第十話:束の間の平穏(?)
「――大将、今日は大将のお任せで頼むわ……」
この寿司屋『松』の大将、林松。
皆からは、まっつぁんと親しみを込めて呼ばれている。
まっつぁんは、目の前の女性をチラリと見た。
愁いをおびた瞳、濡れたような唇、その唇の右下には黒子が存在しており、彼女のセクシーさを、より強調していた。
長い黒髪が開いた胸元に垂れる様は、思わずごくりと唾を呑み込むほど色っぽい。
しかしまっつぁんは、彼女が時折、隣の席を気にしている事に気付いていた。
そこは空席……。
その席を見る彼女の顔は、何処か悲しげであった。
(まだ、あいつの事を忘れられねーでいるんですね、るみ子さん……)
まっつぁんは心の中で呟いた。
「……お待ち」
まっつぁんは彼女の前にネタを出した。
それを見て、彼女はハッとまっつぁんを見る。
それらの寿司は、見た所マグロや甘エビやイクラなど、何も変わったものは無い。
しかし、彼女にとっては思い出の寿司ネタであった。
彼女は一つを口に入れる。
すると、彼女の目からホロリと涙が零れ落ちた……。
「……すいやせん、お客さん……」
まっつぁんが謝る。
彼女は、何故彼が謝るのか分らずに彼の事を見ると、彼は包丁を拭きながら静かに言った。
「どうやら、サビを効かせ過ぎちまったみたいですね……」
そう言って、トンと彼女の前にお茶を出す。
「どうぞ、これで全てを流し込んで下さい。その涙も思い出も――……」
「松さん……」
**********
まっつぁーーん!!
私は机に突っ伏すると、心の中で叫んでいた。
いま私は、続・オヤジ達の沈黙 第一巻 『土曜の午後にはサビ抜きで』を読んでいる。
以前のオヤジ達シリーズが、戦うオヤジ達に対し、続の方は働くオヤジ達となっているのだ。
それにしても、早速出て来ましたなぁ、バタフライるみ子。
一体まっつぁんとは、どんな関係なのやら……。
これからが楽しみです。
「何だ、一ノ瀬。続の方、読み始めたのか」
隣で同志が話し掛けてきた。
「はい、同志。私は今ここで叫びたい。“まっつぁん”と!」
「止めておけ、すっげー目立つから……」
「うーん、それもそうであります」
「それにしても、一ノ瀬がこうして教室で読んでっとこ、初めて見るな。って言うか、実際に読んでっとこ自体、初めてなんだけど、オレ……」
そう言われ、私はズーンと一気に沈み込んだ。
「な、何だ、どうした!?」
同志の慌てる声を聞きながら、私は口を開いた。
「……何でもありませんよ、同志……。ただちょっと、バイト先で思わぬハプニングがございまして……」
私は、先日あった出来事を思い返す。
あの杏ちゃんがっ!! 甘々砂糖菓子だと思ったら、激辛唐辛子にっ!!
その事を忘れる為に、私はオヤジ達の助けを求め、こうして読み耽っているのであります!
「まぁ! どうしましたの、お姉さま!? まさか、呉羽様が何か不埒な事を!?」
沈み込む私を見て、乙女ちゃんも声をかけてきた。
「はぁ!? 何でオレが何かするんだよ!?」
乙女ちゃんを睨む同志。
「あら、呉羽様には、前科がありますでしょう?」
しかし乙女ちゃんはそう言うと、懐からぴらっと裏向きの写真を取り出す。
「なっ!? 何でまだあんだよっ!!」
顔を真っ赤にして、私と写真を交互に見る。
………? 何故私を見るでありますか?
「あら、焼き増しなんて、いくらでも出来ましてよっ!!」
オーホホホと高笑いをする乙女ちゃん。
ああ、やめて乙女ちゃん。
目立ってる、目立ってるよー……って言うか、白い目で見られてるよー……。
と、その時であった。
“ピーン、ポーン、パーン、ポーン♪”
スピーカーからそんな音が流れてくる。
『ただ今より、校長先生から、大事なお話があるそうです。皆さん、速やかに校庭に集まってください……』
少々エコーのかかった、その校内放送。
教室の中の数人が、ガタンと素早く立ち上がる。
あ、このクラスにもいたのか、正じぃファンクラブ。
こうして私たちは校庭へと足を運ぶのだった。
そして、私たち生徒一同はそこに立つ正じぃに釘付けとなるのである。
正じぃは真っ赤なスーツを着用していた。
そして、ラメの入った馬鹿でかい蝶ネクタイ。
一見すれば漫才師である……。
それから、いつもは自然木の杖であるものが、今は黒光りするステッキへと変っていた。
何処となく顔もきりっとしているように思う。
しかし、私たちが釘付けとなったのはそこではない。
それは正じぃの頭だった。
そこには何故か、鳥の巣が乗っている――……。
いや、違う! 鳥の巣の様に見えるカツラだっ!!
想像してみて欲しい、風船の上にちょこんと鳥の巣を乗せた様をっ!!
今の正じぃは、まさにそれだった。
『ちょっと、正じぃのカツラ、サイズ合ってないんじゃないの?』
『ってゆーか、何でいきなりカツラなんだよ。今更つけたって、ハゲな事は皆知ってるだろ?』
そんな囁き声が、あちこちから聞こえてくる。
皆が騒然となる中、正じぃは新しいステッキを突きながら、プルプルとスタンドマイクに近づいてゆく。
皆の視線はその頭へと集中していた。
お、落ちないだろうか?
そんな心配もよそに、正じぃはスタンドマイクに辿りつくと、曲がった腰を精一杯伸ばした。それでも、曲がったものは曲がったままなのだが……。
そして正じぃは、その馬鹿でかい蝶ネクタイをピシッと指で摘むと、声を張り上げた。
『あ〜〜……おされっ!!』
……押され?
私たちは、教頭を見る。
『えー……今日は結婚記念日なので、お洒落をしてみましたー……』
ああ、お洒落ね!と皆が納得すると、正じぃはまた、声を張り上げる。
『あ〜〜……かい〜すっ!!』
え? 何処か痒いの?
『えー……如何ですか皆さん? 格好良いですか? この服、今日おろしたてです……』
えぇ!? 全然違う!
だがその時、何処からともなく鳥が飛んで来て、正じぃの鳥の巣の如きカツラに止まった。
ハァッ!! 本物の鳥までも見分けが付かぬ程、鳥の巣に似ているでありますかぁ!?
私たちは最早、その頭から目を離す事が出来なくなっていた。
そして、その鳥は休憩がすんだのか、飛び立とうと羽を広げた――……。
“バサッ、バサバサバサッ!!”
ああっ! 足に毛が絡まって、飛び立てないでいるぅ!!
ザワザワと皆が騒がしくなる。
鳥は逃げ出そうと、更に暴れた。
すると、そのカツラは正じぃの頭の上で、くるくると回り始める。
正じぃは、その事には気付かず、プルプルと震えながらゆっくりと戻っていった。
『えー……以上、校長先生のお話でしたー……』
教頭の目の前を、校長が歩いてゆく。
しかし、教頭は全く動じていなかった。
『解散――』
って、ちょっとまてぃ!! 校長の話ってそれだけ? てゆーか、鳥は? カツラは?
あー、つっこみ所が多すぎるっちゅーねん!!
不思議な事に、皆、無言で教室に戻ってゆく。
恐らく、私と同じでつっこみ所が多すぎて、何も言えないのであろう。
私の隣には、いつものように同志が立っている。
「……同志……」
「……何だ?」
「今日のお弁当は、肉じゃがと唐揚げとエビフライが入っていますよ」
「おお、やった」
私たちは、そんな他愛ない話をする。
「……杜若?」
「はい、お嬢様……」
「あれが一般庶民の言うお洒落なんですの? 頭の上に鳥の巣を乗せるなんて、奇抜すぎやしないかしら?」
「しかし、お嬢様。中世ヨーロッパでは、貴族の女性は社交界の時に、頭に船の模型を乗せたそうですし……」
「でも、今の時代、生きた鳥を使うなんて、動物虐待ではなくて?」
………まじでか!?
乙女ちゃんとスナイパー渋沢の会話を聞いて、思わず隣の同志と顔を見合わせてしまう。
どうやら、あの正じぃの姿を本気でお洒落と勘違いしているらしい。
うーん、指摘してあげるべきだろうか……。
しかし、先程の光景は、私の精神に多大なダメージを与えている。
せめてオヤジ達と言う、回復アイテムでもって、精神を回復させてからでなくては……。
それにしても、スナイパー渋沢も乙女ちゃんと同様、かなりの世間知らずのよう……。
まぁ、ストーカーを容認しているくらいだからね……。
はぁーと遠くを眺めながら、思わず私は長い溜息をついていたのだった。
お昼休み、今日も屋上でお弁当。
ここの所、晴れの日が続いてラッキーである。
いつものように、スナイパー渋沢がパンパンと手を叩くと、黒子達が現れテーブルや椅子を運び込む。
そして私は、いつも思うのだ。
がんばれビリーと……。
私の頭の中には、ビリーの応援歌が流れている。
ビリー、ビリー、がんばれビリー♪
ビリーは、いっつもビリッけつー♪
身体も小さく力も弱い♪
けれーど、野望はでっかいぞー♪
(セリフ)明日こそは、お嬢の椅子を運ぶであります!!
今ーは、テーブル運びでもー、いつーかお嬢の椅子運びー♪
がんばれ、がんばれ、ビリー♪
そんな事を心の中で歌いながら、私はテーブルを運ぶ数人の黒子の内の一人を見つめている。
ああ、今日も腕がプルプルいってるよ!
わらわらと出てくる黒子の中で、一番体の小さい彼(?)を、私はビリーと呼んでいる。
ビリッけつのビリーと……。
「一ノ瀬? どうした、ボーとして……?」
同志が声を掛けてきて、私はハッとなる。
「いえ、ちょっとビリーの応援を……」
「は!?」
同志は思いっきり変な顔をしている。
ああ、テーブルを運び終わった後も、ビリーはやはり、ビリッけつであった……。
「……同志……」
「何だ?」
「どうしましょう、ビリーの応援歌が、頭を離れません……」
「だから! 何なんだよ、そのビリーって!」
同志が私にそうつっこむ中、今も私の頭の中には、ビリーの応援歌がエンドレスで流れているのだった。