第五章 プロローグ
プロローグのみ視点が変わります
「クルト、本当に辞めるのか?」
「ああ。この地では我のやりたい研究はできぬ」
「そうか……魔導の深淵を覗く者に、幸運あれ」
「覗かれていることを忘れることなかれ。其方にも幸運を」
インディジナ魔導国の中でも高名な研究所を、一人の男が歩き去る。
手には小型のカバンを提げて、身に巻きつけたマントをはためかせて。
見るものが見れば、男のマントは魔道具だと判ることだろう。それも、強力な防護の魔法が込められた逸品だと。
男はそのまま研究都市を出る。
大陸のほぼ全土を領土に収めた魔法大国の中でも、南部のこの街は研究者が多く暮らしていた。
大陸南部、西部のモンスター素材がたやすく手に入り、集まった同好の士と議論を交わし、時に共同で研究する。
そうして、街は「研究都市」と公式に呼ばれるほどになったのだ。
だが、どれほど「研究に向いた環境」であっても、男にとっては意味がなかった。
やりたいことは、この地ではできないゆえに。
街を出たところで、男は自らの魔導車に乗り込んだ。
自動操縦で、たいていの場所を走破できる最新タイプである。
「いまより一人、邪魔する者はいない」
ポツリと呟いて男は西に旅立つ。
向かうは大陸の西端。
男が発見した未開の地。
入り組んだ谷を越えた、小さな盆地。
そこが、クルト・スレイマンの新たな研究所である。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「ふむ……うまく作動せぬか……」
無事に盆地にたどり着いたクルトは、地下にこもって研究に明け暮れていた。
もちろん事前に準備してあった空間である。
もっとも、睡眠は硬いベッドで、食料は味気ない保存食だったが。
クルトは食にも睡眠にも関心がない。
興味があるのはただ一つ。
魔導の深淵である。
「この手で命を宿らせる。これでは、道のりは遥か先か」
中でも、クルトは「生命の創造」に取り憑かれていた。
妄執に倫理観が歪み、研究都市においてもその研究を許されぬほどに。
魔法で栄えたインディジナ魔導国とはいえ、「生命は神が創り賜うたもの」とする宗教は存在するので。
まあ、生きた人間を粗末に扱うことはなかったし、非道な人体実験もしなかったようだが。
クルトがそうした性質ならば自ら街を出るのではなく、追放されたことだろう。
「不確かな存在の神ではなく、我が命を創り出す。それができれば……」
失敗した実験の結果をガリガリと書き付ける。頭をかきむしる。
頬はこけて、目の下にはひどいクマができている。
最後に寝たのは何日前のことか。
人里離れた地下研究室で、クルトは寝食を忘れて研究に打ち込んでいた。
だが——
「足りぬ。時間が足りぬ!」
——人間の命は有限だ。
生命の創造を目指したクルトは、くつがえせぬ生命の定めにもがいていた。
魔法が存在する世界においても、生命を創り出すことは困難らしい。
なにしろ神の所業への挑戦である。
魔法が発展したインディジナ魔導国でも、真剣に取り組んでいる研究者は数少ない。
ましてクルトが生命の創造に取り組んだのは、壮年と呼ばれるようになってからだ。
新進気鋭の天才研究者と名が売れても、成し遂げるのは難しいだろう。
ちなみに、クルトがこのテーマに取り組みはじめた理由は単純だ。
「命を創り出せれば! 我の理想の女性を生み出せるものを!」
……不純すぎる動機であった。
本人はいたって真面目だが。
誰しも譲れないものはある。
時にそれは、周囲から理解されなくとも。
「こうなれば生命の創造の前に、我自身を……」
薄暗い地下研究室で独り呟くクルト。
机の上には新たな紙が置かれて、これまでとは異なる系統の魔法理論が書き込まれる。
それは神に、生命の定めに逆らう魔法——禁呪であった。
コウタたちが暮らす大陸において、「インディジナ魔導国」はすでに存在しない。
およそ2000年前に滅びて、現代ではただ「古代文明」と呼ばれている。
国名も、南部の都市群もすでに消え失せた。
生命の創造を目指して禁忌を犯した男、かつて栄えた古代文明の魔導士はどこへ向かったのか。
理想の女性を創造できたのか。想像で終わったのか。
知る者はいない。
——いまも、なお。





