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砂は水の夢を見る  作者: 遠部右喬
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はじまりはじまり

 どこまでも、見渡す限り砂の牢獄だった。

 ただ風がごうごうと、空高く薄黄色の砂を巻き上げる。

 だがそれは空の青に届く前に、再び重さを得て薄黄色の大地に還ってくる。

 時折植物も見られたが、それも殆どが干からび、砂と同じ色をしている。

 強い日差しが、膝を抱えた子供ほどの岩陰にくっきりと黒い影を落とす。影は、小さな命の営みを内包していたが、それも密やかなものだった。

 また、風がごうごうと唸る。その雄たけびに、割り込む声があった。

「もう、いやー!」

 突如混じったそれは、若い女の声だった。

 何時から彷徨っていたのか、砂に足を取られながらよろよろと歩を進める姿は、すっかり砂の色と同化していた。だが、どんなに砂埃にまみれていても、決して彼女の美しさは損なわれてはいなかった。

 ぼさぼさになってしまった金色の長い髪も、小さな顔の中で輝く深い緑の瞳も、元は真っ白だったのであろう服から時折覗く華奢な手足も、まるで砂で造られた美術品のようだった。

 そして、彼女はその美しい脚を止めると、空に向かって再び叫んだ。

「どうなってるのー!」

 そして、そのままゆっくりと倒れ込んだ。


 彼女の足下に広がる景色は、想像よりも遥かに雄大だった。

 初めて目にする砂の海は、暫く己の使命を忘れさせるほどに、彼女を圧倒した。

 その砂漠は、東西をごつごつとした岩肌の標高の低い山脈に囲まれていたが、上空から見れば、山頂を越えた先は草原になっているのが見て取れた。東は豊かな草原、西は荒い砂混じりの草原、どちらも違う植生は、生命の多様性を示し、多くの命を感じさせた。そして、山脈の途切れる南側――彼女の背後は、足元の砂と同じ色から、遠のくにつれ、徐々に緑を含むものへと変化していた。眼前に広がる景色だけが、大地を塗り忘れたように、どこまでも単色の異世界をのぞかせる。

 まるで空間に縫い付けられたように佇んでいた彼女は、やがて高度を下げ、北に向かって動き出した。

 遮るものの無い空を、ゆっくり、ゆっくりと、滑らかに飛んでゆく。

 誰も見る者の居ない空を、ゆっくりと……

 そして……

 口元に触れる何かが、暗転していた彼女の意識を光に向かわせた。薄く開いた目に映ったそれは、動物の皮を袋状にして作られた大きめの水筒だったのだが、覚醒したばかりの頭は、それがいったい何なのかを考える余裕は無かった。ただ、目の前のそれから水の匂いを感じた途端、ひったくるように手を伸ばし、ごくごくと喉を鳴らしながら中身を飲み始めた。誰かの声が聞こえたが、それに注意を払うことが出来ない程、彼女は夢中で飲んだ。

 もっと中身を飲もうと袋を傾けたが、背後から革袋を差し出していた手がそっとそれを阻んだ。

「お嬢さん、そんなに急に水を飲んだら危ないぞ」

 漸く彼女は、自分が誰かに寄りかかっていたことに気が付いた。

「ぎゃー!」

 革袋から手を離し、振り向きざまに飛びのくと、自分を抱きかかえるようにしていた男のびっくりした顔が目に入った。

「ぎゃーって……酷いな。俺は、お嬢さんをここまで運んで介抱しただけだぞ」

 言葉とは裏腹に、男は腹を立てた様子もなくにこやかに微笑んだ。

 年の頃は二十代半ば程であろうか。身に着けた砂漠の民特有のゆったりとした服は、左手首に大事そうに巻かれている、かつては色鮮やかだったであろう空色の布以外、頭に巻いた布から小物に至るまで全て黒で統一されていた。その姿は、浅黒い肌に精悍な顔立ちと金色の瞳とが相まって、どことなく黒い犬を連想させた。

「介抱?」

「探し物をしてたら、急にどこかから声が聞こえたんだ。なんだろうと思って辺りを探したら、砂に埋もれかけたお嬢さんを見つけたってわけ。運がいいな、お嬢さん。俺、耳が良いんだ」

 彼女はまだぼんやりとした頭で、辺りを見回した。

 砂の粒子が大気に舞い、歌うようにサラサラと音をたてている。 

 時折、強まった風が大量の砂を巻き上げていたが、男の背後の大きな岩と、四本の支柱に張られた厚手の布が、強烈な日差しと砂埃から自分達を保護してくれていた。

「お嬢さん、何だって一人でこんな場所に倒れていたんだ? まさか、この『生ける砂漠』を、そんな軽装備で一人旅ってこともないだろう?」

 彼女は怪訝な顔をした。

「『生ける砂漠』?『死せる砂漠』ではなく?」

「うん、砂漠の北の方に『楽園』て呼ばれてる、広い水場があるんだ。だからなのか、そう呼ばれてるよ」

「……水場? 本当ですか?」

「うん。何? 気になる事でもあるの?」

 だが、男の言葉が耳に入らない程、彼女は動揺していた。

「目的地を、間違えました……」

「え? なんて?」

「私の行くべき場所は、ここではないようです。どうやら、貴方には大変お世話になったようですが、お礼は改めてという事でよろしいですね? では、失礼いたします」

 顔を青ざめさせ、慌てた様子で立ち上がり、それでも身体中に付いた砂を払い優雅に一礼しそう言うと、彼女は膝を軽く撓め、爪先に力を入れた。その仕草は、今にも空に飛び立とうとする鳥のようだった。

 だが、彼女の足が地面から離れる事は無かった。

「…………?」

「…………?」

 首を傾げる彼女を見て、男も首を傾げた。

 彼女は何度か同じ仕草を繰り返したが、やがて男を振り返り言った。

「……どうして飛べないのでしょう?」

「え? なんて?」

「どうして、私は飛べないのでしょうか?」

 男の顔に、何とも言えない表情が浮かんだ。

「俺も聞きたい。何時から人間は飛べるようになったの?」

 男の言葉に、彼女は顔を顰めた。

「誰が人間ですって? 無礼ですね。ですが、助けていただいた身、一度は見逃しましょう」

「何と言われようと、お嬢さんは人間にしか見えないよ」

 男にそう言われた彼女は、ますます不機嫌な顔になった。

「見逃すのは、一度だけと言った筈です。その言葉、後悔なさい」

 そう言いながら、男に向かって腕を伸ばした。

 その腕に怯み、男は目を固く瞑り身を縮めたが、しばらく待っても何も起きない。

「…………?」

「…………?」

 二人の間を沈黙が流れた。

「……どうして術が使えないのでしょう?」

 彼女はそう呟き、突然何かに驚いたように男を見つめた。

「貴方、何故私の姿が見えているの?」

「ええ、今更? て、言うか……見えちゃまずいの?」

 男が彼女の額に手を当てた。

「熱でやられてるわけじゃなさそうだね」

 彼女は、額に当てられた手を振り払い、語気を荒げた。

「気安く触らないでちょうだい!」

「何だかよくわからないけど、落ち着いて。最初から触ってただろ? ああ、見知らぬ相手に触られたのが嫌だったなら、謝るよ」

 男の言葉を彼女は聞いていなかった。

「何故、人の身である貴方が、私に触れる事が出来るの?」

「え? なんて?……ああもう、三回目だ。触ったのは、あんたが心配だっただけだよ」

 まるで噛み合わない会話を続けていたが、彼女は突然、ひらめいたように男に言った。

「もしかして、同業者の方? だとしたら、私の方が無礼でした。申し訳ありません……でも、おかしいわ。何故術も使えず、飛ぶことも出来ないのかしら。それに、体中がヒリヒリします。一体どうした事でしょう」

「肌がヒリヒリするのは、日焼けのせいだよ。空からだけじゃなく、砂からの反射光もあるんだ、そんな薄着してたら、あっという間に黒焦げだよ。それに、同業者? お嬢さん、砂漠の過ごし方を全然知らないみたいだけど、どうやってここまで来たんだ?」

「どうやってって、勿論、空から……」

 ここに至った経緯をようやっと思い出したらしい彼女の瞳から、突然大粒の涙が零れだした。

「ええ? どうしたの? 俺、何か変な事言った?」

 慌てる男の耳に、彼女のとぎれとぎれの声が聞こえた。

「……なんで、こんな、ことに……」

「何だかよく判らないけど、ほら、泣き止んで。砂漠では、水分は貴重なんだ。そんなに泣くと干からびちゃうぞ」

 男は、彼女を宥めようと震える肩に手を伸ばしかけたが、途中で手を下し、黙って彼女が泣き止むのを待った。

 やがて嗚咽は小さくなり、彼女が落ち着きを取り戻すと、男は革袋を彼女に差し出した。

「喉乾いただろ? 少し飲みなよ。でも、あんまり沢山飲んだら駄目だぞ。腹に悪いし、ここじゃ見ての通り水は貴重なんだ」

 彼女は男の差し出した革袋を受け取り、一口だけ飲んで男に返した。

「取り乱しました。そういえば、きちんとお礼も言っておりませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」

「困った時は、お互い様という事で。で、お嬢さんは何でこんな所で行き倒れていたんだ?」

 彼女は、まだ涙の後の残る頬をこすり、身支度を軽く整えて言った。

「申し遅れました。私、マイアと申します。『死せる砂漠』を目指す予定でした」

「俺の名前はフウガ。さっきもそんな事言ってたけど、それが、お嬢さん……マイアの仕事先なのか? 何をするんだ?」

「『死せる砂漠』には、幽霊が出没するらしいのです。何でも、あやしい人影が彷徨っているとか、夜な夜な恐ろしい叫び声が聞こえて来るとか。そのせいで、廃墟と化した街もあるというのです。その近くの街を治めている神官から、廃墟を何とかして欲しいという嘆願が職場に届きました。人が増えて来たので、もしその廃墟を復興出来そうなら、そちらに住人を分けたいとのことでした。私は、その調査の為『死せる砂漠』に向かう途中だったのです」

「ふうん。じゃあ、やっぱり場所が違うんじゃないかな。確かに北に行くと街はあるけど、廃墟なんかじゃないよ。それに、砂漠に幽霊が出るなんて聞いたことない。

 それにしても、こんな処に一人で来るなんて、不用心にも程があるんじゃないか? 偉い人にでもいじめられてるの?」

「貴方だって、砂漠に一人じゃないですか。それに、いじめられてなんていません。ここまでは、空を飛んで来たのです。でも、途中で急に身体が重くなって落下してしまって……理由は全く分りませんが、どうやら人間になってしまったようです。ですが、本来の神の身であれば、街の復興だって決して不可能ではなく……」

「え? なんて?」

 四度目の科白が、フウガの口から洩れた。

「私は、神の一員だと言ったのです……為りたての、下っ端ですが」

「…………」

 フウガの目が左右に動き、曖昧な笑みを浮かべた。

 その口からは、五度目の科白が出る事は無かった。


 マイアは、元は水の精霊の一人だった。

 この砂漠から遠く離れた大陸の、大きな森の人の通わぬほど奥深くにある湖が、彼女の住処だった。

 精霊達の中には、生き物を惑わす事を楽しむ連中も多かったが、彼女は違った。湖の水を求めてやって来る様々な生き物達を、心から愛していた。

 彼らの為に、常に冷たく澄んだ水を湛えておいた。湖の周囲には、いつも美しい花が咲き、季節になれば、木々はたわわに実った果実を提供した。鳥の囀りは、天上の音もかくやとばかりに流れ、彼女の力の及ぶ処では、どんな生き物も不必要に争うことなく、皆穏やかに過ごしていた。マイアは、己の住処にとても満足していた。

 ある日のことだった。うとうとと微睡んでいたマイアは、森の生き物達の悲鳴で目を覚ました。

 森の入り口付近から、煙が立ち上っているのが見えた。

 森の外は、その季節には珍しく強い風が吹き荒れていた。ここしばらく雨が無かったこともあり、何かの弾みで火事が起きたのだろう。強風は炎を煽り、炎は風を更に猛らせた。

 このまま放っておけば、彼女の楽園は、無残な屍と化してしまう。愛する森が助けを求める声を無視することは、彼女には出来なかった。

 迷うことなく己の力と湖の水を限界まで使い、火を鎮めた。

 だが、余りにも力を使い過ぎてしまったマイアは、湖の水と共に消えようとしていた。焼けてしまった森の一部も、枯れた湖も、いずれは再生するだろう。生き残った命は再び命を繋ぎ、そしていつか新たな精霊が生まれ、きっとまた、ここを守ってくれる。

 マイアは、干上がった湖のほとりに体を横たえると、充足感と一抹の寂しさを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

 その時、消えゆく彼女の耳に不思議な声が響いてきた。

「このまま滅するには惜しき魂。汝の所業、我等が同胞に相応しきもの也。選択せよ。我等が一員と為るや否や?」

「…………?」

 重い瞼を何とかこじ開けると、瞳に飛び込んで来たのは森の景色ではなく、柔らかな光に包まれた真っ白な世界だった。頭上には拳ほどの大きさの輝く光の珠が揺らめき漂い、消耗しきっていた筈の身体はいつの間にか軽くなっていた。

 横たえていた上体を起こすと、再び声が語り掛けて来た。

「噛み砕いて言うと、我々の仲間にならないかってこと。君は優しく、そして行動力がある。このまま消えてしまうには惜しい存在だ」

 どうやら、その光の珠が彼女に話しかけていたらしい。

「どうだい? 我々の一員となり、今よりも上を目指してみないか? 暫くは試験と研修が立て続けにあって大変かもしれないけど、努力に見合った報奨を約束するよ。うちは実力重視だし、能力次第で基本給に特別手当もつく。勿論、休暇もちゃんとある。悪くない待遇だと思うよ。何なら、この森と湖を、すぐに元通りに出来る位の力を得る事も可能だ」

 光の珠は、息をつく間もなく話し続けた。

 何を言われているのかマイアにはさっぱり解らなかったが、最後の言葉は彼女を頷かせるに充分だった。

「なります」

「よし、言質は取った……ん? 何でもない何でもない。えーと、そうそう、じゃ、手続きしないとね。さ、もう立てるだろう? 君、名前は?」

 立ち上がり名乗ったマイアを、輝きを増した珠の光が包み込んだ。

「我が名チョウキの業において、汝、マイアを一柱の神として迎え入れん。以後、汝は我等が同胞となりて、遍く世界を慈しみ、その御業にて衆生を救わん」

 珠が彼女の額に触れると、そこから柔らかな熱が全身に流れ込んでくるのが感じられた。

「はい、手続き完了。略式だけど、これで今からマイアちゃんも神の一員だ。正式な手続きは、もう少し落ち着いてからの方がいいかな? じゃ、詳しい事はおいおい話すとして、まず……」

「ちょ、ちょっと待って下さいまし。あの、私、全く事情が呑み込めないんですけど……一体、何がおきたのでしょう? そもそも、貴方様はどういったお方なのでしょうか?」

 マイアは慌てて口を挿んだ。

「あれ? 今、名乗ったよね。俺はチョウキ。神の一員だ。神候補を探すのが生業で、あちこちを調査している。最初に言わなかったっけ?」

「仰ってませんでしたけど」

「そうだっけ? まあでも、あのままだったら君は消滅していたんだ。なら、新しい人生……いや、神生を歩むのも悪くないんじゃない?」

 ゆらゆらと漂いながら笑うチョウキに、マイアは尋ねた。

「神って、何ですか?」

「あー、そこからか。神とは、本来は世界を生み出した大神様の一族を指す。今では、世の営みを見守り、秩序をもたらす全ての存在の肩書き……ってところかな。主な仕事は、特別な能力で様々な問題を解決すること。お蔭で、常に神材不足に悩まされてる」

「そんな大それたお役、私に務まるでしょうか」

「マイアちゃんみたいに、誰かの想いに強く反応するのは素質がある証拠さ。ま、どう反応するかは、それぞれの神次第なんだけどね。

 それに契約は既に成立している。反故にすると、俺にも君にもそれなりの不利益が生じる可能性がある。あまりお勧め出来ないね。それより、折角神になったんだ。ご祝儀代わりに、今、奇跡を起こしてみる?」

「奇跡?」

「言ったでしょ? 特別な能力を使って問題を解決するって。神になった君は、精霊だった時とは桁違いの力を揮える。人間から、奇跡とか神の御業と呼ばれる力だ。特に今は俺の力も加わってるから、多少の無茶もきく筈だ。能力によっては向き不向きもあるし、余りにも強い力なんで、本当なら揮う為には面倒な手続きや制限があるんだ。ただ、君はまだ仮契約しただけで本登録はしていないし、幸いここには、その奇跡を見る者は居ない。見る者が居なければ、どんな奇跡も無かったも同然さ。

 ただし! 今その力を揮うなら、神として生きていくことを了承したとみなす。さあ、どうする?」

 いつの間にか真っ白な景色は、まだ煙の漂う森の中に戻っていた。

 マイアは、美しかった森を心に描いた。

 奇跡は、あっけないほど簡単に起きた。

 枯れ果てた湖は澄んだ水を湛え、漂っていた焦げた臭いは、芳しい花の香りに洗い流されていた。息も絶え絶えだった森の生きもの達は、何事もなかったように生を謳歌している。

「お見事。やっぱり素質あるって。これで後顧の憂いも無くなったよね。え? まだ心配? じゃ、新しい精霊が生まれるまでは、現役引退した神に交代でここを護ってもらうよ。うちは福利厚生もしっかりしてるし、現役引退後も希望すれば非常勤で登録が可能なんだ。決して、永遠にこき使おうとかいう訳じゃないからね?

 さて、これからは新神としてバリバリ働いて貰うよ。その前に、まずは新神登録だ。その後は座学と研修が数年から数十年。幾つかの試験に合格すると研修先が決まる。ああ、研修には、経験豊富な指導神が付き添うから安心して。あ、それと、奇跡を起こした件は、神界では一応内緒ね。最近、規則が煩くてさー。

 で、何か質問は?」

 あれよという間に話は進んでいき、マイアは質問どころか、口を挿むことすらままならなかった。理解出来たのは、恐らく自分はこれから先、気ままな精霊として暮らす日はもう来ないということだけだった。


 焚火が、マイアとフウガの影をゆらゆらと岩肌に映し出す。本格的な夜を迎える前に、彼らはあの岩陰を移動していた。

 数多の星が彩る天空を隠す様に、時折、砂を含んだ風が紗をかけた。だが、彼らにその風が害を及ぼすことは無かった。岩に囲まれ洞窟のようになったその場所は、砂漠で夜を過ごすもの達にとって、数少ない一息つける宿となっていた。

 途方に暮れていたマイアに、街を目指してみたらどうかと、フウガは道案内を申し出た。

「さっきも言ったけど、俺は探してるものがあるんだ。街の方にはまだ行ってないからいい機会だ。それに、街に行けば『死せる砂漠』の情報も手に入るかもしれないし、きっと、医者だっている。その……空を飛べなくなった理由? も解るかもしれないだろ」

 そう言われ、マイアは好意に甘える事にした……本当は、人間の世話になどなりたくなかったのだが。

 ここから北に行った砂漠の辺縁部には街が、それよりもやや東寄りにずっと行くと、フウガの本来の目的地である『楽園』がある。現在地から街まではそう離れてはいないのだが、それでも今から目指すと、途中で夜を迎える事になってしまう。日の高い内の移動は、出来れば避けたい。どちらにしても、やり過ごせる場所が必要だ。遠回りにはなるが、北西寄りにうってつけの場所があるから、まずはそこを目指そう。フウガは砂に指で簡単な地図を描きながら、そう説明した。

 日差しが弱まり始める頃を見計らい、彼らは仮の休憩所を出発することにした。

 フウガは、支柱から外した砂除けにしていた布を、頭から被るようにとマイアに手渡した。それから、手荷物から小さな布を三枚ほど取り出し、一枚は口に当て、残り二枚は、それぞれの足に巻くように言った。

「その履物じゃ、足を守れないだろ? これを足裏から巻いて、それから履くといいよ。紐で固定させる履物だから、巻けるだろ? 緩すぎると歩きづらいから、しっかり巻くんだぞ」

 そう言いながら、砂から引き抜いた支柱をてきぱきと背負い袋に括り付けた。そして、頭に巻いた布の余りの部分を使って器用に口元を覆い、腰に巻いた布に水筒と小さな湾曲刀を挟むと、最後に左手首の布をしっかり結びなおし身支度を終えた。

「意外と荷物は少ないのですね」 

「身を護るものの重さで身動き取れないなんて事になったら、馬鹿らしいだろ? それに、俺には優秀な鼻と耳がある。それで充分だよ」

 肩をすくめ、袋を背負うと「さ、行こうか」と、歩き出した。

 砂の海を、二つの長い影がゆらめきながら進む。

 空の色が赤から薄紫に変わる頃、行く手に幾つかのごつごつとした大きな影が見えて来ると同時に、不思議な形をした植物が所々に見られるようになった。

「なんだか、馴染みのない植物が生えてるんですね。木なのかしら? 草なのかしら? 水なんて無さそうなのに、健気ね」

「確かに、雨なんて殆ど降ったことが無いね。でも、外縁部のこの辺は、砂漠のど真ん中よりは水っ気があるんだ。ほら、さっきより山が近いだろ? 岩だらけの山だけど、貴重な薬草とかも生えてる。この辺も、乾燥に強い植物なら多少は生えるんだ。あ、足元に注意して。岩場が多くなってるから、怪我しやすいぞ。俺も前に足を挫いたことがある」

 いつの間にか、足の裏から伝わる感触が固く凸凹としたものに変わっていた。確かに、気をつけないと足を取られてしまいそうで、マイアは気を張りながら黙々とフウガの後に続いた。

 やがて見えて来た一際大きな影を指差し、フウガは後ろを歩くマイアを振り返った。

「ほら、もうちょっとだ。あそこで今夜は休もう」

 辿り付いたそこは、三方を巨大な岩で囲われ、その上に平たい岩が載った、まるで岩で出来た室の様になった場所だった。

「不思議な場所ですね。誰が、どうやって岩を載せたのかしら?」

「どうしてかは知らないけど、自然に出来たらしいよ。はい、もう少し奥に行って。火を熾さなきゃ。そしたら、少しはゆっくり出来る」

 フウガは岩室の奥から、以前から置いていたらしい枯れ枝の束を取り出してくると、道中歩きながら集めていた枯草を使い手早く焚火を熾した。既に暗くなっていた視界に、明かりが灯る。マイアは、緊張して強張っていた肩から力を抜いた。

 フウガは、荷物から干し肉を取り出し、半分をちぎってマイアに渡した。その途端、マイアのお腹がグウと鳴った。

「こんな物しかないけど、食べて。それと、この辺に棘のある肉厚の草が生えてるだろ? 天辺に、赤い丸いのが付いてるやつ。ルビアっていうんだけど、あの赤い実は、水を多く含んでる。喉が渇いたら、食べてみるといい。あ、葉っぱは食べたら駄目だぞ。ちょっと齧るくらいなら大丈夫だけど、食べ過ぎると毒なんだ」

「これが『お腹が空く』という感覚なのねえ。消滅するかと思ったわ。ありがとう。いただきます」

 手渡された干し肉を少しづつ齧り、マイアはここに至った経緯を語り出した。かつては精霊であったこと、ひょんなことから、神族になったことなど……。

 マイアの話を黙って聞いていたフウガは、目線で話の続きを促した。

「これが初めての一人での任務だったのです。なのに、こんな事になってしまって……」

 新神として、マイアは努力を怠らなかった。神族の末席に加わったからにはと、常に真摯に事に当たる姿勢は高く評価されていた。この調子ならすぐに独り立ち出来るだろうと、指導に当たっていた先輩神も、彼女を見出したチョウキも大いに期待していた。

 しかし、思わぬところに落とし穴はあるもので、マイアの場合、その落とし穴には「世間知らず」という名がついていた。

 殆ど人の通わない森の奥深くで生まれ育った彼女は、「人間」をよく知らなかった。少なくとも、彼女が生まれてからは一度も見かけたことは無かった。他の精霊から話を聞くこと位はあったが、その不思議な生きものに特別な興味を抱いたことは一度も無かった。

 そして、最初の研修先に選ばれたのは、大勢の人間が暮らす街だった。豊かな土壌が実りを約束する、信心深い人間の多い、研修先としては理想的といえる環境だった。

 だが、信心深いという事は、神に祈りを捧げる機会が多いという事だ。捧げられた祈りの中には、本人が意識しようとしまいと、様々な願いが含まれている。真摯なものから、「こうだったらいいなぁ」程度の、願いともまだ呼べない様なものまで、そこには数え切れない想いがのせられていた。

 神は、願いの全てを叶える存在ではない。必要な時に、あるいは人間からしてみたら気まぐれに、奇跡をおこす。それは神の本能の様なもので、だからこそ、本来なら特定の存在を贔屓することは許されない。奇跡をおこすのに手続きを必要とするのは、その為だ。

 だが、余りに強すぎる願いは、神を狂わせる。人間は、マイアが知る、どの生きものよりも貪欲だった。

 先輩神が気付いた時には、マイアは神の本能を暴走させていた。人々の願いを次々と叶え、着任してほんの数刻で、力の使い過ぎによる消滅寸前にまで追い込まれていた。

 幸い、後々大きな問題が起きるような願いは手つかずだった為、研修期間の延長と数年の減奉だけで済み、マイアの神籍が剥奪されることはなかった。だが、この出来事はマイアをすっかり人間嫌いにしてしまった。

「その後、人間と直接関わることの少ない部署から徐々に慣らしてゆき、気を張っていれば彼らに引き摺られることもなくなりました。そこで、今回の任務を頂いたのです。きっと、余り人間と関わらないで済みそうな案件だったからだと思います」

「…………」

「何故、そんな顔をするのですか?」

「いや、初めて聞いたもんだから。『カミサマ』ッテ、タイヘンデスネー」

 フウガの態度が気に入らなかったのか、顔を顰めたマイアを見て、慌ててフウガは話題を変えた。

「そういえば、叶えた願いって、どんなのだったの?」

「それは、その……わざわざ手続きを踏まなくてもよい願いというか……」

「例えば?」

「余り憶えてはいないのですが『憧れの彼女と目が合った』とか……」

「うん」

「『買い物した時、いつもよりおまけして貰えた』とか……」

「うんうん」

「『肩が張って辛かったが、なんだか今日は楽になってる』とか『昼食が会心の出来だった』とか……」

「…………」

「何ですか? 言いたいことでもあるのですか?」

「いや、別に」

「あの、件数が多いと、それなりに大変なのよ? 本当に大きな街で、沢山の人間が居たのよ? 決して私の能力に問題があるだとか、そういう訳じゃないのよ?」

「何も言ってないよ」

 更に言い訳を重ねていたマイアだったが、ふと

「そういえば、貴方、探しものがあると言ってましたよね。助けて頂いたお礼に、能力が戻ったらお手伝いしましょうか? 何を探しているのですか?」

 フウガに水を向けた。

「さあ?」

「私の事情は聞いても、自分の事は話せないのですか? 何か、やましい事でもあるの?」

「そうじゃないんだ。憶えてないんだよ」

「?」

「探しているものがあるのは本当だ……と、思う。でも、何を探しているのか思い出せないんだ。どこかで頭でも打ったのかな、やけに記憶が曖昧なんだ。でも、とても大事なものなのは間違いない。見つけさえすれば、絶対それとわかる筈だ」

 炎に照らされたフウガの横顔は、確信に満ちていた。

 マイアは難しい顔をして暫く考え込んでから言った。

「実は、私が人間になってしまったのは、貴方の強い願いに反応してしまったのではと考えていたのです。ここに至るまで、貴方以外誰も見かけなかったのですもの。でも、やはり違う理由なのかもしれませんね。だって、貴方の願いはきっと、『失った記憶を取り戻す事』か『探しものが見つかる事』でしょう? 私が人間になったところで、それが叶うとは思えないわ」

「うーん、そうなのかな?」

 フウガは首を傾げた。

「ていうか、俺の話を信じるの?」

「? どうしてそんなことを訊ねるの?」

 不思議そうな顔をするマイアに、フウガは悪戯っぽく笑った。

「心配だなぁ。悪い男に引っかからないようにね」

「まあ、失礼ね」

「褒めてるんだよ?」

 フウガの屈託の無い笑顔につられて、マイアも思わず微笑んだ。

 マイアは不思議だった。人間嫌いの筈の自分が、いつの間にか肩から力を抜いて話している。

 飄々とした独特の空気感。見ず知らずの自分に、当たり前の様に手を差し伸べる心根。なにより、子供のような満面の笑顔。

 この青年は、どこか他の人間と違う。

 黙って考え込んだマイアを見て、疲れたと思ったのか、フウガが言った。

「火の番は俺がするから、眠くなったら寝ていいぞ。明日も歩くから、今の内に、ちゃんと体力を回復しないと。寒くないか?」

「確かに、夜になったら随分冷え込むんですね。砂漠って、みんなこうなのかしら?」

「どうなんだろうな。でもここは、夜でもまだ寒くない方だ。砂のど真ん中じゃ、時期によっては昼から想像もできない位寒くなることもあるんだ。

 それにしても、俺はここしか知らないから、マイアの話を聞いて吃驚した。他にも砂漠ってあるんだな」

「砂漠だけじゃないわ。ここよりも暑い土地だってあるのよ。私の生まれた場所の様に、温暖で緑豊かな土地も、毎日の様に雨が降る様な土地も、一年中氷に覆われた土地だってあるわ」

「こおり? なんだそれ?」

「水をうんと冷やすと、塊になるのよ。あまり長く触るっていると、冷た過ぎて、手足が火傷したみたいになるの。でも、透明なものは、日にかざすときらきらとして、とても綺麗よ。今より気温が下がれば、もしかしたらここの水場でも見られるんじゃないかしら」

「そうなのか? でも、見たことないな。見てみたい!」

「不純物が多かったり、水の状態によっては、中々凍らないこともあるの」

「そうなのか……」

 いかにも残念そうなフウガに、マイアは言った。

「私の能力が戻ったら、見せてあげるわ」

 見たい、それは食べられるのか? 冷たいのに火傷するのか、どんな感じだろう、と、話し続けるフウガを見ている内に、マイアは次第に眠くなってきた。

 眠りに落ちる直前、マイアの目に映ったのは、フウガの楽しそうな笑顔だった。


 翌日、マイアとフウガは、夜が明けきる前に岩室を出発した。

「ねえ、貴方は全然寝ていないんじゃないの? 大丈夫?」

「慣れてるからな。それに、もっと日が昇って一番暑くなる頃合いは、日陰で寝て過ごすよ。ここじゃ、昼間が休息の時間なんだ」

 このまま、砂漠の外縁部沿いから街を目指そうと、フウガは身支度を整えながら言った。

 砂漠を突っ切る方がやや近道なのだが、外縁部の方が、砂嵐が起きた時に身を隠す場所が多い。昨日のマイアの様子を見る限り、思いの外岩場を歩けていたので、砂漠よりもこちらを通る方がかえって早く着くかもしれないと判断したのだ。

「それに、岩場の方が、腹が減った時にいいんだ。小動物が結構いるから」

「そういえば、砂地の時より色々な子を見かけるわね」

 丁度、岩陰に潜り込もうとしていた蛇を見付け、マイアは微笑んだ。

「蛇、好きなのか? そいつ、毒があるぞ」

「例え毒があっても、それはそうやって生まれただけですもの。お互いが気をつければいいだけよ。私が生まれた処にも毒蛇や毒虫も居たけど、それが嫌いになる理由にはならないし、どんな子だって可愛いと思うわ。貴方は、蛇が嫌いなの?」

「嫌いじゃないけど、捕まえる時注意しないといけないから、苦手だな。左程美味しくないし。この辺に住んでるネズミの方が、よっぽど美味しいぞ。そういえば、昨夜は干し肉食べてたけど、もしかして嫌だった?」

「そんなことないわ。どんな生き物だって、何かを糧にしなければ生きていけないのですもの。ただ、変な感じではあったけれど。何というか、口が重くなったというか……」

「きっと、固いもの食べたから、顎が疲れたんだな」

「そういえば、脚も重かったわ。成程、あれが『疲れる』と言う感覚なのね」

「街ならそれなりに食べ物があるから、楽しみにしてるといいよ。服や装飾品の屋台なんかもあるし、砂漠を行き交う為の動物……カームも貸し出したりしてる。あれは、きっと見たことないだろ?」

 やがて、日が高く昇り、足元の影が短くなってくる頃、遠くに浮かび上がる様に人工物らしいものが見えて来た。

「見えるか? あそこが目指す街だ。日も高くなってきたことだし、ここらで休憩しよう」

 と、岩陰に座り、マイアに水筒を渡した。

 フウガの横に座り、礼を言って水筒の水を数口飲んだマイアは、それを返そうと隣を見て、首を傾げた。

「どうしたのですか?」

「え? ごめん、ぼんやりしてた。なんて?」

「疲れたの? 何だか、顔が冴えないわよ」

「……その言い回しは、軽く傷付くね……」

 フウガの力の無い笑顔に、マイアは不安をおぼえ、おろおろと辺りを見回した。

「具合でも悪いのですか? どうしましょう。やはり、昨夜眠っていないのが良くなかったのかしら。水は飲める? 少し眠った方がいいのじゃなくて?」

「大丈夫だ、具合が悪いわけじゃない。ただ、街を見たら何か変な感じがしたんだ」

「変な感じ?」

「懐かしいような、近寄ったらいけないような、兎に角、落ち着かない気持ちになったんだ」

「貴方は、あの街の生まれなのでしょう? 街中にも詳しそうだったわ」

 マイアの問いに、フウガは暫く考え込んでから答えた。

「……そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。街中の記憶はあるけど、何だか遠くの景色を眺める様な感覚なんだ。あまり近寄るなって言われていたし」

「一体、誰に近寄るななんて言われたの?」

「? 俺、そんな事言った?」

「たった今、自分で言ってたわよ」

 そんな事言ったかなと呟いたきり、フウガは黙り込んでしまった。

 きっと、彼の無くしてしまった記憶に関係しているのだろうと、マイアは察した。どこか怯えている様にも見えるフウガに改めて向き直り、きっぱりと告げた。

「貴方は、大事な探しものがあるのでしょう? ここからなら、私だけでも街まで辿りつけると思います。貴方は、貴方の為すべき事に戻って下さい。ここまで送っていただいたこと、心から感謝しています。さあ、今度は私が見張っていますから、貴方は少し休んで下さい」

 フウガは、暫く考え込み、それからマイアに真剣な顔を向けた。

「気を使わせて悪いな。でも、一緒に街まで行くよ。そうしなきゃいけないって感じるんだ。街に行けば記憶も戻るかもしれないし、それに、きっと俺だけじゃ、街まで行く気になれないよ」

 そして、悪戯っぽい顔で付け加えた。

「それに、マイアだけで街に行っても、金も物々交換できる物も持ってないだろ? それじゃ、何にも食べられないぞ」

「ま! そんな、食べ物に興味津々みたいに見えるの?」

 むくれ乍らも、自分の知る顔に戻ったフウガに、マイアは安堵した。


 最も暑くなる時間を岩陰でやり過ごし、彼らは再び街を目指し歩き出した。

 街を囲うように作られた塀が近づくにつれ、マイアは違和感を覚えた。

「なんだか変ね」

「ああ」

 フウガもまた、違和感を覚えていたらしい。

 そして、互いが覚えた違和感の正体に気付く。

「なんで、明かりの一つも見えないんだ?」

 比較的過ごし易くなるこの時間帯は、街も活動時間の筈だった。だが、これ程近づいているにも拘らず、生活感がまるで伝わって来ない。

「食事の支度をする匂いもしないし、何の音もしない。何だってんだ?」

 どちらからともなく自然と早足になり、どんどん街が大きく見えて来ると、違和感はさらに増した。

 街を取り囲む干し煉瓦製の塀は所々が崩れ落ち、塀に沿うように植えられている防砂林をあちこちから覗かせ、その防砂林も、その殆どが立ち枯れているようだった。閉ざされた木製の大きな門扉は風化してボロボロで、下の方にはびっしりと引っ掻き傷があった。

「嘘だろ……」

 フウガは、門扉の近くに屈み込むと、少し色の違う干し煉瓦を壁から抜き出した。以前から子供らが抜け道にでもしていたのか、煉瓦は簡単に抜けて行く。そうして出来た穴の周りを軽く蹴ると、塀は簡単にボロボロと崩れ、すぐに少し屈めば大人でも通れる大きさの穴になった。それ以上崩れないよう注意しながら穴を通り抜け、屈めた腰を伸ばしたマイアとフウガを出迎えたのは、人の営みの残骸だった。

 目の前には、廃墟が広がっていた。

 人の気配のない荒れた大通り、扉も窓もしっかりと締め切られた民家が、砂に埋もれるようにして時を止めている。所々に植えられているルビアだけは生気を放っているのが、余計に街を色褪せて見せた。

 フウガは暫く呆然としていたが、突然、大通りを走り出した。マイアは、慌ててその後を追った。

 大通りから細い脇道を何本か曲がり、崩れ落ちて道を塞ぐ家の壁を飛ぶように越え、やがてフウガは、一軒の建物の前で足を止めた。そこかしこが崩れてはいたが、周囲のものより頑丈そうな建物は、かつての面影をいまだ保ち残っていた。

 かなり遅れて追いついたマイアは、荒い息を整えると、フウガの背に声をかけた。

「何か、思い出したの? ここは、貴方の家なの?」

 立ち尽くしたフウガは、暫くして答えた。

「ここは、雑貨屋だよ。雑貨屋と言っても、軽食なんかも売ってるし、誰かに頼まれれば、仕事を手伝ったりもする。ようは、何でも屋なんだ」

 店舗とその右隣に造られた畜舎の奥は、居住空間になっているらしく、それぞれの奥の壁には、扉が設けられているのが見えた。

 畜舎を奥へと進むフウガを追いながら、マイアは問いかけた。

「貴方の店なの?」

「違う。俺は、ここで住み込みの雑用係として働いてるんだ……この奥に、俺の部屋がある」

 目の前の扉を開けると、丈の低い卓が一つと、小さな寝具が隅に置かれただけの、飾り気のない小部屋が現れた。

「働いているって言っていたけど、貴方の家という訳ではないの? この部屋は、あまりゆったりと出来そうもない様に見えるのだけど」

「うんと小さい頃に両親は死んじゃって、身寄りの無い俺をここの家が引き取ってくれたんだ。おじさんもおばさんも、結構俺の事可愛がってくれてんだぜ。自分達の子供だって居るのに、ちゃんと食わせてくれるし、無理な仕事を押し付けたりはしない。部屋だって、母屋は部屋が足りないから、畜舎の奥で悪いなって言いながら、わざわざこっちに造ってくれたんだ。個室をくれるなんて、好待遇なんだぞ」

「じゃあ、何故貴方は砂漠で探しものをしていたの? それも雑用の一環なの? それに、この街の有様は、一体何があったの?」

「……思い出せない」

 絞り出すようにフウガは言った。その姿は、今までの飄々とした彼と別人のように見え、マイアはそれ以上何も言えなくなった。

 茫然と立ち尽くしていたフウガだったが、暫くすると落ち着きを取り戻し、マイアを促すと、畜舎の外へ出た。そして、「ちょっと待ってて」と、母屋の中に消えた。程なく火のついた提燈を手にして戻り、それをマイアに渡すと、躊躇いながら口を開いた。

「売り物の提燈、ちょっとだけ残ってたから持ってきた。俺、砂漠に戻るよ。何で街がこんなことになってるのか、肝心な事は何も思い出せない。やっぱり、探してるものを見付けないと駄目なんだ。

 大通りの北の正門を抜けてずっと行くと、街境の関所があるから、マイアはそこで保護してもらうといい。隣街は、海があるから交易で栄えて結構豊かだっていうし、女の子が一人で困ってるなら、きっと良くしてくれるよ。送ってあげたいけど、早く砂漠に戻りたい。ごめんな。砦まではちょっと歩くけど、真北に向かって行けば迷う事はない。明かりを持ってれば、そんなに危ない道じゃない筈だから。

 でも……その、もし、もしよければなんだけど、俺と一緒に来てくれないかな。マイアにやることがあるのはわかってるし、こんな事言うつもりはなかったんだけど……でも、マイアと一緒なら、探しものがきっと見つかると思う。ていうか、マイアが居ないと見つからないような気がするんだ。探しものが見つかったら、ちゃんと隣街まで送ってくし。駄目かな?」

 マイアを案じる気持ちと、切実な願いが同居したフウガの顔は、今にも泣きだしそうな子供のようだった。マイアは暫くその顔をじっと見つめ、やがて口を開いた。

「心配してくれて、ありがとう。私も、出来れば貴方と一緒に行きたいと思います。このまま貴方と別の道を行けば、きっと気になって、仕事どころではなくなってしまうわ。それに……」

「それに?」

「いえ、気にしないで。兎に角、貴方の探しものを見付けるお手伝いをしたいと思います」

 マイアは、決して使命を忘れてはいなかった。寧ろ、街の荒廃は、より強く使命を意識させた。

 街の荒廃が急激に起きたものならば、何とかして他の神に連絡を取るべきだった。神界に問い合わせれば、こうなった理由は分かるだろうし、或いは、神界のあずかり知らぬところで起きたことならば、事情を説明し調査をしてもらう必要があるだろう。それに、この現象がここだけとは限らない。他の地域でも起きているとしたら、ゆゆしき事態だった。フウガだけが取り残されたのが何故なのかもわからない。

 同時に、他の可能性も無視できなかった――やはり、ここは「死せる砂漠」である可能性だ。もしそうであるなら、砂漠の怪現象にも未だに遭遇していないし、当初の予定通り、もっと詳しく調査する必要がある。それに、フウガはこの地を「生ける砂漠」と呼んでいた。彼が嘘をついているとは思えなかった。

 どちらにしても、フウガの存在は浮いている。自分が神の力を無くし、受肉してしまった理由も不明だ。どんなに考えたところで、今のままでは答えは出そうもない。だから、マイアはもう暫くフウガと共に行く道を選んだ。

「本当か! よかった、ありがとう。兎に角、一度大通りまで戻ろう」

 フウガは、ほっとしたように笑顔を見せて、歩き出した。行く場所を既に決めているのか、フウガの足取りは澱みなく進んでゆく。マイアは黙ってその後をついていった。やがてフウガは一軒の小さな建物の中に、スタスタと入って行った。

「さて、ここは服屋です! マイアの服装は、やっぱり砂漠向きじゃないだろ。だから、ここで服を調達したかったんだ」

 提燈に照らされた店内は、埃っぽく、がらんとしていて、商品は見当たらなかった。やっと店の奥の棚の下に置かれていた行李を見付け、その中を漁ると、売れ残りなのか、いまひとつパッとしない服が乱雑に仕舞われていた。

「うーん……これしかない……ま、いっか! 機能性は問題なさそうだし! あ、履物もある。良かったな」

「……埃っぽいことを差っ引いても、提燈で見てもわかるくらい、かなり斬新よ、これ。赤の地に、緑色の斑模様って……えぇぇ……こっちは、何だか落書きみたいな柄が描いてあるわ……これは、何? 動物?」

「外敵から身を護る為に、あえて凄い色した生き物が居るって聞いたことあるぞ」

「じゃあ、こっちの変わった花柄(?)のは、貴方が着て頂戴」

「いや、俺、着替える必要ないし。大きさも合わないし。そんな柄嫌だし」

「ちょっと!」

 わあわあ言いながら散々店内を漁ったが、結局、他に商品が見つかることは無かった。仕方なく、その中でも幾分かましに見えるものを選び、マイアは着替えを済ませた。そして、フウガから預かった代金を行李の中に入れると、店外で着替えを待っていたフウガに声を掛けた。

「着替えました」

「うん、素敵だ」

「こっちを見てから言って頂戴。本当にそう思っているなら、貴方の感性を疑わざるをえないわ。でも、ありがとうございます。貴方のお金を使わせてしまいましたね」

 気にするな、と言って、フウガは大通りを南に向かって歩き出した。その背に向かって、マイアは問いかけた。

「砂漠に戻る前に、何故こうなってしまったのか、もっと街を調べなくていいの?」

「うちの店や服屋を見る限り、商品はほとんど残っていなかっただろ? 街の何処にも荒らされた跡もなかった。畜舎に、カームの死体や暴れた跡もなかった。きっと、商売道具はカームで運んだんだ。つまり、皆ちゃんと計画的に街を出てったってことだ。ってことは、どこかで無事で居るってことだろ? おじさん一家も、きっと無事でいる筈だ。それに、どこにも死体が転がったり、何かを焼いたりした跡もない。おかしな臭いもしていない。少なくとも、流行り病や盗賊団の心配はしなくて良さそうだ。でも、念の為、井戸水も溜まり水も飲んじゃ駄目だぞ。喉乾いたら、ルビアの実でしのいでな」

 だが、井戸水で体を壊す心配はなかった。念の為、井戸を見かけるたびに調べてみたのだが、そもそもどの井戸にも水が無かったのだ。

 マイアは、フウガの反応が不思議だった。完全に記憶が戻ったわけではなさそうだったが、彼がこの街に暮らしていたのは間違いないのだろう。街の惨状を目にした時は、それなりに衝撃を受けていたようだったが、あっという間にいつもの……マイアの知るフウガに戻った。まるで他人事の様に、変わり果てた故郷を受け入れる。自分だけ置いてけぼりにされたのかもしれないというのに、人間とは、そんなにあっさりと頭を切り替えられるものなのだろうか。

 前を歩くフウガの背中からは、彼が今どんな表情をしているのか、推し量ることは出来なかった。


 二つの足跡は、砂を踏みしめ水場を目指す。上空には砂が舞っているのだろうか、夜空に輝いているだろう星の姿は殆ど見えないが、幸い、輪郭がぼやけた月がうっすらと光を届けている。提燈の明かりと共に、思いの外足元は危なげなかった。

「星の位置で方角を知ると聞いたことがあるのだけど、この調子じゃ、その手段は使えそうもないわね。迷子になってしまわない?」

 マイアの疑問に、フウガは笑って答えた。

「確かに、それも一つの手段だろうけど、星が見えないことだってあるだろ? そもそも、夜に移動するとも限らないし。この辺は距離を稼ぐには夜移動が基本だけど、季節に因っちゃ昼間に移動することもあるぞ。そういう時は、太陽の位置とか風向きとか、色んな方法で方角を見たらいいよ。でも、俺、方角を見失ったことなんかないけどなぁ。マイアは違うのか」

「今のこの体では、方角なんてさっぱりわからないわ。それとも、私だけ特殊なのかしら」

「そういや、普段真面目でしっかり者なのに、時折ドジな処を見せる子は、一定の人気があるらしいよ」

「何が言いたいの?」

「単なる世間話だよ? マイアがドジっ子だとか、そんなことは言ってないよ?」

 ニコニコしながらそう言うフウガに、マイアは腹を立てるのも馬鹿らしくなってため息交じりに呟いた。

「本当に貴方に悪気が無いのか、疑わしく思えて来たわ。それより、『楽園』とやらにはどれくらいで着く予定なの?」

「この調子なら、夜明け前には着く筈だ。疲れたか?」

 マイアを気遣いながら答えるフウガは、本当にいつも通りだ。

「大丈夫よ。それより、街の事は本当に気にならないの?」

「今考えてもしょうがないことは、考えない。今考えなきゃいけないのは、無事『楽園』に辿り着くことだ。とは言っても、迷うようなことはないから安心してくれ」

 それより、マイアの暮らしてた森の話を聞かせてよ、ここからどれ位遠いんだ? どんな草が生えてて、どんな動物が居るの? と、マイアを質問攻めにし出したフウガに、マイアは律儀に答えた。

「正確な距離は解らないけど、空を飛んでも丸一日はかかる位離れているわ。もう何十年も帰ってないけど、きっと今も変わらず緑の美しい、穏やかな……」

「待て待て? 何十年も帰ってない? マイアって、歳は幾つなの?」

「恐らく、三百歳はいってないとないと思うわ」

「え? なんて?」

「二百五十歳位じゃないかしら」

「……ソウデスカ。オ若ク見エマスネ」

「天罰下すわよ」

 きっともう少しで、この旅は終わる。口には出さなくても、互いに予感があった。

 くだらないことを話し、笑いながら行くのが、自分達の奇妙な旅の最後にふさわしい。

 遠くの空が深い群青から紫に変わり、東の山脈の姿が浮かび上がる頃、細く丈の高い木々の影が行く手に現れて来た。

「あそこだ。あれが『楽園』だ」

 その言葉を最後に、無言になったフウガは、影を目指し次第に足を速めた。マイアも、遅れない様に必死で付いて行った。

 だが、途中で、マイアは気付いていた。

 水の音が、匂いが、しない。受肉したとはいえ、水の精霊として生まれた自分が、気配も感じない筈はないのだ。フウガも、とうに気付いているに違いない。だが、フウガは足を緩めない。息を切らせ先を急ぐ後ろ姿は、ただ一点を見つめていて、それ以外はまるで目に入っていない様だった。

 やがて目の前に現れたのは、とうに水は涸れ、倒木に周囲を囲まれただけの大きな砂場だった。今迄目にしてきた砂漠の植物達とは違う植生が、曾てはここが全く違う姿をしていたことを思わせはしたが、それらも殆どが枯れ果て砂に埋もれていた。朝日をきらきらと反射しているのは、水面ではなく、砂に混じった塩の結晶だろうか。

 だがフウガは、それらに構うことなく一際大きな倒木の根元に駆け寄ると、膝をつき、その辺りの砂を掻き出し始めた。マイアも手伝ったが、それすら目に入っていない様で、黙々と砂を除けている。

 どれ位時間がたったのか、フウガの手が不意に止まった。見覚えのある青い布が、砂から覗いている。フウガの手は、丁寧に砂を払うものに変わり、やがて、カサカサに乾ききった二体の遺体が姿を現した。

 大きな黒い犬と、それより一回り小さい人間が寄り添うように横たわってた。人間の手には、青い布がしっりと握られていた。

 フウガは、布を握った遺体を優しく撫で、話しかけた。

「忘れててごめん。待たせて悪かった」

 その瞬間、マイアとフウガの姿は淡く大気に溶けだした。

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