番外編:君はメルヘン
お待たせいたしました。
マリと杏也の話です。
マリは、震える手でもって、目の前にあるリボンを引っ張る。
するっとそれは簡単に解け、目の前の、甘やかだがまるで、獲物を捕らえる獣のような鋭さを持つ瞳に、パサリと髪が掛かった。マリの手は更に震える。
「あ、杏ちゃ〜ん」
「ああ、駄目駄目、二人きりの時は、杏也って呼ばないと」
「きょ、杏也君……?」
「君もいらないのに……まぁいっか。で、何? マリ……」
「え、えっとー、髪を解いてくれって言うのは、別に構わないんだけど……。な、何で私達、向き合ってるのかなーって……。う、後ろからじゃ、駄目……?」
顔を真っ赤にして、しどろもどろで言うマリに、杏也はクスリと笑い、更に顔を近づけた。
ギクッと、顔を強張らせるマリ。ちょっと怯えている。
「何でって、俺の髪を解いてくれる、マリの顔が見たいからだろ? それに……」
また更に顔を近づけ、マリの目を真っ直ぐに見つめると、ボソリと囁いた。
「俺がマリの髪を解く所、見て欲しいし……」
そう言って、マリの髪を結ぶリボンの端を咥えると、それを彼女の目の前まで引っ張って見せた。
「〜〜っ!!」
マリはもう何も言えない。
一体何故こんな事になったのか、事は数日前に遡る。
その時はまだ、マリは彼の事を彼女だと思っていた。
そして言ってしまった一言、
『何で杏ちゃん、男の子の格好してたの?』
その一言によって、今の状況に到ったと言ってもいいだろう。
正直何故、街中で見かけた男の子を杏ちゃんと思ってしまったのか、今考えてみても不思議でならない。
そもそも、杏也がこの店で働く事になったのは、マリが声をかけた事にある。
杏也はその時、丁度、デートの(男性との)帰りであり、横断歩道を挟んだ向こうの歩道で、信号待ちをしていた。
それを見たマリは、何故だか信号が青となり、此方に向かって歩いてくる杏也に話しかけてしまっていた。
しかも第一声が、
『ねぇあなた、ロリータに興味ない?』
である。
にも拘らず、杏也は別に引くことも、嫌がることもせず、寧ろ楽しそうに話を聞いていた。
そうして、次の日から早速、マリの店にやってきた杏也は、マリの用意したロリータ衣装に身を包み、このロリータショップの店員となったのだった。
(ちょ、ちょっと待って? だとしたら私、杏ちゃんに色んな事話したわよ? 女の子同士でしか話せないような事とか、彼氏の事相談したりとか、それに何より、杏ちゃんの前で私、着替えとかしちゃってなかった?)
マリは、あわわと口を震わせる。
目の前にいる、杏也に目を向ける事が出来なかった。
(ああ、そんなっ、何かやけに見られるなとは思ってたけど、けど……)
その時の事を、思い出してしまうマリ。
杏也はパソコンを弄っていた状態で、着替えるマリを、半ば呆気にとられたように見ていた。
『ん? 如何したの? 幾ら女の子同士だからって、そんなに見られると恥ずかしいわよ』
『え? あ、んー、店長って、スタイルいいから、杏、羨ましいですぅ』
『んもー、杏ちゃん、何言ってるの? 私の妹のミカちゃんに比べたら、私のスタイルなんて、平凡の域よ?』
『……ミカちゃん?』
『そう! ミカちゃん! もう、すっごくカワイーんだから! そんじょそこらの可愛いとは訳が違うのよ? 超絶スーパー可愛いの! ラブリィ! ああっ、堪んない! 思い出しただけでも、お姉ちゃん堪んないからっ! ミカちゃん、ラァヴ!』
『……えっとー、何でもいいんですけどぉ、店長早く着替えた方がいいですよぅ。風邪ひいちゃいますぅ』
『え? あ、そうね……』
そうしてマリは着替えを再開した。
杏也はパソコンを弄っていたが、その時の彼の口元には、苦笑めいた笑みが張り付いていたのを、マリは覚えている。
(バ、バッチリ下着姿見られてたぁーー!! ああん、もう! 穴があったら入りたいー!)
マリは心の中で叫ぶ。
そして、頬が熱くなるのを感じ、両手で押さえると、杏也がクスリと笑った。
「マリ、いま何考えてた?」
「っ!! な、何でもない、です……」
「ククッ、何で急に敬語……? ねぇ、教えてよ、何を考えてた?」
杏也は、頬を押さえていたマリの手を取り、真っ赤にする彼女の顔を覗き込んでいる。
まるで、何でもお見通しだぞという顔をしていた。
「当ててあげようか?」
「え?」
「マリ、俺に色んな話してくれただろ? 流石に吃驚したよ、女の子同士ってあんな事まで話すんだな……」
「っ!!」
「それに気付いてた? マリって、腰の所に、三つ並んだ黒子があるんだぜ?」
「〜〜っ!!」
これ以上赤くなりようがないほど、顔を赤くさせるマリに、杏也はクスクスと笑うのだった。
その後、漸く開放されたマリは、一人控え室で着替えている。
「ハァ〜、如何しよう。まさか、杏ちゃんが男だったなんて……。しかも、あんなあんな――」
またボッと顔を熱くさせるマリ。
「あんなにカッコいいのに、何で私なのかしら……ミカちゃんなら分るけど……――ハッ!」
マリはここで思い出した。
「確か、杏ちゃん……あの時、新しい恋とかって言ってなかった? それに、あの取材の日、杏ちゃんこう言ってたわよね?」
『店長、相手の事が好きなのに、気持ちを打ち明けないで、寧ろ相手の恋を応援しちゃう恋って、如何思いますかぁ?』
「あ、あれって、あれって……もしかしてミカちゃんの事? そしたら、そしたら、杏ちゃんってば、ミカちゃんの事、あ、愛しちゃって――」
バタン!
マリは勢いよくロッカーを閉める。非常に胸がムカムカした。
「……それって、私はミカちゃんの代わりって事なんじゃ……」
そう呟き、マリは唇を尖らせた。
「でもお生憎様、私はミカちゃんみたいに、美人じゃありませんからね!」
そんな文句を、プリプリと言いながら控え室を出る。
すると、いきなりグイッと腕を引っ張られた。
「マリ、随分と着替え、遅くなかった? 俺、待ちくたびれたんだけど……」
そこには、いつもの甘々砂糖菓子の様な杏ちゃんではなく。蕩ける様に微笑む、女慣れしていそうな印象の男性、杏也の姿があった。
その姿を見て、マリは更にムカムカとした。
(何も、私じゃなくてもいいじゃない。女の子には不自由しなさそうなのにっ)
プクッと頬を膨らませると、目の前の杏也が、ブプーと吹き出した。
「ちょっと、マリ。その顔、ミカにそっくりなんだけど」
その言葉を聞いて、ズキンと胸が痛む。
(……私がミカちゃんの姉だから……?)
急に悲しげな顔をするマリを、杏也は笑いを収め、訝しげに見る。
「マリ、何かあった? もしかして、彼氏と喧嘩したとか?」
「え? 彼氏? なんで――」
その時、マリの携帯が鳴り、杏也の瞳が一瞬鋭くなったが、携帯に出たマリは気付かない。
「はい、もしもし? あ、パパ? ……うん……うん……えぇ!? な、何ですってぇ!? それはメルヘン!!」
マリは叫ぶと、携帯を切ってパチンと閉じた。
そして、杏也の方を興奮した瞳で見ると、ガシィッと彼の腕を掴む。
「大変よ、杏ちゃん! ミカちゃんがっ、ミカちゃんがお洒落してるって!! これは一大事だわ! かなりメルヘン!」
「は!? いや、マリ? 今、俺――」
「早速、我が家に直行よ! こんな事、滅多にあるもんじゃないわ!」
興奮状態のマリは、腕を掴む相手が今、杏ちゃんではなく、杏也の格好をしているという事がすっぱりと抜けてしまっていた。
ミカの事とロリータの事、その二つの事となると、周りの見えなくなるマリであった。
「イヤーン、ミカちゃん、プリティ! ラブリィ! 素敵! 素敵すぎるわ、ミカちゃん!!」
「おおっ! そうだろ、そうだろ! オレもミカたんの格好を見て、思わずミカたんにダイブしちまった! ふぅ〜じぃ子ちゃ〜んって!!」
「そんな父に、私は思わず回し蹴りをしてしまったじゃないですか……」
「……ああ、あれはもう見事に決まってたな……」
興奮状態の大和とマリを、ミカは冷たい瞳で、呉羽は乾いた眼差しで見据えた。
そして、その後ろに立っている人物に目を向ける。
「……それで、何で杏也さんがここに居るんですか……」
「ああ、しかも何で、ミカの姉さんと一緒に居るんだ?」
因みに、呉羽がここに居る訳は、二人が自宅デートというものをしている為だ。ミカは我が家に来た彼の為に、お洒落などをしている。外でのお洒落は、この前のデートで懲りたのだ。
そして、マリはそんな二人の言葉を聞き、暫し固まった。
「………」
無言で首を巡らせ、自分の連れてきた杏也を見た。
彼は何だか、困ったように、そして何処か面白そうに、此方を見ている。
「……いや〜ん、間違えたっ!」
ガーンとショックを受けるマリ。
そして、大和はビシッと杏也に向けて指を突きつけると、
「おのれっ、何奴! 名を名乗れぃ!」
以前、呉羽にも言ったセリフを投げかけるのだった。
「ハッハッハッ! そうかそうか、マリっぺの仕事を手伝ってるのか! そうならそうと早く言えよ!」
バンバンと杏也の肩を叩き、ソファーに踏ん反り返る大和。
そして、ここでまた、以前呉羽にもした質問を投げかける。
「で、マリっぺとは、何処まで進んでんの? もう、いくとこまでいった?」
「ちょ、ちょっとパパ!? なんて事聞いてんの!?」
「……本当ですよ。父には、あのバンドウイルカの大和君を見習って欲しいものです……」
「よく娘の彼氏に、んな事聞こうと思えるよな……」
慌てふためくマリに、呆れたようなミカと呉羽。
しかし、当の杏也本人は、涼しい顔で大和に向き合うと、こう言った。
「そうですね……いずれはそうなりたいですね、お父さん……」
シーンと静まり返る室内。
一拍置くと、
『えぇー!?』
マリ、ミカ、呉羽の三人の声が重なった。
大和はというと、じっと杏也を見つめ返している。
「ちょっ、杏也君? 何言ってるの!?」
「本当ですよ、杏也さん! 正気ですか!? それじゃ私、杏也さんの事、兄って呼ぶんですか!?」
「いや、ミカ? ここは、そういう問題じゃねーだろ?」
すると、杏也をじっと見ていた大和が立ち上がり、ビシッと指差しこう言った。
「お前のような奴に、お父さん呼ばわりされたくなーい!」
「え? パパ?」
「は!? 何か世間一般的な父親のセリフを……」
「でも、何でいきなり……」
そして、杏也はというと、そんな大和をじっと見つめ返した後、にっこりと笑いこう返した。
「じゃあ、パパで」
そんな彼に、大和はクワッと口を開いたかと思うと、親指を突き出し一言。
「いーよ♪」
「えぇ!? 何ですか、そのアッサリ感!?」
「えっ? ちょっと、パパ? 杏也君!?」
「……何つーか、疲れる……」
「アハハ、いーじゃん、いーじゃん♪ オレ達すっかり仲良しさんって事で」
杏也の肩を抱き、大和は愉快そうに笑った。
そして大和は、ソファーで今まで、ずっと気配を消していた小鳥に顔を向ける。
「なー、コトちゃん、いーよなぁ?」
すると小鳥は、コクリと頷き、親指を突き出すと一言。
「いーよ♪」
そしてそんな中、杏也は大和に肩を抱かれたまま、必死に笑いを堪えているようだった。
「んもぅ! 折角の呉羽君との自宅デートが台無しです! 呉羽君、部屋に行きましょう!」
ミカが騒がしいリビングに憤慨した様子で、立ち上がった。促された呉羽も、戸惑った顔を見せつつも、「ああ」と頷いて立ち上がる。
「まぁ、ちょっと待ちたまえ純情少年! 娘の彼氏の君達に、いー事を教えてやろーじゃないか! ほれ、カモン!」
杏也の肩を抱いたまま、大和は呉羽を手招きする。
呉羽はミカを気にしつつ、大和に近付いてゆくと、グイッと引っ張られ、額をつき合わさんばかりに顔を寄せられる。
そして杏也もまた、グイッと引っ張られ、男3人で内緒話をする事になった。
「あー! ちょっと父!? 呉羽君に何吹き込んでるんですか!」
「えーと、杏也君? 別にパパに付き合おうとしなくてもいいのよ?」
しかし、杏也と呉羽は、大和の話に聞き入っており、時折呉羽が、顔を真っ赤にして、「うえぇ!?」と声を上げている。杏也は杏也で、興味深そうに何度か質問を返していた。
すると、話が終わったようで、大和は二人を解放する。
「もう、父! 一体何を吹き込んだんですか!?」
「あっはっはっ! それは秘密だ、Myドーター! でも、おのずと分かるんじゃね? なぁ、純情少年!」
「うっ、はっ、いや、あのっ」
「呉羽君? 一旦何なんですか?」
ミカは呉羽の腕を掴んで、聞きだそうとするが、彼は言葉を濁すばかりだ。
マリは、躊躇いがちに杏也を見上げる。
「あ、あの、杏也君。その、本当にいいんだからね? 無理にパパに付き合おうとしなくても……ね?」
そんなマリの言葉を無視するように、杏也はにっこりと笑うと彼女の手を掴んで、大和を振り返った。
「じゃあ、パパさん。早速試してみます」
「んなっ!! ちょっ、おまっ、そんな早速って! 親に向かってそんな宣言――」
呉羽は、顔を真っ赤にして慌てている。
大和はそんな杏也を、眉を寄せ、厳しい顔で見つめ返すと、
「グッドラック!」
ビシッと敬礼をして見送る。
その隣で小鳥もまた、同じ格好をすると、
「むっもまっむ!」
煎餅を咥えたままそう言い、煎餅の端を掴むと、パリンと割って見せる。
そして杏也は、ピクピクと頬を引きつらせながら、マリの部屋へと向かうのだった。
マリの自室へ入るなり、その場にしゃがみ込み、肩を震わせる杏也。
「ククッ、ちょっと、あの人たち面白すぎ!」
マリはそんな彼を見下ろしながら、眉を下げポソッと話しかける。
「あの……杏也君? その、えっと、ごめんね?」
いきなり謝られた杏也は、笑うのを止め、マリを見上げる。
「……何が?」
「えっと……だって、杏也君はミカちゃんの事、好きだったんでしょう? あ、愛しちゃう位に……。なのに私、傷口に塩を塗るような事を……」
先程のミカの様子を思い出すマリ。彼氏の姿もある事から、恐らくデートだろうと思われる。しかも、彼の為に嫌いなお洒落までしている。
それを見て、この杏也はどう思ったのだろうかと、マリは自分の無神経さに腹が立った。
(私、サイテーかも……)
マリは心の中でそう呟いていた。
杏也は、そんなマリの様子を見て、暫し考えたあと立ち上がると、その眉を寄せる彼女の顔を覗き込んだ。
「俺の方こそ、ごめん」
「え?」
「彼氏面して……マリには、他に彼氏がいるのにね?」
「えぇ!?」
「だけど言ったろ? この恋は遠慮しないって……」
杏也の瞳に、あの獲物を捕らえる鋭さが宿る。
マリは、まるで獣に狙われる小動物のように怯え、一歩下がった。
しかし、距離が離れないように、杏也はそれよりも大きく、一歩前に出た。
「えっと、杏也君? 私――」
「そういえば、マリ言ってたよな? 確か耳の後ろ、好きな人に触られると、感じちゃうんだっけ?」
「え? あ……」
(ああっ、言った! 杏ちゃんの時に、そんな話しちゃった!)
マリの顔がサッと青ざめた。
それに対して、杏也は至極楽しそうに、マリを眺めている。
「じゃあ確かめてみようか? マリが俺を好きか如何か――……」
「え? あ、うっ……だ、駄目!」
マリは杏也の手が伸びてきて、自分に触れようとするのを、必死になって抗った。
しかし、その両手は掴まれ、顔の直ぐ近くに不適に笑う彼の顔がある。そして、耳元でボソッと甘く掠れた声で囁かれた。
「じゃあ、口で触っちゃうよ? マリの感じる所――」
「ひゃんっ」
ガクンと膝をつくマリ。
一体何が起きたのか分からず、ポカンとした顔をしてしまう。
杏也もまた、驚いた顔をして、膝をついてしまったマリを見下ろしていたが、やがてフッと笑うと、彼女に目線を合わせるように床に膝をついた。
(な、何!? 今のは何!? 耳にボソッとされて、そしたらゾクゾクッときて、足に力が入らなくなって――)
「マリ、俺の声だけで感じちゃった?」
「え? えぇ!?」
(ないない! そんなのある訳ない! だって、今までそんな事なかったもの!)
口をパクパクさせながら、首をぶんぶんと振って見せるが、杏也は嬉しそうに、そして甘く蕩ける様にマリに向かって微笑む。
「マリって、そんなに俺の事が好きだったんだな……じゃあ、彼氏とは別れなきゃ……」
「あ――……」
(そうだ! 杏也君ってば、誤解してるわ! 私、この前、彼氏とは別れたのに……。そういえば、この話をしようとした日に、杏ちゃんが男だって知らされたのよね……)
そのお陰で、この話は言えずじまいとなったのだ。
「うーん」と唸りながら考えていると、杏也の瞳が、更に鋭いものとなる。
「何をそんなに考えてんのかな? そんなに、彼氏と別れたくない?」
「え? いや、だからね――」
「さっき、パパさんから何を聞いたか、教えてやろうか?」
「え?」
「この部屋ってさ、防音なんだって……」
「えぇ!? でもだって、大きな声出せば、外に聞こえるわよ?」
今までの経験で、そう言ったマリであったが、杏也は笑みを深くさせると、立ち上がり、扉の近くの壁に指を這わせる。
「あ、あった」
そう呟き、一度マリを振り返ると、パカッと壁の一部を開いて見せた。
「えぇー!? 何それー!?」
開いた中には、ボタンが二つあり、(開・閉)と書かれていた。
杏也は何の躊躇いも無く、その(閉)のボタンを押す。
すると、音も無く、扉にもう一枚の扉が出てきて、そして静かに閉まった。
「扉も二重構造になってて、もう一つの扉を閉めると、完璧な防音部屋になるんだってさ」
「………」
マリはもう、開いた口が塞がらない。
今まで、二十と数年ここに住んでいるが、こんなものがあったなんて一度として気付かなかったのだ。
「因みに、ベッドの近くの壁にも、同じボタンがあるって、パパさん言ってたな」
「……ハァ!?」
(パパってば、何考えてんの!? 娘の部屋にこんな仕掛け作るなんてっ!)
信じられない思いで、扉を眺めていると、杏也がクスクスと笑った。
訝しげにマリが目を向けると、彼は此方に近付いて膝をつくと、目線を合わせてくる。
「メルヘンって、言わないんだな?」
「へ!?」
「てっきり言うかと思ったのに……」
「こ、これはメルヘンじゃないもん! パパのスケベ心だもん!」
「じゃあ、女だと思ってた、自分の店の店員が、実は男だった事は?」
「うっ、それは――」
「そして、その男が、彼氏と別れてくれって迫ってくる事は?」
ジリッと杏也がにじり寄ってくる。マリもジリジリと下がった。
「耳元で囁かれただけで感じちゃう事は?」
トンと背中に、固い壁の感触が……。
「俺が今、ミカよりマリに惹かれてるって言ったら?」
もう逃げ道は無かったが、その杏也の言葉により、マリは目を見開かせる。
そして、
「そ、それはメルヘン?」
そうポツリと呟くと、杏也がフッと寂しげに微笑んだ。
「……メルヘンって、御伽噺……幻想って事だよな? もしかして、信じられない?」
「ち、ちがっ、メルヘンは可愛かったり、綺麗だったり、私の好きなものだったり、憧れだったり……」
「フーン、じゃあ、俺がマリに惹かれてる事は、マリの憧れなんだ……」
「あ……」
マリは今の状況的にも、そして精神的にも、彼から逃げられない事を悟った。
「じゃあ、マリ、彼氏と別れる?」
息が掛かるくらい顔を近づけられて、それでもマリは、彼から目を逸らせる事が出来ずにいた。
そしてマリは首を振る。
「違うの、あのね? 別れるも何も、今、私には彼氏はいないの……」
杏也はそれを聞いて、ピシリと固まった。
マリはそんな杏也に慌てたように、
「あ、あのね? 何度も言おうとしたんだけど、毎回言いそびれちゃって……。そもそも、最初に言おうとした時も、杏也君が男だって知った時で――」
杏也は顔を伏せると、フーと息を吐く。そして顔を上げた時には、満面の笑みになっていた。
しかしマリは、その笑顔に恐怖を感じる。
「じゃあ俺は、居もしないライバル相手に、闘争心剥き出しにしていた訳だ」
「えっ? あっ、う……」
「そしてマリは、俺にずっと黙ってた訳だ……」
「え!? ち、違うわよー! それは――」
「お仕置きだな……」
ギラリと目を光らせ、笑顔が凄みを増した。
マリはヒクッと顔を強張らせ、目に涙を浮かべる。
「言ったろ? この恋は遠慮はしないって。……泣いても遠慮なんかしてやらない……」
「やぅっ」
またもや耳元で囁かれて、ビクリと身体を震わせてしまう。
「声だけでこれだけ感じるんなら、触ったら一体、どんな風になるんだろうな?」
ニッと杏也は笑って見せると、
「幾らでも泣いていいぜ? どうせ防音だし、それに、色んな泣き顔が見てみたい……」
手を伸ばし、マリの頬に触れる。
その雰囲気に反して、その手は何処までも優しく、マリはまたもや目に涙を浮かべる。
「杏也…は、メルヘン……」
ポツリと呟くその言葉に、杏也は蕩けるように微笑む。
初めて彼を見た時、何故声をかけてしまったのか……。
信号待ちをしているその姿を見て、何故メルヘンと思ってしまったのか……。
可愛かったから?
綺麗だったから?
それだけではない事に、マリは気付いた。
それは、好きだと思ったから、憧れてしまったから。
(私は結局、この人に一目惚れしちゃったんだわ……)
蕩けるように微笑む杏也は、更に顔を近づけてくる。
マリは負けを認めるように、瞳を閉じてそれを待つのだった。
〜君はメルヘン・終〜
この物語の中では、ちょいエロな感じのお話でした。
マリって結構コンプレックスがあったりする事が、今回書いていてよく分かりました。ロリータが好きな事もそれに関係するのでしょうかね。フム……。
次回はピーちゃんのお話。お楽しみに!




