らかな女と。
俺は彼女が…とても好きだった。
ある時彼女が悪戯っぽく言った。
「私が毎日お味噌汁作ってあげよっか?」
「いらない」
俺は素っ気なく答えた。
彼女を見もせずに。
深く考えることなく。
味噌汁はそこまで好きではなかったし、ワカメ入りはむしろ嫌いだった。
その日は豆腐とワカメの味噌汁で、少し機嫌が悪かった。
だから「いらない」と。
三年も一緒に暮らしてその程度の事に気づかない彼女の鈍さにもイラついていた気がする。
…思えば理不尽なことだ。
俺が一言、言えば良かったのだ。
「味噌汁は好きじゃない」と。
「ワカメは嫌いだ」と。
けれど当時の俺は、女が察して当然だと思っていた。
父母の影響もあっただろう。滅多に喋らない父と、その意を汲んで動く母。
男女とは、そういうものだと思っていた。
そして…大事なものを失った。
翌日仕事から帰ると、彼女がいなかった。
シンと冷えた部屋。
名前を呼んでも返事はない。
知らず身体が震えた。
そして机の上の書き置きに気づく。
『さようなら。お元気で』
たったそれだけ。
小さな一筆箋にそれだけ。
嘘だと思った。
彼女がいなくなるなど、考えもしなかった。
だから…すぐ帰ってくると思おうとした。
けれど、一週間経っても一月経っても彼女は戻ってこない。
今とは違い、ネットも携帯電話も無い時代だ。
住所と家の電話。
それを知らなければ連絡の取りようがない。
そして俺は、そのどちらも知らなかった。
彼女はここに住んでいたし、実家については…聞いた事がなかった。
勤め先の会社の名前は何度か聞いた気がするが、覚えていなかった。
一縷の望みを託して彼女と知り合った喫茶店に行ったが…そこには新しいビルが建っていた。
あれから何十年も経った今日、いつものように休日の繁華街を当てもなく歩いていた。
何故か目が吸い寄せられるように動き…
そこに、彼女がいた。
思わず棒立ちになる。
「…久しぶりね」
驚いてから苦笑した彼女に、ただ「ああ」と答えた。
それ以上言葉が出てこなかった。
「…今、幸せ?」
と聞かれて、また「ああ」と。
少しも幸せではないのに。
彼女は「そう」と微笑むと、あっさり背を向け去っていった。
隣にいた優しそうな男と一緒に。
彼女と揃いの指輪を嵌めた男と。
…ああ君にはもう、毎日味噌汁を作る相手がいるのか
遠ざかる背を、呆然と見送った。