第二話 コウタ、探索に出かける
「ふう、さっぱりした。……やっぱりちょっと変わってる、かな?」
木のウロで目を覚ましたコウタは、すぐそこの湖までやってきた。
サンダルなことを幸いに水辺に足を突っ込んで、素手で水をすくって顔を洗う。
水面に映る自分の顔に首を傾げる。
なんとなく、キリッとした顔になった気がするようだ。
「【健康】をもらって、心も体も健康になった、とか?」
「カア!」
自問したところで応えはない。
威勢よく鳴いたカラス——カークの応えはコウタには通じない。
「まあ、うん。考えてもわからないことは先送りにしよう」
問題の先送りである。
これができれば、会社員時代ももう少しラクに生きていけたかもしれない。現代社会は「真面目な人間」は生きにくいものだ。つらい。
「それよりも、これが飲めるかどうかだよなあ。【健康】。【健康】をもらったんだし大丈夫なはずだ」
「カア? カアー!」
ふたたびすくった水をじっと見つめるコウタ。
さっきは顔を洗っただけで、今度は飲めるかどうか試してみるらしい。
大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせている。せめて煮沸しないのか。火をおこすのは大変だろうが。
コウタから少し離れた場所で行水していたカークは、一足先にくちばしを水に突っ込んだ。
イケるっぽいぞ! と鳴いてるようだがコウタは無視だ。異世界に転生しても、人とカラスの意思疎通は難しいようだ。当然か。
「うん、大丈夫そう。水もあるし、食料はとりあえず果実がある。寝床は木のウロがある。【健康】なんだしこれならなんとかなる、といいなあ」
起きたら身一つと友達のカラスだけで、人の気配のない盆地にいた。
それでも、コウタはどこか楽観的に「なんとかなる」と思っているようだ。心身が【健康】になってこれまでの悲観や無気力と決別したのか。
「よし。今日はいろいろ探してみよう。人とか食料とか、使えそうな道具? 植物? とか」
「ガァ?」
いつの間にか大木の枝に移動していたカークが小首を傾げる。
コウタが目をやると、プリッと排泄物を落とす。
ちゃんと水場から離れて、コウタに運をつけることなく排泄してえらい、ではなく。
「ああそっか、トイレも考えないと。穴を掘って草で拭くとか?……慣れ、慣れればいけるはずだ。いける、といいなあ」
遠い目をするコウタ。
ニンゲンは大変だな、と言わんばかりにカークが気の抜けた声でカァと鳴く。
盆地の空は青く、遠く山々は雄大だった。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
木の枝を手に、コウタが森を歩く。
カークは先行して木から木へ飛びまわっている。
小さな湖とウロのある大木から離れて、一人と一羽は探索をはじめていた。
「この辺はなんか雰囲気が違うなあ。木が灰色がかってる?」
「カアー」
湖周辺の木々は目に鮮やかな新緑だったが、一時間も歩くと景色は変わった。
葉も幹も、まるで色あせたようにグレイがかっている。
コウタは足を止めて、きょろきょろと辺りを見渡した。
後方、歩いてきた獣道の奥は色鮮やかだ。
向きを戻して木々の隙間から前方を見ると、森は徐々に色あせていく。
さらに遠くは、灰色を通り越して黒っぽくなっている。
「……今日は奥に行くのをやめてここまでにしようか。あの黒い森はなんか嫌な感じがする」
「ガァッ」
遠出を諦めたコウタの言葉に、同意するように力強く鳴くカーク。
コウタがくるりと振り返り、先行していたカークが羽を広げて向きを変える。
見慣れない場所の探索を終えて戻ろうと、一人と一羽の気が緩んだ、その時。
「う、うわあっ!」
「ガアーッ!」
コウタを、黒い影が襲った。
反射的にコウタが手を出す。
逆方向にいたカークは間に合わない。
ガッと衝撃を受けてコウタが吹っ飛ぶ————ことはなかった。
「わぁぁぁああああ、あ? あれ?」
目にも止まらない勢いで突っ込んできた黒い影は、コウタが反射的に出した手で止まっている。
コウタがまじまじと観察する余裕さえある。
黒い影は、真っ黒な鹿だった。
体高はコウタの腰までで、サイズはそれほど大きくない。
大きさだけで言えば、奈良あたりにいるニホンジカと同じぐらいだろう。
色と、ツノを除けば。
とっさに出したコウタの手は、真っ黒な鹿のツノを掴んでいた。
剣のように鋭いツノを。
黒い鹿の通り道にあった木の幹には傷が残っている。
突進してくる時に、枝分かれした大きなツノの一部が当たったのだろう。
ツノは硬い木を切り裂くほどの鋭さなのに、コウタには傷ひとつない。
ひょいっと出した手で止めている。
「あれ? 痛くない? 剣みたいなツノだけど斬れ味は悪いっぽい?」
不思議そうにツノを握ったり、手を滑らせてみるコウタ。
カークは丸い目を丸くして固まり、黒い鹿はぷるぷる震えている。
「……この鹿を殺れれば食べられるかな」
コウタがポツリと呟く。
真っ黒な鹿が必死に頭を振る。
コウタの手が離れる。
その瞬間、鹿は脱兎のごとく逃げ出した。鹿なのに。
「あっ、ちょっ! まあ捌けないし、しょうがないか」
「ガアーッ!」
コウタは追いかけることなく見送った。
食料を確保する機会だったが、動物を捌くハードルは高かったようだ。
カークは、次は殺ってやるぜ! とばかりに勇ましい。
「……あんな鹿見たことないしなあ。やっぱりここは異世界なのかなあ」
ポツリと漏らしたコウタの独り言が灰色の森に溶けていく。
一人と一羽の異世界生活初日は、トラブルに見舞われながらも無事に終わった。
ここは異世界じゃないか、【健康】とは何か、コウタに疑念を抱かせて。