第七章 プロローグ
プロローグのみ視点が変わります
「ディダ、本当に行くのか?」
「止めねえでくれ、お父。おらは独り立ちするんだ」
「ああディダ、私のディダ……こんなに小さい女の子が旅に出るなんて……」
「お母、おらはもう大人だ」
ざざっ、ざざーっと波の音が聞こえてくる浜辺で、一つの家族が抱き合った。
旅立つ一人娘は、両親の腰ほどの背丈しかない。
それでも、少女は成人している。
背は小さくとも。
「元気でな、お父、お母」
「…………ああ。必ず、便りを寄こすように」
「いつでも帰ってきていいからね。ディダの好物を用意して待ってるわ」
好物と聞いて、少女はゴクッと唾を飲み込む。
娘の様子に気づいた母が、好物を指折り口にする。
まるで、旅立ちをやめさせるかのように。
ちょっと口を開けてヨダレを垂らしかけた少女がぶんぶん頭を振った。
くるっと向きを変えて足を踏み出す。
「んじゃ行ってくるだ!」
ずさずさと砂浜を踏みしめて、少女は歩き出した。
うつむいて、白い砂にめり込む足先を見つめて。
ポタポタ落ちる水滴を気づかれないように。
両親の声が聞こえなくなった頃、少女はふと足を止めた。
うつむいた視界に、誰かのつま先が見えたのだ。
顔を上げる。
まだ上げる。
ぐっと見上げる。
大きな両親よりもまだ大きな男が、村の出入り口の前に立っていた。
「行くのだな、ディダよ」
「里長……」
「たとえ漁に出られずとも、ディダの暮らす道はあるのだぞ?」
「いいんだ。おら、独り立ちしてえんだ」
「ならば止めぬ」
「いままでありがとうございました」
「すまぬ……小さき者の旅に、幸あらんことを」
長の謝罪を聞き流して、少女は里長の横を通り過ぎた。
少女の頭は、里長の腰にも届かない。
歯を食いしばった自分に気づいて、少女はふっと苦笑を浮かべた。
里を出ると決めたのに、いまさら気にするなんて、と。
里を出た少女は一度も振り返らなかった。
歩き進めるうちに、苦笑は笑みに変わっていく。
「おらはもう大人だ。独り立ちするんだ。ちっちゃくたってできることはある。それに——」
旅だった少女は海に沿って南下していく。
向かう先に当てはない。
「——大きくなる方法だってあるかもしれねえ」
前向きな決意と、後ろ向きな願望を抱えて、少女は当てのない旅に出た。
背負う木盾も手にした棍棒も、人が扱うには巨大すぎるシロモノで。
それでも、少女は小さかった。
生まれ育った、巨人族の里では。
同族と比べたら小さな足で、人間と比べたら大きな足で、少女は海辺を歩いていく。
ずしずしと足音を響かせて。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「うう……海はどっちだべか……」
里の近くや周辺は何度も遠征した。
行商について、仲間と一緒に隣の里に行ったこともある。
旅に先駆けて野営の練習もしてきたし、備えもした。
このあたりに出るたいていの陸上モンスターなら蹴散らせる。
だが、どれだけ準備をしてきても、どうしようもないこともある。
少女は、方向音痴だったのだ。
致命的である。
海沿いを歩いているうちは順調だった。
もし迷ったら引き返せばいいとずんずん進んだ。
けれど、延々と海沿いを歩けるわけではない。
切り立った崖を避けるべく内陸に入ってしばらくすると、海がどっちかわからなくなった。
低い方に進めばいずれ海に出るだろうと歩いていくうちに、少女はすっかり迷ってしまった。
当てもなく山中をさまよって、野営ももう三日目だ。
もはや海どころか、今日来た方向もわからない。
「おらは、旅に出てもこんなちっぽけな獲物しか仕留められねえのか……なぁにが大人だ」
モンスターがはびこる世界の山の中で迷う。
致命的な状況なのに、少女はどこか呑気だった。
狩った鹿を火で炙ってむしゃむしゃ食べる。
モンスターではない普通の鹿は人間の獲物にしては大きいが、巨人族の獲物としては小さい。
「なんでおらは小さいのかなあ。大きければ、みんなと一緒に、浜で網を引けたのに」
泣きながら、モモ肉の塊にかぶりつく。
巨人族の里の中で一番身長が低い。
それは、デカイと強い巨人族としては「里で一番弱い」のと同じ意味だった。
一番弱いと見た目で判断される。
里長やほかの住人、仲間から優しくされても、どこか下に見られているようで。身長差で見下ろされているのだがそういうことではなく。
里を出る前、少女は努力を続けてきた。
小さければ小さいなりの戦い方を、あるいは小さくてもできることを、小さいからやれることを。
少女の努力は認められて、いまでは「小さくとも大人の巨人族」だと認められた。
それでも、やるせない思いはある。
少し塩気のついたモモ肉にかぶりつく。
気づけば少女は一匹分を食べつくしていた。
ちょっと食べ過ぎたかな、けど大きくなるにはたくさん食べないと、などとぼんやり思ったところで。
「カァー」
いつの間にか、鹿の残骸の山にカラスが止まっていた。
「うん? 食べ残しを漁りに来ただか? 好きにするといいだ」
「カァ」
「わっ。人懐っこいカラスだべなあ。おらを慰めてくれてんのか?」
少女の涙の跡を見て、カラスは肩に飛び乗って羽を寄せる。
「なあカラスさん、海がどっちかわからねえか? 人里でもいいんだけども……」
「カァ!」
カラスが応えるはずもないと少女もわかっている。
それでもついつい聞いてしまったのは、しばらく話していなかったせいだろう。
カラスはひと鳴きして、闇夜に飛び去っていった。
「………明るくなったら、あっちに行ってみるだかなあ」
少女はポツリと呟いた。
カラスが飛び去った方向には、月明かりに照らされて山の稜線が見える。
そちらに海はないことは明白だ。
けれど少女——ディダラドラは、決意した。
あの山を越えるのだと。
生まれ育った海の辺りから離れて、自分は自分として生きていくのだと。
早朝、少女は山に向けて旅立った。
道に迷うたびに、少女の前にカラスが現れては飛び立っていった。
まるで、少女を導くかのように。
巨人族は、強ければ強いほど大きくなる。
「巨人族の中で最小」は、「巨人族の中で最弱」と同じ意味だ。
もちろん強さ以外に役立てることはあるのだが、それでも。
「小さな巨人族」という矛盾を抱えた少女はどこへ向かうのか。
山を越えたその先に何を見るのか、誰と出会うのか。
知る者はいない。
——いまは、まだ。





