第8話 天真爛漫少女の功績
さて、ここで少し叶実さん……もとい七色咲月先生の処女作『ヴァンパイア・ブラッド・キラー』について話しておこうと思う。
『ヴァンパイア・ブラッド・キラー』
通称『ヴァンラキ』は、オリポス出版アテナ文庫から刊行されている人気ライトノベルである。
人間たちが吸血鬼を恐れる世界の中、主人公のスヴェン=グランディールはヴァンパイアの殲滅を目的とした組織『サザンクロス教会』に所属するハンターとして活躍していた。
彼にはほかのハンターのように高尚な理由でヴァンパイアハンターになったわけではなく、孤児として教会に拾われ、ヴァンパイアを殺す為の兵器として育てられた。
そのため、ヴァンパイアは『悪』であり、ただただ殺すべき存在として狩り続ける日々を送る。
しかし、そんなある日、スヴェンは次なる任務の為に訪れた鬱蒼とした森の中に住む、1人の吸血鬼の少女と出会う。
彼女は、ジャンヌ=フルラージュという名前の吸血鬼であった。
今まで、吸血鬼の名前など聞くことすらなかったスヴェンは、自らの名を名乗った彼女をその場で討伐しようとするのだが、彼女は「1日だけ、私を殺すのを待って欲しい」と告げられる。
今までの吸血鬼とは違い、全く戦闘意欲がない様子に戸惑うスヴェンは、戸惑いながらも彼女の願いを聞くことにした。
彼女はスヴェンに礼を告げると、近くの村を訪れ、なんと流行り病で苦しんでいる人間たちの治療を施しているのだった。
村の人間たちは、彼女が吸血鬼であることも承知の上で、村を救ってくれた人物として、報酬の代わりに彼女に血液を提供していた。
そして、全ての治療は終わったとして、彼女は村の人たちに別れを告げてスヴェンと共に森の中へと入っていき、彼女は約束通り、スヴェンに自分を殺すように首を差し出した。
しかし、スヴェンはジャンヌを殺すことなく、その土地を立ち去ろうとしたところで、先ほど訪れた村がサザンクロス教会のヴァンパイアハンターに襲われてしまっていた。
多くの人間たちの命が奪われてしまったことに、胸を痛めるジャンヌ。
そんな彼女の姿をみて、初めて自分の中に秘めていた感情のような何かが芽生えるスヴェン。
そして、村を襲い、ジャンヌの命を狙うヴァンパイアハンターが現れる。
ジャンヌは逃げることなく、村の人たちが死んでしまったのは自分のせいだと言い首を差しだそうとするが、スヴェンはそれを阻止してハンターと対抗する。
その後、スヴェンはサザンクロス教会を裏切っただけではなく、吸血鬼に助力する裏切者として、教会から命を狙われてしまうことになるのだった……。
というのが、『ヴァンラキ』の大まかなあらすじである。
ここから、ジャンヌの命を狙うサザンクロス教会との戦いだけではなく、ヴァンパイア側の者たちと交流していく物語が始まり、その残酷な世界観も相まってカルト的人気を誇る作品となっていった。
しかし、『ヴァンラキ』は2年前の刊行を最後に、新刊が発売されていない。
物語も佳境に差し掛かっているにも関わらず、新刊が発売されないことから様々な憶測が出ているのだが、作者である七色咲月先生が全くメディアに露出していないこともあって、理由が分からないまま、休刊の理由は今もなお謎に包まれていた。
「あー、うんっ! 大丈夫大丈夫! もう津久志くんも来てくれたし、ババっと書けちゃうと思うなぁ!」
しかし、僕の目の前に座る作者ご本人様は、自信満々にそう答えた。
「もうね、わたしの中で創作意欲がぐぐっと急上昇中で……あー! キルとられたー!!」
そして、悔しそうにソファの上でじたばたしながら、唸り声をあげた。
「…………」
一方、僕はそんな姿を晩御飯で使った食器を洗いながら、ジトっとした目で観察を続けていた。
「あー、もう! 今のやられなかったら絶対わたしが勝ってたのにーーー!」
そう言って、叶実さんはゲーム機を抱きかかえるようにしながら、身体を丸めてぐすっと鼻を鳴らしていた。
ちょうど、僕も食器が洗い終わったあとなので、叶実さんの近くまで寄っていく。
「叶実さん。もう夜も遅いですし、ゲームはこれくらいにしておきませんか?」
「……ううっ。そうするぅ……」
連敗が続いていたからなのか、意外にも素直に僕の言うことを聞いてくれた叶実さんは、恨みがましくゲームの電源を落としたかと思うと、すくっと立ち上がってリビングから立ち去ろうとする。
「あれ? 叶実さん? どこ行くんですか?」
「シャワー浴びてくる……」
「あっ、それなら僕が浴槽にお湯入れますけど?」
「ううん……今日はシャワーでいい……」
肩を落としながら歩いていく様子は、さながら敗戦を浴びたボクサーのようであった。
「……よっぽどショックだったのかな」
あそこまで落ち込んでいる様子を見てしまうと、僕がゲーム中に話しかけてしまったことも、なんだか悪いことをしてしまったような気がしてきた。
「……ただ、やっぱり気になるんだよな」
きっと、僕のような『ヴァンラキ』の続編を待ち望んでいる人はたくさんいるのだ。
しかし、僕が来てまだ初日とはいえ、叶実さんが原稿に取り組もうとしている姿を一度も目撃していない。
姉さんの口ぶりから、初めて僕が来た時から原稿の進捗もあまり進んでいないようだったし、少し心配だ。
さっきのように、叶実さんは僕がこの家の掃除をしている間も、スマホゲーをしていたようだし、ご飯が終わると今度はゲーム機に手を伸ばしてソファでゴロゴロしていた。
一応、僕は初日ということで結構緊張していたのだが、叶実さんのそんな様子を見ていると気が抜けるというか、姉さんと一緒に暮らしていたときのような安心感が芽生えてつつあった。
――津久志。お前もあいつのこと、必要以上に甘やかさなくていいからな?
ふいに、姉さんの言葉が蘇ってきた。
いやいや、確かに叶実さんはだらしないところがあるかもしれないけれど、仕事をするときはちゃんと仕事をする人なのだろう。
その証拠に、七色咲月先生の作品は、刊行が止まる2年前までは二ヶ月に一冊という超過密スケジュールで『ヴァンラキ』を発表していたのだ。
それがどれだけ凄いことなのか、ネット小説を書いている僕にとっては容易に想像がついた。
「もしかして……何かスランプに嵌ってたりしてるの……かな?」
排水溝に流れていく水を見つめながら、僕はそんなことを呟いていた。
しかし、もしそうだとしても、小説に関して素人当然の僕に、作家の悩みなど解決できるはずもない。
やっぱり、僕に出来ることといえば、こうして家事のサポートくらいだろう。
姉さんも、そのために僕を派遣したのだし……なんて、平和的なことを考えていたときに、叶実さんが僕を呼ぶ声が聞こえる。
「ねー、津久志くんー! わたしのパジャマって、どこに片付けたっけ?」
その瞬間、僕は洗っていた食器を、危うく落としそうになる。
「ん? どうしたの、津久志くん?」
僕の目の前に、一糸まとわぬ叶実さんの姿があった。
しかし、叶実さんは、何事もないように、首を傾げながら不思議そうに僕を見つめる。
その身体は、一度も日に当たったことがないのかと思うくらい、白く艶やかな肌をしていた。
しかも、シャワーを浴びて、そのままろくに身体を拭かなかったせいなのか、水浸しの彼女の姿が余計に煽情的なものに見えてしまっていた。
幸いなことといえば、バスタオルを一枚、自分の身体の前にかざしていたので、絶対に見てはいけないであろう場所は、僕の方からは上手く隠れていたことだった。
「な、なな、ななななな……」
それでも、男子高校生である僕には刺激が強すぎる光景に、僕は思わず叫んでしまった。
「叶実さんっ!! な、なんて恰好で出て来てるんですか!?」
「えっ? でも、津久志くんって霧子ちゃんと一緒に住んでたんでしょ? だったら、女の子の身体なんて慣れてるでしょ?」
「そんな訳ないでしょ!?」
確かに、姉さんは夏の時期とかは、下着姿で部屋をうろうろすることもあったけれど、それとこれとは話が別に決まっている。
しかも、姉さんのときだって、最初は物凄く戸惑ってしまって、それを姉さんに面白がられた経験だってある。
それなのに、叶実さんと僕は姉弟じゃないどころか、まだ知り合ったばかりの異性なのだ。
驚かないほうがおかしい。
そして、何より叶実さんは……その、見た目は、とても綺麗な女の人だ。
こんなの、意識するなと言われる方が、無理に決まってる!
「いいから! ひとまず脱衣所に戻ってくださいっ! 着替えはちゃんと持っていきますからっ!!」
そう叫びながら、結局、僕は目を瞑りながら叶実さんをひとまず脱衣所まで避難させた。
僕がラブコメの主人公だったら、さぞかし物語の展開に起伏を付けるサービスシーンなのかもしれないけれど、生憎と現実で遭遇してしまった場合には、ただただ罪悪感が残ってしまうだけだった。
「うーん、別にわたしは気にしないんだけどなぁ……」
半ば強制的に再び脱衣所に戻った叶実さんはそう言ってくれたけど、残念ながら僕が気にするし、これからこんなことが日常茶飯事で起こってしまうのであれば、僕の心臓が持たない。
どうやら、これから一緒に生活していく中で、叶実さんの僕に対する認識もちゃんと確認をしておいたほうがよさそうだ。
そんなことを決意しながら、僕はあらかじめ洗濯をして畳んでおいたパジャマを用意して叶実さんの待つ脱衣所へと向かう。
そのときに、ちゃんと下着も持って行ったのだけれど、彼女の下着に触れてしまうときに、またしてもちょっと申し訳ない気持ちになってしまったが、こればかりは変に意識をしても仕方がないので、僕の方の認識を改めようと思ったのだった。
「ふぅ~、気持ちよかったぁ~」
数分後、シャワーを終えた叶実さんが出てきた頃には、僕の気持ちも少し落ち着いていたけれど、気を抜けばすぐに先ほどの光景を思い出してしまいそうだ。
「あっ、そうだ。アイスが確かあったはず~」
しかし、僕の気持ちなどいざ知らず、叶実さんはアイスを取ろうと冷蔵庫に近づいたところで、僕はそれを制止する。
「叶実さん、駄目ですよ。髪の毛そんな濡れたままじゃあ、風邪引いちゃいます」
「大丈夫だよ。いつもこんな感じだし。放っておいたら勝手に乾くよ。あとドライヤーって面倒くさいんだもん」
ぶー、と不満そうな顔をする叶実さん。
よっぽどアイスが食べたいのか、はたまた本当に面倒くさいだけなのか、おそらく後者の理由のような気がするが、今の時期はいいとしても、これからもっと寒くなるので体調を崩すきっかけになってしまう。
「……あっ、そうだ! だったら、津久志くんに乾かしてもらえばいいんだ!」
と、僕が理解するよりも早く、叶実さんは洗面所へ向かうと、すぐにドライヤーを片手にリビングへと戻ってきた。
「はい、それじゃあ宜しくね!」
そして、僕にドライヤーを手渡すと、ソファの定位置に戻ってアイスを食し始めた。
「あの……叶実さん?」
「ほらほら、津久志くんも早く! あっ、そこのコンセント適当に使ってくれていいからね」
結果、僕はアイスを食べる叶実さんの髪をドライヤーで乾かすという、なんとも奇妙な構図が出来上がってしまった。
これじゃあ、家政婦どころか宮廷でお姫様の世話をする執事みたいだなと思いつつも、透き通るような髪から香る甘い香りのせいで上手く思考が働かない。
というか、意外とこれはこれで恥ずかしい!
こんなこと、姉さん相手でもやったことないのに……。
叶実さんの髪の毛は、さらさらしていてまるで織物のように光り輝いていた。
それに、後ろからドライヤーを掛けるということもあって、彼女の綺麗なうなじもよく見える。
やっと落ち着いていた心臓が、またバクバクと鳴り始めた。
僕は、そんな自分を落ち着かせようと、無心になって彼女の髪を乾かすことに集中する。
その間も、叶実さんはご機嫌な様子でアイスを口に運んでいる。
きっと、これから先、こんなことがずっと続くのだろう。
大変だな、と思いつつも、どこかで楽しそうに思ってしまう自分もいたことに、僕は気付かない振りをしたのだった。