第一話 コウタ、目覚める
一人の男がもぞもぞ動き出す。
アラームはない。
目をつぶったまま伸びをすると、手にコツッと硬い感触があった。
目を開ける。
射し込む陽光がまぶしくて、男は目を細める。
「んんー、もう朝……いや、昼、え?」
光に慣れた目が映す光景に、男は呆然とした。
横たわった場所はやわらかな土で、射し込む光で内側の木肌が見える。
いまいるのは木のウロの内側らしい。
だが、男が戸惑ったのはなぜか木のウロにいるから、ではない。
射し込む光の向こう、木のウロの外の光景。
小さな湖と新緑の木々を、男は呆然と見つめていた。
「あ、そっか、俺は死んで、それで生まれ変わるって……は?」
死ぬまでの記憶があるし、死んで案内役と話したことをうっすら覚えている。
記憶はなくなって、『異世界』で新たな生を迎えるはずだったことも覚えている。
コウタは自分の手を見つめる。
傷も汚れもない。
自分の手にしてはキレイすぎる気がする。
パタパタと髪や体に触れる。
どこが変わったと言い切れないけど、少し変わってる気がする。
「あ、あれ? なんか違ってる? けど俺は俺のまま?」
首を傾げる。
28歳のおっさんがやったところでかわいくない、のはいいとして。
考えても仕方ないと、コウタはのそのそと木のウロから這い出た。
すぐ目の前にあるのは小さな湖だ。
対岸まで30メートルはあるだろうか。
水はそのまま飲めそうなほど澄んでいる。
人の気配はない。
振り返る。
コウタが寝ていたらしい木のウロは、大木の根元にあった。
歳を重ねた大きく太い木ではまれに存在する、根元の洞である。
風で入り込んだのか、洞の下部は柔らかな土に覆われていた。コウタが暢気に寝ていられた理由だ。
木はコウタが両手を広げても抱えられないほど、それどころか二、三人で手を広げてもたがいの手が届かないほど太い。
日本なら御神木に祀り上げられそうな巨木だ。
見上げる。
大木ははるか頭上で枝を伸ばし、青々とした葉をつけていた。わずかに果実もなっている。
人の気配はない。
「いやほんとなんだこれ。あ、おはようカーク」
「カアー!」
いつものごとく飛んできたカラスに一声かけるコウタ。
カラス——カークは、ばっさばっさと羽を鳴らして、地面をぴょんぴょん飛びはねる。「おはよう」じゃねえって! あっさり受け入れんな! とばかりに。コウタには通じない。
「お腹空いたかな? 何か食べる、っていつものシリアルはないよなあ」
「カァ」
気の抜けたコウタの発言にへにょっと頭を下げるカラス。ツッコミを諦めたようだ。賢い。
「なんで女神様と話した時はカークのことを考えなかったんだろうなあ。とにかく、カークが無事でよかったよ」
「カ、カア」
コウタがしゃがんで、カークの背に手を伸ばす。
そっと撫でる。
カラスは飛べるのに、とっさに覆いかぶさったせいでカークを事故に巻き込んだかもしれない。
コウタには後悔があったのだろう。
こうしてふたたび出会えたことが嬉しくて、コウタは涙ぐんでいた。
カークはされるがままだ。照れてるのか。
「あれ? カーク、なんか大きくなってない? それに足が三本? 一本はなんか透けてるような」
「カアーッ!」
そこは触らせねえよ、とばかりにカークがぴょんと飛びはねる。
ちょっと離れた場所でカアカア威嚇するカークをじっと眺めるコウタ。
カークの体はふた回りほど大きくなっている。
二本の足でがっしりと地面を掴み、足の付け根の間に生えた三本目の足をコウタに向ける。
羽も広げて、威嚇しているつもりなのだろう。
「まあ、うん、とにかく無事でよかった」
無事ならそれでいいらしい。
大きくなったことも三本目の足もどうでもいいらしい。
姿形が変わっても、コウタはカラスが別個体ではなくカークであることを理解していた。
本質? か魂? を見抜いたのか、あるいは案内役のサポートか。
「さて……ここ、どこなんだろ。体はちょっと変わってるみたいだけど記憶はある。けど大人なわけで、輪廻転生とは言わないよなあ。あの子供みたいな神様が何かしたのかな」
再会の喜びが落ち着いたのか、コウタは立ち上がる。
ぐるりと辺りを見渡してみる。
小さな湖、ほとりに立つ巨木と根元のウロ。
湖と木の周囲には森が広がり、その奥には山々が連なっている。
「どこかの盆地っぽい。でも俺は死んだわけで。……違う世界に転生するはずが、転移になっちゃった? けど着てる服も違うし」
起きた時と同じようにパタパタと手を動かすコウタ。
全裸ではない。
ちょっとごわごわしたズボンと、頭からすっぽりかぶるタイプのシャツを着ている。
シャツは頭を通しやすいように胸元まで切れ込みが入り、紐で調節できるようになっていた。
シンプルだが丈夫そうで、村人っぽい服装である。
靴は木の底に皮で縛るサンダルだ。
コウタの足元でおとなしくしているカークは全裸だった。カラスなので。
「家も人里も見えない。道もないし、最悪一人でしばらく生きてかないといけないかも、かあ」
「カア! カァ?」
「ああ、一人じゃない、カークがいたね」
そう言って、コウタはわずかに微笑んだ。
飛んで見てこようか? と鳴いたカークの意図はコウタに通じない。
「けど、水に困ることはなさそうだ。寝場所は木のウロがあるし……あとはトイレと食べ物を確保できれば……あれ、食べられるかな?」
コウタが見上げる。
大木の枝の先には果実がなっていた。
風に揺れて、果実が一つぽとりと落ちる。
まるで、タイミングを見計らったかのように。
素早く反応したカークが飛び出して、さっと三本目の足で果実を掴む。
残る二本の足で着地する。
にゅっと足を伸ばしてコウタに果実を差し出す。
「カアー!」
「お、おう、すごいなカーク。ありがとう」
狩人の一面を見て、コウタはちょっと引き気味である。
あるいは、カラスには存在しないはずの三本の足に戸惑っているのだろう。
「食べれるかなあ。けど【健康】はもらえたはずだし……」
しゃがんで受け取った果実を前に、コウタはブツブツ呟いて悩む。
見知らぬ土地で、謎生物と化した友達からもらった、正体不明の果実である。ためらうのも当然だろう。
「いただきます」
だが、コウタは果実にかぶりついた。
目の前に湖があるのに、洗うこともなくそのまま。
「あ、美味しい」
「カアー!」
いつの間にか、カークも自分で採ってきた果実をついばんでいる。
美味しいらしい。
「これならなんとかなりそうかな、うん」
「カ、カア?」
水、食料、寝床。
それだけで、コウタはやっていける気がしたらしい。
カークはマジで? とばかりにぎょっとしている。
「女神様の話とはちょっと違うけど……でも、ありがとうございます。俺とカーク、二人で、【健康】で穏やかな暮らしを送れるように、がんばっていきます」
コウタは大木に一礼する。
足元のカークもひょこっと首を下げる。
見渡す限り誰もいない盆地で。
一人と一羽の、異世界生活がはじまる。