宗教嘲弄
まず唯一絶対、全知全能の神が人間に何かを望む。道徳、信仰、喜捨、その他あらゆる形で人間の在り方を規定する。これ自体滑稽である。
ここで勘違いして欲しく無いのだが、全知全能なのに現状を変革せず、人間に放任している事を言っているのではない。全知全能なのに何かを望むこと自体、もっと言えば感情を持つこと自体が、滑稽で人間的なのだ。
「神がそれを望まれる」事自体有り得ない。もっと言えば、神という主体は存続し得ない。
何かを望むのは生物ゆえである。逆に、何かを望んだから生物としてここに存在するのである。自殺を望む者は、死ぬか、それとも死ぬ能力すら無いかである。
無機物が望む事ができるかは、ここでは議論しない。その結論がどうあれ、0が0であることを言うのみだからである。
話を戻そう。生物は望む。望んだからこそ生物としてそこにある。では神は何を望むであろうか。全知全能、唯一絶対の存在が?
「望む」などという事自体が有り得ないのである。背理法によって証明する。
まずある時点において神が何かを望んだとする。次にそれは須臾の内に達成される。神の全知全能ゆえである。
また、神はすべてを見透される。故に自身が何を望むかも見透される。ある時点において神がそれを望み、その時点においてその望みが達成されることが、神の全知全能故に、永遠に過去遡って決定される。
この時、ある時点において神が何かを望むという事に矛盾する。
以上よりある時点において神が何かを望んだと仮定すると、神の望みは永遠過去に遡って解決するが故に、ある時点において神が何かを望むことに矛盾する、よって神がいかなる時点においても何も望まないことが示された。
唯一神が生じた時に望んだのだ、という人がいるかもしれないが、その人は唯一神を信じていない。唯一神は過去にも未来にも永遠だからである。そうでなければ唯一たり得ないのだから。よって唯一神が何も望まないことも、過去、未来に永遠である。
唯一神は望まない。
それゆえに、一神教では神の存在を自明視するのである。せざるを得ないのである。
さて、あらゆる価値観は前提を要求する。必ずどこかで開き直る必要がある。ほぼ全ての価値観が前提とするのが人間の存在である。汝は存在しない等と宣う価値観には意味がない。自身の存在は証明事項でなくて前提であり、また証明不可能である。
あらゆる価値観は前提を要求するという点では宗教的である。ある条件を絶対視することを宗教的と批難する事があるが、無意味である。
多様性の統一、とは言い得て妙である。多様性擁護は最大多数の最大幸福達成のための手段なのだから、集団の幸福に寄与しない価値観は当然弾圧される-ナチズムを例に出すまでもない-。