第40話 消失
ピピピ、ピピピ、ピピピ――。
無機質な電子音が、今日も僕を起こすための職務を全うする。
僕は、少しひんやりとした部屋の空気を感じながら、充電器を挿したスマホのアラームを停止させた。
時刻は朝の8時。
今日は学校の授業がない土曜日なので、少し遅めの起床だ。
なのに、頭の中はまだスッキリしておらず、瞼も重い。
しかし、そのまま温かい布団の中へと戻りたい気持ちを抑えて、僕はリビングへと向かう。
そして、ソファのほうへと目を向けると、掛布団で叶実さんの姿が完全に隠れてしまっていた。
やはり、12月ということもあって、部屋の中は少し肌寒い。
それに、いつもの叶実さんなら自分で暖房を付けて寝たりするのだけれど、どうやら昨日はそのまま暖房を付けずに眠ってしまったらしい。
なので、僕は暖房を入れたのち、叶実さんが起きないように朝食の準備を始める。
今日の僕の予定は、姉さんの家に行って、愛衣ちゃんの勉強を見ることになっている。
昨日のこともあって、叶実さんを1人にしてしまうのは少し心配だったけれど、もしかしたら、逆に僕がいない時間があるほうが、叶実さんも気を遣わないで済むかもしれない。
それに、少し予定より早めに行けば、姉さんからも昨日のことを色々と話ができるかもしれないので、却って良いタイミングだったと考えることにした。
「えっと……卵、卵っと……あれ?」
しかし、軽めの朝食を作るために冷蔵庫を開けたところで、僕の視界がある違和感を捉える。
それは、冷蔵庫の中……ではなく、キッチンに入ったときに、僅かに開いた棚の扉だった。
その棚は、叶実さんが通販などで買い込んだお菓子が大量にストックされている。
いつもなら「深夜にまた叶実さんが勝手にお菓子を食べたんだろう」とため息を吐くだけなのだが、どうにも気になってしまった。
僕は、一度取り出そうとした卵を再び冷蔵庫に戻して、その棚の扉を開けて中を確認する。
すると、僕が整頓していたはずのお菓子のストックの袋が、ごちゃごちゃになってしまっていた。
明らかに、誰かが触った痕跡がある。
そして、それが僕以外だと考えると、1人しかいない。
……ただ、何度も言うように、犯人が叶実さんだったとしても、それを僕がそこまで気にすることはないし、今までだって何回もそういうことがあったので珍しいことじゃない。
だけど、僕がその棚を確認して、さらに首を傾げる理由になったのには、他にも理由があったからだ。
「……お菓子。減ってないよね」
僕は、一応ちゃんとお菓子のストック量を覚えている。
それを考慮すると、お菓子の袋が1つも減っていないのだ。
なのに、叶実さんが触ったような痕跡が残っている。
気づいてしまえば、どうしても気になってしまう……。
僕は朝食を作ることを中止して、一度叶実さんが眠っているソファの近くに近づいていく。
「……ん?」
そして、目の前まで来ると、すぐに違和感に気が付いた。
僕が最初にリビングへと入ってきたとき、叶実さんは部屋が寒いから布団を被っているのだと思っていた。
でも、それだと布団の嵩が、あまりにも小さい。
とても、人が1人入っているような嵩ではない。
……僕は、ソファの布団を掴んで、引き剥がした。
――すると、そこに叶実さんの姿がなかった。
「叶実さんっ!」
今まで、当たり前にいた人がそこにいない。
その現実は、僕を混乱させる。
こんなこと、今まで1回もなかった。
僕はそのあと、お風呂やトイレ、普段は使っていない物置となってしまっている部屋も覗いてみたが、やはりそこにも叶実さんはいなかった。
まさか、1人でこの家から出て行ってしまったのか?
やや飛躍した考えかもしれないが、それだけ僕にとっては衝撃的な出来事だったのだ。
そう考えてみたものの、それはあまり現実感のない話だ。
だとすると、一体どこに……。
――カコンッ。
静かだった部屋の中に、わずかな音が響く。
その音は、何かビンのようなものが倒れた音だった。
……そして、その音が聴こえてきたほうへと、僕は視線を向ける。
――あっ、そうだ、津久志くん。
ふいに、叶実さんの声が、僕の頭の中で再生される。
あれは、僕がこの家で暮らすことになって、リビングの掃除をしていたときだった。
――この部屋は入っちゃダメだよ。
叶実さんから、そんなことを言われた記憶が蘇る。
ずっと僕が立ち入らなかった、開かずの扉。
襖で仕切られたその部屋から聴こえてきた、何かが動く音。
頭の中で思い浮かんだのは『鶴の恩返し』という童話だった。
僕は一度喉を鳴らして、襖に手を掛けて、呼びかける。
「……叶実さん。そこにいるんですか?」
まさか、自分がお爺さんやお婆さんと同じ体験をするとは考えてもみなかった。
恐る恐る、そう問いかけた僕の呼びかけに、返事はない。
だが、これでそのまま踵を返すというわけにもいかなかった。
僕だって、叶実さんを任せられている責任がある。
いや、責任とかそういう重たい理由なんかじゃなくて、単純に、僕は叶実さんのことが心配なのだ。
この中にいるのなら、その姿を見て安心したい。
僕は覚悟を決めて、襖越しに告げる。
「……叶実さん。入りますよ」
力を込めて、襖を開けた。
「!?」
部屋の電気は、点いていなかった。
だが、その代わりに、真ん中に四角い光が浮かび上がっていた。
そして、それがすぐに何なのかは、一目瞭然だ。
テーブルに置かれたパソコンの画面が、ほのかな光を放っていたのだ。
そして。
――その目の前に、叶実さんがぐったりとした様子で突っ伏していた。
「叶実さん!!」
僕は慌てて、部屋の中へと入っていく。
「うわあっ!?」
だが、一歩踏み込んだ瞬間、何か固いものを踏んでしまう。
そのせいで、僕は派手な音を立てながら転んでしまう。
幸い、和室で畳だったこともあり、頭は打たずに痛みもそこまで酷くはない。
だが、何が起こったのか分からずに呆然としていると「カラカラカラッ」という音に気が付き、目の前に転がってきたものを手に取る。
「これって……!?」
それは、何の変哲もない、ただのビンのはずだった。
だが、そこから漏れる幽かな匂いが、僕を戸惑わせる。
「これ……お酒のビンだ……」
手に取って改めて確認すると、間違いなくそれは、中身が空にお酒のビンだった。
多分、種類的にはハイボールだと思う。
たまに姉さんも飲んでいたのを見たことがある。
そして、僕はようやく、この部屋全体に充満しているアルコール臭に気が付いた。
――何故、そんなことになっているのか。
――そんなものは、考えるまでもない。
「叶実さんっ!?」
そう叫ぶと同時に、僕は突っ伏している叶実さんに近づいた。
そして、彼女の顔を覗き込んだ瞬間、僕は確信する。
叶実さんは、顔を真っ赤になって、口からは酷いアルコール臭が匂ってくる。
僕があれだけ派手に転んだり、呼んだりしても返事をしない理由がやっと理解できた。
「叶実さん!? 叶実さん!? しっかりしてください!」
「……ん。んんっ……!」
焦った僕は、耳元で彼女の名前を呼ぶと、苦しそうではあるものの、ちゃんと返事をしてくれたことに、ほっとする。
だが、パソコンの画面に映っていたものを見て、僕は再び目を見開くことになる。
「これ……」
画面の中には、たった1つの文書ファイルが開いており、たった一行だけ、こう書かれていた。
『ヴァンパイア・ブラッド・キラー 第11巻』
しかし、その先の文章は、空白のままだった。
そして、僕がパソコンの画面から顔を上げると、どうして今まで気づかなかったのかと思うものを、見つけてしまう。
部屋の隅に置かれていた、黒い箱のような形をしたもの。
それが、暗い部屋の中でも、仏壇であることに気付くのに、それほど時間はかからなかった。
「……んんっ」
そして、叶実さんは震える手を僕に伸ばしてして、苦しそうに囁く。
「……おとう……さん」
叶実さんの目に涙が浮かんでいたことに気付いたのは、彼女がそう呟いたときだった。




