砂は水の夢を見る 2
砂漠から西の山脈を越えた草原に暮らす、野犬の群れがあった。
いつの頃からか、群れの頭は異変を感じていた。
水が染み出している場所は徐々に水量を減らし、同時に、小動物が姿を消し始めていた。山向こうの砂漠と違い、草原には雨も降るし、生きものも様々なものが居る。彼の群れは、左程大所帯ではなかったし、小動物が少々減ったところで、今はまだ暮らしてゆける。
ある日、頭は決心した。ゆとりのある今のうちに山脈を越え、砂漠を突っ切り、東の山脈の向こうに群れを移す。彼ら野犬にとっては大した距離ではない。実際、今迄も砂漠を横断し、東の草原まで足を延ばし狩りをしたことは、少なからずあった。ニンゲンの群れ、「街」にさえ近寄らなければ、彼らを脅かす生き物はそうそう居ない。不安を強いてあげるなら、群れにはまだ子犬が一匹居たが、その子も既に離乳していて、危なっかしいとはいえ自分で動ける。毒蛇や岩場にさえ気を付けてやれば、充分移動可能だろう。
日が暮れ、気温が落ち着き出した頃、野犬達は移動を始めた。山頂を越え、砂漠の外縁部に辿り着くまで、然程の時間はかからなかった。子犬も、何とか無事に山を越え、一息ついたその時だ。
ギシッという不快な音に、たった今越えて来た山を振り返った皆の目に映ったのは、崖の岩肌の一部が剝がれ落ちる瞬間と、その真下で、己に迫って来る岩に足をすくませた子犬の姿だった。
黒い影が奔った。子犬の近くに居た真っ黒な雄犬が、放たれた矢の様な速さで駆け寄り、子犬の首根っこを咥えると、地面と岩の間をひとっ跳びですり抜けた。
間一髪で助けられた子犬は、黒犬が地面に下ろしてやると、恐怖でぶるぶると震えていたが、慌てて近寄って来た母犬に優しく頭を舐められ、やがて落ち着きを取り戻した。
一部始終を見ていた群れの頭は、子犬の無事を確かめると、長居は無用と出発を促した。号令に従い、皆が動き出したが、件の黒犬だけは動かなかった。いや、動けなかった。落石から逃れて着地した際に、左の前足を岩と岩の隙間に挟んでしまったのだ。気づいた仲間達が手伝って、何とか足は抜けたのだが、岩に擦られ血の滲む足は、筋でも痛めたのか、全く力が入らなかった。子犬は、鼻を鳴らしながら彼の周りをうろうろとする。黒犬は、群れの頭に訴えた。皆の行き先はわかっている、先に行っていてくれ、と。そして、悲しそうな子犬に、気にするな、大丈夫だから心配するなと、頭を舐めてやった。群れの頭は、彼に向かい小さく一声吠えると、再び号令をかけ、群れを出発させた。子犬とその母犬は、最後まで彼の傍に居たが、名残惜し気に振り返りながら、群れに従い去って行った。
群れの姿が完全に見えなくなると、黒犬はその場にへたり込んだ。そして、ずきずきと痛むこの足では、当分まともに歩くことは出来ないことを悟った。砂漠でその事実は、死に直結している。群れの頭にも解っていただろう。それでも、あの子犬が無事だったことに彼は満足していた。そして、軽くため息をつき、何時しか眠りに落ちていた。
日が昇り始めて少したった頃、彼は、足音と嗅ぎ慣れない臭いで目を覚ました。顔を上げると、思いの外近くでこちらを見ている一匹のニンゲンと目が合った。唸りながら急いで体を起こしたが、足の痛みで情けない声が漏れてしまった。睨みつけながら体を伏せると、ニンゲンは慌てた様にどこかへ去って行った。もしかしたら、仲間を呼びに行ったのかもしれない。そう思ったが、今の自分は為す術もない。彼は再び目を閉じようとしたが、またもや近づいてくる気配を感じた。臭いで、先程のニンゲンだと知れる。相変わらず一匹だけの様だ。歯をむき出して威嚇したのだが、それは無造作に近づいて来る。そして、彼が飛び掛かることの出来ない絶妙な位置に立ち止まり、どこから持って来たのか手にした器を置くと、腰に下げた袋から器に何かを注いだ。水の匂いだ。
「喉、乾いてないか?」
そのニンゲンが何を言っているのかは解らなかったが、どうやら敵意は無いらしい。そして、水の匂いは、自分がとても喉が渇いていた事を黒犬に気付かせた。それをおくびにも出さず、ニンゲンを睨みながら、彼は唸り続けた。
「俺、あっち行ってるから、気が向いたら飲みなよ」
そう声を掛けると、ニンゲンは西の山の方へと歩いて行った。その後ろ姿が充分に遠のくと、彼は痛む足を引きずって器に近づき、夢中で水を飲んだ。器をあっという間に空にし、そこで横になった。
再びあのニンゲンが姿を現したのは、太陽が最も高い位置に昇った頃だった。黒犬は、日差しを避けることも出来ずに、暑さでぐったりとしていたのだが、西の山から臭いが近づくのに気付くと頭を起こした。ニンゲンは、唸ろうとする黒犬を迂回して、少し離れたところに生肉の小さな塊を置くと、彼を見つめたまま後ろに下がった。どうやら、食べろという事らしい。黒犬は、ニンゲンが充分離れたのを見計らい、足の痛みをこらえて獲物に近寄ると、おかしな臭いがしないことを念入りに確かめ、それを食べた。
黒犬が食事を終えると、ニンゲンは、そろそろと彼の周りで動き出した。黒犬が唸れば立ち止まり、様子を伺いながらゆっくりと動く。それは、黒犬を怖がってというより、怪我をして気が立っている彼を気遣ってのもののように黒犬には感じられた。
彼は唸るのを止め、ニンゲンを観察することにした。
そのニンゲンは、以前遠くから見かけたニンゲン達よりも小さく、まだ子供なのだろうと思われた。ニンゲンの年齢はよくわからないが、自分が助けた子犬よりは育っていそうだ。それでも、子供が一匹で群れを離れて活動しているのが、黒犬には不思議だった。彼の群れでは、子供は必ず大人が見守り、事あれば己を犠牲にしても守る。それでも子供が無事に大人になる確率は、決して高くなかった。だが、この子供は、群れどころか、大人が見守っている気配が全く感じられなかった。
群れの頭は、絶対にニンゲンに近寄ってはいけないと、事あるごとに仲間に教えていた。丸腰の一匹では脅威にならないが、武器を持っていたり、群れるととても厄介な存在だ。喰うためでもなく、野に生きるもの達や、時には同族同士でも殺し合ったりする、とても恐ろしい生きものなのだ、と。元々好奇心の強い黒犬は、特に念入りに頭に教えられていた。
黒犬は、何やらごそごそし始めた子供と、群れの頭の言っていた恐ろしい生きものが、同じ生きものだと思えなかった。背負った荷袋から布を取り出し、その辺に落ちていた枯れ木を手にした時は緊張したが、黒犬に近付くでもなく、黙々と作業をする姿を見て、身体から力を抜いた。それにしても、一体何をしているのだろうか。
暫くして、作業を終えたらしい子供は、黒犬が空にした器を取って来てそこに置くと、水を注ぎ、その場から距離を取った。その頃には、黒犬にも、子供が何をしていたのか見当がついていた。
「日陰。そこよりは過ごしやすいだろ?」
相変わらず何を言っているのかは解らなかったが、子供は黒犬の為に日除けの場所を作っていたのだ。
黒犬は困惑した。子供の真意が解らなかったからだ。罠? だが、砂漠で貴重な水を、獲物に与える必要は無い。そもそも、黒犬は碌に動けないのだ、暫く放っておくだけで、簡単に手に入る。さっきの肉もまだ新鮮だったし、恐らく黒犬の為に、わざわざ用意してきたのだろう。
黒犬は考えるのを止めた。考えても解らないことは、考えない。それもまた、大自然の生き方だ。
水と日陰を求め、よろよろと移動した黒犬を見届けると、子供は「街」のある方角へ去って行った。その日は、もう姿を現さなかった。
次に子供が姿を現したのは、翌日の夜が明けて少したった頃だった。相変わらず、一匹で行動している。昨日作った日陰に黒犬がまだ居るのを見つけると、ほっとした様に笑顔を見せた。
黒犬が伏せていた体を起こし、緊張した様子をみせると、それ以上は決して近寄らず、離れた場所から干し肉を投げてよこした。黒犬は、がつがつとそれを食べた。
「ちょっとずつ貯めた駄賃で買ったんだぞ。もっと味わってくれよ」
子供は笑ってそう言いながら、自分も少し干し肉を齧った。
黒犬が干し肉を平らげると、子供は水の入った袋を見せながら近づいた。黒犬は、唸らなかった。
子供は器にたっぷりと水を注ぎ、黒犬はそれをあっという間に空にした。子供は再び水を注ぐと、そのまま黒犬の近くに座り込んだ。黒犬は、何とも言えない気持ちを持て余した。人間ならば、(気まずい……)というのが近いかもしれない。
黒犬は、子供から離れる様にもぞもぞと体を動かし、そっと身体を伏せた。
暫くそうしていると、子供は唐突に黒犬に話し掛けた。
「脚、痛そうだな」
黒犬がきょとんとしていると、その鼻先に子供はそろそろと手を差し出した。黒犬は匂いを嗅ぐと、ひとなめしてやった。小さな手は、ガサガサだが温かかった。
黒犬の反応が友好的と見たのか、子供は荷袋を漁ると、小さな木の棒と、蓋付きの小さな器を取り出した。器の蓋を開けると、乾燥した何かが入っている。それは、黒犬も嗅いだことのある、西の山の岩場に自生する草の匂いがした。
「これ、痛み止めと、炎症止めになるんだ。俺が前に怪我した時、これ揉んでつけてたら、すぐ治った」
そう言いながら、乾いた植物に水を少しかけ揉みだした。黒犬は黙ってそれを見ていたが、「脚、見せて」と言いながら、子供が手を伸ばして来ると、流石に大人しくしてはいられなかった。
とはいえ、子供相手に本気の威嚇も出来ず、黒犬は、怪我した脚を庇う様に体を低く伏せ、上目遣いで軽く唸るのが関の山だった。
突然、子供は吹き出した。
「お前、そんなに体大きいのに、そこまで怯えなくてもいいだろ。耳、ぺたんこだぞ」
なんとなく馬鹿にされたように感じた黒犬はムッとして、小さく吠えた。子供はそれに怯えることなく、改めてゆっくりと黒犬に手を伸ばした。黒犬は、唸りそうになるのを堪え、子供のすることをなんとか受け入れる努力をした。
子供は、大人しくなった黒犬の傷を水で流し、草から揉みだした汁をそこにかけた。黒犬が思った程傷にしみなかったが、どうしても時折鼻息が漏れてしまう。その度に「もう少し、我慢してな」と子供が励ますのだが、黒犬はもう子供のすることを見ていられなくなり、顔を背けて固く目をつぶりひたすら耐えた。
黒犬にとっての恐怖の時間は終わり、気付けば傷ついた左前脚には、先程の草と添え木が清潔な布で巻かれていた。
「これ、綺麗な色だろ。俺の一番好きな色だ」
子供は、ニコニコと鮮やかな青い布を指差して言った。
「骨は折れてなさそうだし、大人しくしてれば、きっと治るよ。だから、その布、取ったら駄目だぞ」
鬱陶しそうに布を齧っていた黒犬を窘めるように、子供は軽く黒犬の首筋を撫でた。そして、荷袋から干し肉を幾つかと大き目の器を取り出し、たっぷりと水を注ぎ、最初に置いていた器にも水を足すと、干し肉と共に日中陽の当たらない所に並べて置いた。
「俺、もう行かなくちゃ。今日はもう来られないけど、明日必ずまた来るから。干し肉置いておくから、食べて。水、これで足りるといいけど」
黒犬の頭を軽く撫で、荷袋を背負うと、子供は立ち去った。
子供の姿が見えなくなると、黒犬はすることも無いので、寝る事にした。日除けのお蔭で、思ったよりも過ごし易い。傷の痛みは、少し和らいでいた。
うとうととしながら、黒犬は、とりとめのない事を考えていた。
もう少し痛みが引いたら、群れの後を追おう。以前に何度か狩りをしたあたりに居るだろうか。いや、もっと遠くに移動したかもしれない。だが、匂いを辿れば、迷わず辿り着ける自信がある。群れの頭も、自分が無事に現れたら、驚き喜んでくれるだろう。あの子犬も、無事に東の草原まで辿り着いただろうか。甘えて母犬や自分の後を追って来る姿が可愛くて、よく遊んでやった。
子供といえば、あのニンゲン、言っていることは全く分からなかったが、自分を助けるつもりらしい。群れの仲間でもない自分を助けても得など無いというのに。それにしても、あの子供の仲間は全く姿を現さないのはどういうことか。群れをはぐれた訳でもなさそうだが、こんな所に子供だけで来るなんて、何かあったらどうするんだ。あの様子じゃ、きっとまた、ここに来るに違いない。まったくもって、ニンゲンは解らない。
黒犬は、いつの間にか、自分があの子供に対する警戒心を無くしている事に、まだ気付いていなかった。
翌日の日暮れ間近になってから、再び子供が姿を現した。黒犬がまだその場所に居るのを見つけると、ほっとした様子で近づいて来た。
「遅くなって悪い。水、まだあるか?」
急いで器に水を注ぎ、干し肉を取り出した。黒犬がそれらを平らげたのを確認すると、木で出来た箱の様なものを黒犬の目の前に引っ張って来ると、日除けや器を手早く片付け、そこに乗せた。そして、黒犬に向かって言った。
「はい、乗って」
子供の言っていることが解らない黒犬は、黙ってそれを見つめた。
「俺の自作の砂橇。ここじゃゆっくり休めないだろ? 俺が休憩に使ってるところがあるから、そこまで移動しよう。人なんて来ないから、安心して。はい、乗って」
当然、黒犬は動かない。子供は、「こうするんだよ」と言いながら、自らそこに乗り込んでみせ、それを何度か繰り返した。そして、黒犬の背後に周り、尻を押し始めた。
黒犬は、子供の言わんとしていることを悟った……悟ったが、「だが、断る!」とばかりに、尻を押す子供に逆らい、怪我をしていない脚を全て突っ張り、唸りながら抵抗した。そんなへんてこな物に乗る理由も解らないし、何となく嫌な予感がしたのだ。
暫くして、息を切らした子供が力を抜くと、黒犬も力を抜いてその場に伏せた。
子供は、作戦を変えた。
「……俺、信用されてないんだな……そうだよな、俺達、出会ったばっかりだもんな……でも、今日だって、仕事終わってから急いで来たんだぜ。干し肉、美味しかったか? 街で一番美味しい店のだもん、美味しかったよな? いや、別に、恩を売ろうとかいう訳じゃないんだけど……」
そう言いながら、これ見よがしにしょんぼりとして、言葉の通じない筈の黒犬にちらりと目を向けた。
ありがたくない事に、子供の言っていることは、何故か黒犬にほぼ正確に伝わった。
黒犬は暫し考え込み、鼻から吐息とも唸りともつかない「ぼふ」という音を出すと、あからさまに渋々と箱に乗り込んだ。箱の中は、枯草と布が敷いてあり、一見快適そうだった。
黒犬が身体を伏せると、子供はニコニコしながら橇の前に掛けてある縄を手に取った。
「この辺は岩場だから、一寸……まぁ、大分揺れるかもしれないけど、暫く我慢して」
子供は、ゆるゆると橇を牽きだした。本来なら砂場を行くための橇は、岩の塊を踏むたび大きく上下左右に揺れ、黒犬を翻弄する。橇から放り出されない様、黒犬は身体を低く伏せ、無事な脚で必死に布にしがみつき続けた。
沈みかけだった太陽がまだ沈み切る前の、ほんの僅かな移動で子供は足を止めた。
「着いたぞ。大丈夫か?」
振り返った子供に、黒犬の答えは無かった。
黒犬は、すっかり参っていた。まだそれほど長くない犬生とはいえ、こんなに気持ち悪くなったのは初めてだった。目は廻るし、頭もガンガンする。
子供は、よろよろと橇から降りて来る黒犬を手伝ってやった。それから、大きな岩に三方と天井を囲まれた中に、橇から下した枯草と布を敷き直し、水を用意した。その間も黒犬はまったく動けず、ひたすら吐き気と戦っていた。大人しい黒犬をこれ幸いとばかりに、子供は手早く傷の手当てをしなおした。
暫くして吐き気の治まって来た黒犬は、漸く自分が連れて来られた場所を眺める余裕が出て来た。
そこは、山脈からの岩場と砂地が混じりあうところにある自然の岩室だった。黒犬と子供がもう一組寝そべることが出来そうな程の奥行があり、その一番奥に、子供が寝床を用意してくれていた。入口は北を向いていて、これなら日中も日差しをしのげるだろう。過ごしやすそうな割に、何故かニンゲンの匂いは目の前の子供の他には殆どしなかった。理由は、すぐに判明した。
子供が突然腰に差した短刀を抜き、岩室の入り口に素早く移動すると、目の前の地面でそれを振った。黒犬にも、何があったのか臭いで判っていた。子供は、首を落とした蛇を手にして
「この辺は結構居るんだよな。毒の無い奴でよかった。食べる?」
まだ動いている胴体から器用に皮を剥ぎ、ぶつ切りにすると、黒犬に差し出した。子供に「お前は食べないのか?」と問いかける様に見つめると、子供は「俺はルビアの実の方が好き」と言って、赤い実を荷袋から取り出して齧った。骨に辟易しながら蛇を食べる黒犬の隣で、子供はただ黙ってルビアの実を齧っている。その眼は、どこか遠くを見ていた。
その横顔を見て、黒犬は理解した。この子供は一匹で生きているのだ、と。
この子供にどんな事情があるのか、黒犬には知る由もなかった。きっと、孤独ではない。仲間の援けもあるだろう。それを知っているからこそ、この子供には、既に自分の足で立って生きる覚悟があるのだ。
黒犬は、もう彼をただのニンゲンの子供だと思わなかった。彼の口元に己の鼻面を押し付け、頭を垂れた。
「なんだよ、もう。くすぐったいよ」
そう言いながらも、彼は嬉しそうに黒犬の首筋を撫でた。
「ばう」
「え? なんて?」
「ばう」
「うーん、わからない!
まあいいや。俺、一仕事してくる。西の山の夜光花を採って、宿屋に届けなきゃいけないんだ。沢山見つかるよう祈ってて、フウガ」
立ち上がった彼を黒犬が見上げると、照れたように言った。
「名前無いと不便だから。俺は『クウガ』、お前は『フウガ』。また明日な、フウガ」
空の橇を牽きながら、クウガは去って行った。
毎日必ず、クウガはフウガを訪れた。傷の手当てをし、青い布を丁寧に巻き直す。終わると、フウガの為の水と食料を用意し、一日の内のわずかな時間を共に過ごした。楽しそうに何かを話すこともあれば、黙ってフウガの隣に座っているだけの時もあった。クウガの言葉は、フウガに伝わる時も伝わらない時もあったが、そんなことは互いに気にならなかった。
そうして過ごす様になって十日程もたっただろうか、フウガの手当てをしながら、クウガはいつもの様に語り掛けた。
「最近、井戸が変だって、皆が言ってる。でも、街だけじゃない、西の山も、『楽園』も変なんだ。水が減って濁って来てるし、地ネズミとかも居なくなってる。それに、新しい海路が拓けたとかで、北の街に行くのに砂漠を越える商人達もずいぶん減った。近い内、あの街じゃ暮らせなくなるかもしれない。その前に、お前を東の山脈の向こうに連れて行くよ」
フウガは、驚いたようにクウガを見つめた。
「だって、初めて会った時から、フウガ、気付くといつも東の空を見てるだろ。行きたいんだろ?」
クウガは、フウガの首筋に頭をくっつけた。
「フウガの望み、叶えるよ、約束する。はい、手当て、終わり。だいぶ良くなってきてるんじゃない? 今日は、カームの肉と乳を持って来たぞ。生ものだから、お早めにお召し上がり下さい」
すぐ、いつもの調子に戻ったクウガだったが、フウガは何とも言えない気持ちになった。
それから何度かの昼と夜を廻った、ある日のことだった。
何時もなら、どんなに遅くても日没から数刻の間には必ず顔を見せていたクウガが、その日はまだ姿を見せていなかった。昨日は朝早くにやって来たから、一日半以上現れていないことになる。クウガは、何時も多めに水や食料を用意しているので、フウガが困ることは無かったし、クウガが自分を見捨てるなどとは、一瞬でも考え付かなかった。ただ、彼の身に何かあったのかもしれないと思うと、居てもたっても居られず、フウガは岩室の中で立ったり座ったりを繰り返していた。
「街」に行くのは躊躇われた。群れの頭の言い付けもあったし、クウガも決して自分を街に連れて行こうとはしなかった。意を決し岩室から顔を出すと、すぐにクウガの匂いに気付き安堵した。こんな夜中に一匹で来るなんてと憤りつつ、まるで何事も無かったように定位置に戻ってクウガを待った。
「待たせたな、フウガ。乗って。今日は砂場を行くから、この前みたいに揺れないよ」
息を切らせて現れたクウガは、手に持っていた提燈を地面に置くと、せかせかと橇の用意を始めた。
二度とあれには乗りたくないと思っていたフウガだったが、クウガの真剣な様子に、大人しく言う通りにすることにした。
岩場を抜け、砂橇が滑らかに進み出した頃、クウガは橇を止め、フウガの為に水と干し肉を用意した。フウガが食事を終えると、また橇を牽きながら、クウガは静かに切り出した。
「夜明け前、皆で街を出ることになった。その支度をしてたんだ」
クウガの住む街は、水不足がいよいよ深刻な問題となっていた。井戸の水量が減ってきているのは皆気づいていたが、ここ二、三日で次々と枯れてしまったのだ。ほかの街に当てのある者や身軽な者、利に敏い者は、とうに街を出て行って、今も街に残っているのは、子供や老人のいる家族や店舗を構えて商売をしている者が殆どだった。皮肉にも、街の人口が減ったことで水不足は一時的に緩和され、その間に、街の代表がすぐ隣の北の街に援助を求めていた。幸い、北の街は新たな海路のお蔭で景気が良く、水は枯れるどころか、増水の兆しがあるくらいだった。北の街は、まだ街に残っている全員を快く迎え入れてると約束してくれ、各々新たな暮らしの為に荷造りを始めた矢先に、次々と井戸が枯れたのだ。
「俺だったら、どこでも二、三日一人で過ごせるって皆知ってるし、おじさん達には、先に行っててくれるよう書置きもしてきた。フウガを東に連れて行くのはもう少し後でと思ってたけど、きっと、もう街には……この砂漠には、戻ってこない。だから、今日、約束を果たすよ。東の山脈に行こう。山を越えるまで、脚は温存しておいて」
フウガのいた群れが故郷を離れた様に、クウガの仲間達も新たな土地に行くのだ。フウガは理解した。それは、フウガとクウガの別れを意味していた。
「誰かが待っててくれるって、嬉しいもんなんだな。フウガのこと考えると、仕事もいつもより頑張れた。
その青い布な、母さんが縫ってくれた服の一部なんだ。父さんと母さんの顔は忘れたけど、俺の一番好きな色で縫ってくれたのは憶えてる。父さんも、よく似合うぞって褒めてくれた。小さ過ぎて着れなくなっても、捨てられなかった」
フウガを振り返り、クウガはにこっと笑った。
「フウガに使えて良かった。山脈越えたら、それ、返してな。それで、俺の……人間の事は忘れて。大丈夫、フウガが俺を忘れても、俺がフウガを憶えてる。その布が、今度は大事な友達を俺に残してくれるんだ」
フウガは、友と離れがたかった。だが、クウガには、群れで学ぶべき事が、まだ沢山ある。大きく獰猛そうな野犬を連れていることは、きっとクウガにとって有利に働かないだろう。
クウガは、街の窮屈な暮らしにフウガを巻き込みたくなかった。大事な友には、厳しくも大らかな自然が似合う。それに、離れても、忘れても、変わらぬ心があることを、クウガは既に知っていた。
それぞれの世界で生きて行くべき時期が来たのだ。
だが、フウガとクウガが東の山脈にたどり着くことはなかった。
夜が明け、もう少しで「楽園」に辿り着く頃、先を急ぐクウガの息が上がっていることに、フウガは気が付いた。疲れたのかと思ったのだが、それにしては様子がおかしい。不審に思ったフウガが友を呼んだその時、クウガは膝から崩れ落ちた。
フウガは慌てて橇から飛び降り、横たわるクウガの顔を舐め、その熱さに驚いた。
薄く目を開けたクウガは、ゆっくりと手を伸ばし、心配そうなフウガを宥める様にその鼻先に触れた。
「こけちゃった。笑うなよ? ちょっとドジな位が、モテる秘訣なんだぞ……」
クウガはだるそうに身体を起こすと、橇に乗せた荷袋から薬を取り出し飲んだ。
実際、クウガの病は子供がよくかかるもので、突然高い熱が出るのが特徴だったが、薬を飲み、安静にして熱を逃がしてやれば大事に至ることは滅多になく、大抵は三、四日でケロリと治まるのだ。クウガは、当然それを知っていた。身体の丈夫なクウガは、病を軽く見ていた。
薬は飲んだ。大丈夫だ。暑い。これから、どんどん砂漠は暑くなる。せめて、日差しを避けなければ。フウガを連れて行くんだ。ああ、喉が渇く。フウガにも水を飲ませなきゃ。暑い。寒い。行かなきゃ。
クウガは、熱で朦朧としながら身体を起こし、橇の縄に手を伸ばす。
フウガは吠えた。
やめろ!
服を咥え引っ張ると、クウガは簡単に倒れこみ、そのまま気を失った。フウガは、ぐったりと重いその身体を引き摺り、何とか橇に乗せ思案した。クウガには水が必要だ。あそこなら、まだ水が在るかもしれない。フウガは「楽園」を目指す為に、橇の縄を咥えた。今度は俺が、クウガを助ける番だ。フウガは、砂橇をゆっくりと牽き始めた。治りかけの脚がずきずきと痛みだしたが、フウガは決して足を止めなかった。
「楽園」に近付くにつれ、フウガは嫌な予感した。水の気配が薄い。
嫌な予感は当たっていた。「楽園」は、殆ど干上がってしまっていた。僅かに残った水は濁り、とてもではないが、弱ったクウガに飲ませる事は出来そうもない有様だった。クウガを載せた橇を木陰に運び込み、せめて頭だけでも冷やしてやろうと辺りを見回したが、水を含ませることが出来そうなのは、クウガが巻いてくれた青い布だけだった。少し躊躇った後、何とか脚から解いたそれを水に漬け、真っ赤な顔をしたクウガの額に乗せた。クウガはうっすらと目を開けた。上手く焦点が合わないのか、一瞬フウガを探す様にきょろきょろとしたので、フウガはクウガの手を舐めてやった。
「ここ、どこ……ああ、『楽園』か……フウガが連れて来てくれたのか。ありがとう……脚、平気か? でも、ごめんな。東に連れてってやれそうもない。だから、フウガはもう行って……俺は、大丈夫だから……」
大丈夫、大丈夫と繰り返すクウガに今必要なもの。「ニンゲン」なら、きっとクウガを助けてくれる。「街」に行かなければ。
走り出そうとしたフウガの尾を、思いがけない強さでクウガが掴んだ。
「駄目だ。東は、そっちじゃない。フウガは東に行くんだ。街は今、皆殺気立ってる。フウガが行ったら、ひどい目に合うかもしれない。だから、駄目だ……」
そしてまた、意識を失った。ぐっしょり濡れていた筈の布は、クウガの額の上ですっかり乾いてしまっていた。フウガは、再び濡らした布をクウガの額に乗せると、走り出した。
頼む、誰か、クウガを助けてくれ! 俺はどうなってもいい! だから、俺の大事な友を誰か助けてくれ! 必死で走るフウガの脚はひどく痛んだが、そんなことはどうでもよかった。群れに戻ることなど、考え付きもしなかった。ひたすら「街」を目指す。辿り着いた「街」は、砂漠からの砂や獣の侵入を防ぐ大門が閉ざされ、門の向こうからは何やら慌ただしい気配が感じられた。フウガは吠えた。門をがりがりと引っ掻きながら吠え続けた。
暫くそうしていたが、ニンゲンは姿を現さなかった。それどころか、フウガが吠えるほど、ニンゲンの気配は減って行くようだった。フウガは門の傍のルビアから実をとると、急いで引き返した。ルビアの棘に刺された場所からは血が滲み、脚を引き摺り走るフウガは満身創痍だったが、そんなことはどうでもよかった。
「楽園」に戻ると、橇の上に居た筈のクウガは、何故か砂の上に倒れていた。手には、あの青い布をしっかりと握っている。フウガには解った。クウガは、自分を追いかけようとしたのだ。ルビアの実を、乾ききってひび割れたクウガの口元に押し当てた。
「美味しい。ありがとう、フウガ……」
クウガの声は細く、息は荒かった。フウガは、急いで木陰までクウガを引っ張り、心配そうに鼻を押しつけた。クウガはゆっくりと手を伸ばし、フウガの鼻面を撫でた。そして、弱々しい手と裏腹なしっかりとした声で言った。
「お願いがあるんだ。俺は、俺の為に生きた。だから、フウガは、フウガの為に生きて。フウガは、どうか自由に。一緒に居てくれて、ありがとう」
フウガは吠えた。吠えて、吠えて、吠え続けた。
クウガは、心から祈った。
(神様、お願いです。俺の大事な親友を、望む場所に連れて行ってあげてください。俺の為に傷付かないように、俺を忘れて自由に生きられるようにしてやって下さい)
クウガの呼吸が段々と小さくなる。
神を知らないフウガは、助けを呼び続けた。
(ニンゲン! ここに来てくれ! ああ、俺がニンゲンだったら……! ニンゲン! クウガを見付けてくれ! ニンゲン! ニンゲン!)
クウガの呼吸が止まってからも、フウガはクウガの傍を離れず叫び続けた。
永い年月、ずっと、ずっと……
「ああ、そうだったのね……」
神の力を取り戻したマイアの目の前に、黒い大きな犬と、フウガによく似た面差しの少年が重なりあい、荒れ果てた「楽園」を透かして立っていた。
クウガの魂は、叫び続けるフウガを抱きしめた。フウガに気付いてもらえなくても、フウガが叫びながら力尽きた後も、抱きしめ続けた。何時しか互いの魂の一部が混ざり、永い月日はそれぞれの目的を見失わせ、願いだけを抱えて砂漠を彷徨うこととなった。
そこに、願いを叶える存在がやってきた。強い想いは、マイアの力を誘発した。クウガの祈りは、彷徨うフウガから記憶を奪い、フウガの望む場所へとマイアを導いた。フウガの願いは、己とマイアを受肉させ、クウガを見つけ出した。
「幽霊騒ぎの正体、俺達だったのか。知らない間に、随分と時間がたってたんだな。『街』もボロボロになる訳だ。でも、これ、結構便利だな。クウガともマイアとも普通に喋れる」
犬の姿に戻ったフウガが呑気に言った。
〈フウガ、失礼だぞ。神様、フウガに悪気はないんです。怒らないでやって下さい。それに、沢山ご迷惑を掛けてしまって、ごめんなさい〉
フウガによく似た顔で申し訳なさそうに謝られ、マイアは何となく居心地が悪くなった。
「そんなに畏まらないで頂戴。今まで通りで構わないわ。それに、今回の件は、私にとって良い経験になりました。迷惑だとは思っていません。結局、貴方達の命を救う事は出来なかった訳ですし……」
〈そんな事ありません。俺が死んだのは、自分のせいだって納得してます。命を救えなかったって神様は言ったけど、俺達の魂は救ってくれました〉
「俺も、そもそももっと早くに死んでた筈なんだし、そこは気にしてないぞ。でもさ、幽霊のせいで『街』が廃れたって噂だったんだろ? なんでだ? 水不足が原因なんだろ?」
〈一時的に荷物を取りに戻った人達でもいたんだろ。そういう人達が、俺の姿を見かけたり、フウガの声を聞いたりしたら、きっと、水不足の原因は幽霊だったんだーって思うんじゃないかな〉
マイアは感心した。
「クウガは賢いのですね。恐らく、そんなところでしょう。水が枯れたのは、貴方達のせいではありません」
水の神であるマイアにとって、水が枯れた原因を探るのは難しいことではなかった。
「遥か南から北へと流れる大きな地下水流があるのですが、幾つかある支流の一つが崩れ埋まっています。丁度、西から『楽園』と『街』を結ぶ支流です。本来流れていた分の水は、当然他の支流に流れています。今まで他の地で水害を引き起こさなかったのは幸いでした。貴方達の事も含め、どうするべきか神界に連絡を取ります」
マイアが口から息を吐くと、吐息は小さな雲となり、凄い速度であっという間に空へと消えていった。
「これで、報告も済みました。そう待つことなく、今後の指示が来る筈です。ところで、貴方達、重なっているままだと不便じゃありませんか? 見辛いですし、離れられませんか?」
マイアも手伝い試してみたが、結局、フウガの左半身とクウガの右半身は重なったまま、それ以上離れることは無かった。
「ここを、こう、して……こう……」
「痛い痛い痛い」
〈神様、痛いです。幽霊でも、痛いです!〉
力技では無理そうだと悟り、どうしようか皆で思案していると、のんびりとした声が話しかけて来た。
「俺も手伝おうか? でも、失敗して三つに裂けちゃったらごめんね?」
「それ、ごめんねどころじゃ……ん? 誰だ?」
いつの間にか、マイアの頭上に拳ほどの大きさの光が浮かんでいた。
「チョウキ様!」
「マイアちゃん、久しぶり……なんか、服の趣味、変わった? えーと、あー、うん、素敵……だよ?」
「あ、言っちゃった」
フウガとクウガは、同時に呟いた。マイアの服は、神に戻った後も、何故か街で着替えた時のままだった。
マイアは慌てて言い訳した。
「好きで着ている訳ではないのです。受肉していた時、着替える必要があったのですが、力を取り戻してからも、何故かこの服のままなのです」
マイアの説明を聞くと、チョウキは納得した様に言った。
「つまり、この子達からの奉納を受け取ったってことだね。じゃあ、それに見合った望みを叶えるまで、他の服に着替えるのは難しいと思うよ」
「そんな! ちょっと、フウガ、クウガ、貴方達を見付ける以外の望み、何かあるのですか?」
「急に言われてもなぁ」
〈少し時間を下さい。頑張って思い出します〉
フウガとクウガがひそひそと相談を始めたのを機に、チョウキはマイアに神界の意向を伝えた。
「依頼は、『廃れた街を、人が住めるようにする』ってことでしょ? マイアちゃんの調査のお蔭で幽霊騒ぎの原因ははっきりしたし、後は水を確保出来れば、解決したも同然だよね。奇跡を起こす許可は取って来たから、このままマイアちゃんにお願いしようと思うんだけど、街に水脈を通すことは出来そう?」
「出来ます。是非、任せて下さいませ。でも、街に水を引くだけで、そんなに簡単に人は戻って来るでしょうか?」
〈あの、ここ、『楽園』も復活させたらいいと思います〉
マイアとチョウキの話を聞いていたらしいクウガが、恐る恐る話しかけて来た。
「俺の居た『街』は、元々、交易に行く隊商を見込んで出来た、何の産業もない所でした。だから、他に楽に通れる道があれば、遅かれ早かれ廃れてたんだと思うんです。実際、北の街への新しい海路が拓けてから、隊商はかなり減ってました」
興味を惹かれたのか、チョウキは続きを促した。
「その話と『楽園』の復活は、どう関係するの?」
〈産業が無いから廃れるなら、産業を作ったらいいと思うんです。例えば、商人ではなく、旅行者を呼び寄せる様な〉
「成程、観光名所として『楽園』を利用するってことだね。でも、そんなに上手くいくかな。ここって、そんなに美しかったの?」
〈砂の海に突然現れる緑豊かな水場は、見慣れていた俺でも綺麗だなって思ってました。珍しい植物や生き物なんかも居ます。それに、これからは『幽霊に魅入られた程の伝説の地』って売り文句が使えます〉
チョウキはちかちかと瞬いた。
「あはははは。自分達の事を、宣伝に使うっていうのかい? 面白いこと考えるねぇ……マイアちゃん、他の土地に影響しない様に、且つ、『楽園』も復活させることは出来る?」
「勿論です。寧ろ、元々存在していた『楽園』を復活させた方が、水の流れを制御し易くなると思います」
マイアの答えは、チョウキに決断をさせた。
「じゃ、改めて指令を下すよー。この指令は、俺個神ではなく、神界の総意と考えてくれて構わない。
『汝、マイアの名において、古の街と砂の海に恵みと安寧をもたらせ』」
「拝命いたします」
一礼して答えたマイアは、砂に両手をついた。陽が殆ど角度を変えない程度の僅かな時間の後、マイアは立ち上がると宣言した。
「終わりました」
「確かに、遠くに水の匂いを感じる。でも、一瞬で水が湧いたり、木が茂ったりするわけじゃないんだな」
フウガが鼻をひくつかせて言った。
「そうすることも出来ますが、他の土地への影響も考えると、焦るのは得策ではないの。それでも、自然に任せるよりも早く結果が出るように調整しました。水が地表近くまで上がってくれば、地中に残っている種や根が息を吹き返します。彼らが芽吹くのに必要な力に、育ちが良くなるよう、少しだけ手を加えました。そう遠くない将来、『街』も『楽園』も以前の環境を取り戻せるでしょう」
フウガとクウガを安心させるように、マイアは丁寧に説明した。空中を漂いながら一緒に聞いていたチョウキが、「あ、忘れるところだった」と呟きながらマイアの頭上に止まると、マイアの体が一瞬強い光に包まれた。
「お疲れ様、マイアちゃん。今回の件だけどね、力の暴走も多少あったとは言え、結果的にマイアちゃんだけで殆ど解決出来たでしょ? 神界で協議した結果、暴走については不問てことで、晴れて見習い卒業になったよ。それを伝える為に、俺が来たんだ。今から一人前、否、一神前だ。神界に戻ったら、一級免許発行するから、忘れず手続きに行ってね。
それと、わんこ君と少年の今後だけど、このまま幽霊としてこの世に留まられると、色々不味いんだよね。魂だけになった者は、『死者の国』に逝かないといけないんだ。あ、全然怖い所じゃないから、そこは安心して。なんなら、生者の国より過ごし易いくらいだから。向こうに着いたら、まず、魂専門の神に視て貰おう。君達を剥がす算段をつけないとね。俺も色々な事象を見て来たけど、こんなに魂が癒着してるのは初めて見たよ。君達、よっぽど相性がいいんだねぇ。じゃ、逝こうか」
相変わらず矢継ぎ早に話すチョウキに、マイアが慌てて口を挿んだ。
「お待ちください! あの、私の着替えが済んでいないのですが……」
「そうだった。君達、叶っていない望みが何なのか、思い出せた?」
フウガは頷いた。
「俺達、氷に触ってみたい。力が戻ったら見せてくれるって、マイアと約束したんだ」
「そうでした。確かに、約束したわね。チョウキ様、彼等を一時的に受肉させてもよろしいでしょうか?」
光は何度か瞬き、答えた。
「約束したならしょうがないね。君達、満足したら大人しく『死者の国』に逝くんだよ?」
「勿論だ」
〈はい、約束します〉
元気に答えたフウガとクウガの頭上にマイアが手を翳すと、彼等はあっという間に溶け合い、見慣れた浅黒い肌の青年が現れた。
「うわ、いつの間にか、こんなに暑くなってたのか。あれ、マイアもチョウキ様も透けて見えるけど、カミサマってそういうもんなのか?」
「本来なら、そもそも貴方達に見えないのよ。今は特別。それに、クウガにも感覚が伝わってるでしょ? 話すことも出来る筈よ」
〈本当だ! 凄い! 神様、ありがとうございます!〉
クウガの興奮した声が、フウガの胸の辺りから聞こえた。マイアはニコニコとして言った。
「いいのよ。フウガだけで楽しんでも、つまらないでしょう? さ、手を出して」
青年が前に出した両手に、マイアがそっと手を重ねた。その手が離れると、フウガの掌には煌めきを放つ美しい塊が乗っていた。
「これが『氷』なのか?」
〈綺麗だな、フウガ。本当に宝石みたいだ。それに、手が痺れそうだ。水がこんな風になるなんて、信じられない! あれ? ちょっと小さくなってる?〉
「氷は温まると水に戻るのよ」
マイアが教えると、フウガは氷を舐めてみた。
「本当だ、水だ」
陽に透かしたり、擦ってみたりと、フウガとクウガは大はしゃぎだった。
やがて、掌から氷が無くなり、最後の水滴が指先から零れ落ちると、青年の姿がゆっくりと透け始めた。
「マイア、服、元に戻ったんだな」
いつの間にか、マイアの服は元の真っ白なものに変化していた。それは、彼等の願いが全て叶えられたという合図でもあった。
マイアは、徐々に肉体を失っていく青年の手を取った。
「貴方達と過ごした時間は、私を少し変えてくれました。もう以前ほど、人間を疎ましく思う事はないでしょう。フウガ、クウガ、貴方達の事、決して忘れません」
消えかけた青年は、黒犬と少年の重なった姿に変化しながらマイアを抱きしめた。
「俺達を見付けてくれてありがとう、マイア。俺、カミサマってよく解らないけど、マイアは尊敬する。この恩は、例え『死者の国』に行っても絶対に忘れない」
そう言うと、青年は少し屈み、マイアの唇に己の唇でそっと触れた。
「あ」
〈あ〉
クウガとチョウキは、同時に呟いた。クウガは慌てて言った。
〈フウガ! そういうのは、相手の許可をとらないでしたら駄目なんだぞ! 神様ごめんなさい!〉
「え? 何か不味いのか? 尊敬する相手にする挨拶なんだけど……クウガにもしたことあるだろ? あれ、なんか、身体が……」
消えかけていた筈の青年の体は、先程よりも輪郭を鮮明にし、淡い光を放っていた。
フウガがちらりとマイアを見ると、その顔は……真っ青になっていた。
「やっちゃったねぇ」
チョウキの言葉に、マイアは言葉も無く立ち尽くしている。おろおろとする青年は、助けを求める様に漂う光に尋ねた。
「何がどうなってるんだ? それに、犬に戻ってないぞ? クウガとも、さっきよりくっついてる気がする」
〈本当だ。あれ? 神様、俺達、全然離れられないです〉
「あのね、君達は『神の祝福』を受けたんだよ」
「カミノシュクフク?」
〈どういうことですか?〉
「つまりね、わんこ君と少年は、一組で神様候補としてマイアちゃんと契約したってこと。一定以上の神格の神はね、他のものに、神になる許可を与える事が出来るんだ。主に、口付けすることでね。さっき、俺がマイアちゃんにやって見せたでしょ? でも、契約を交わす為には、俺みたいに特殊免許を持ってないと駄目なんだ」
「口、あるんだ!」
〈フウガ、驚くところはそこじゃない。あの、俺達、これからどうなるんですか……?〉
暫く唸ると、チョウキは答えた。
「このまま『死者の国』に逝くなら、マイアちゃんとの契約を解除することになる。契約反故は、場合に因っちゃ投獄されることもあるんだけど、今回は、わんこ君なりに最大の礼を尽くしだけだし、反故いうより解除という扱いで処理されるだろうね。三年位ねちねちと怒られ続けて、礼儀を叩きこまれる位だと思うよ。問題は、マイアちゃんだよね。無免許で、神格を与えちゃったからねぇ」
「でも、マイアは何もしてないぞ!」
〈そうですよ!〉
チョウキは重々しく告げた。
「力の行使は、それだけ責任が伴うんだよ。免許は、特定の相手を贔屓しない為の心構えがある証でもあるのさ。マイアちゃんは、君達に心を許し過ぎた。上には、油断してたと判断されるだろう。そうなれば、一級免許剥奪と、罰則が科される。良くて見習いからのやり直し、悪くて百年程度の禁固だろう……」
マイアは、青い顔で頷いた。
「神界に戻り、速やかに裁きを受けます。貴方達を最後まで送ってあげられず、申し訳ありません。後のことは、チョウキ様にお任せいたします。お手数をお掛けしますが、彼等を宜しくお願い致します」
「何とかならないのか!」
〈それなら、俺達を罰して下さい!〉
「まあまあ、マイアちゃんも君達も落ち着いて」
先程までの重苦しい空気から一転、チョウキは能天気な声で言った。
「もう一つ道が無くはない。マイアちゃんが、特殊免許の申請をするんだ。免許取得には座学と実技が必要なんだけど、実技を先に済ませたことにするんだ。後は多少の説教と数年の座学を受けるだけで、今回の件が優秀な神候補が増えただけの話となる。当然、マイアちゃんの一級免許もそのままだ」
〈つまり、俺達が神様候補として働けばいいんですね?〉
「話が早くて助かるよ。ただ、そうなると、君達の魂の癒着を剥がすのは難しくなると思う。その状態で安定してるから、迂闊に剥がすと、お互い消滅しちゃうかもしれない」
「え? 全然このままでいいぞ」
〈俺も平気です。そもそも、ずっと一緒だった訳だし〉
「よし、言質はとった……ん? 何でもない何でもない、独り言だよ。
機転の利く少年とわんこの鋭敏な感覚を併せ持つ神か。活躍が期待出来るねぇ。さ、俺は、マイアちゃんの特殊免許申請と、報告に戻らないと。また後でね」
「貴方達、私の事はいいから、もうちょっと良く考えなさい! チョウキ様も、もう少し……もう居ないし!」
〈なあ、フウガ、これからは神様を呼び捨てにしたら駄目だぞ〉
「じゃ、何て呼ぶんだ?」
〈うーん、マイア様? マイア先輩? それとも、マイアお姉ちゃん?〉
「迷うな」
〈神様、どれがいいですか?〉
「貴方達、話を聞きなさ……」
「これからよろしくな、マイア」
〈よろしくお願いします。俺、頑張ります〉
天を仰ぎ、マイアは叫んだ。
「どうしてこうなるのー!」
その声は、青い空に虚しく消えて行った。