第九話 コウタ、アビーと一緒に探索に出かけて鹿に遭遇する
コウタが精霊樹のたもとで暮らすことを決めて、カークもアビーも賛同した。
それでも、一行は探索をやめなかった。
湖から流れ出た川を、東——下流に向かって進んでいく。
「服は欲しい。それに、ヒゲソリとか歯ブラシもいるよなあ。あとはリュックとか、桶もあると便利かな。あ、調理器具も必要か」
「そうだなあ、オレも替えは準備したけど、コータの分までまわせるほどは持ち込んでないし」
「え? その、服を借りるわけには、服は女性用だよね?」
「はっ、慣れりゃなんとかなるって!……そういや、オレもう女モノを着る必要もないんだな」
「カァ」
「よーし、さっさと人里を探すぞコータ、カーク! そんでオレは堂々と男モノを着るんだ!」
アビーの体の性別は女で、心の性別は男で、恋愛対象は女だ。
これまでは「侯爵家令嬢」という立場があったためレディースを着ていたが、ここでは家と関係ない。
『絶黒の森』に、アンブローズ家を知る者はいない。
意気揚々と歩き出したアビーだが、すぐに足を止める。
前方に険しい視線を向けて、すっと杖を構える。
「コータ、カーク」
「カァッ」
「どうしたの、ってああ、また会ったのか」
二人が歩いて一羽が飛ぶ川沿いの、さらに川寄り、岩がゴロゴロした河原。
そこに、一頭の鹿がいた。
左のツノがない黒い鹿だ。
三度目の邂逅である。
「おいコータ、コータが持ってるツノってまさかアイツの」
「うん、そうだよ。すごく役立ってるからお礼をって思ってたんだけど……」
「カアッ!」
「どう考えても殺る気だなアレ。『絶黒の森』の、瘴気で変異した黒い鹿、ツノは木を切断できるほど……アイツまさか」
「知ってるのかアビゲイル」
「なんだその言い方。ああ、たぶんアレは——絶望の鹿だ」
「カァ?」
「え? 俺にツノをくれた親切な鹿なのに?」
「親切ってことはないんじゃねえかなあ。遭遇したら生き残るって希望を捨てろって言われてるモンスターだし。ほらコータ、向こうは殺る気だぞ」
三度目の邂逅に驚いていた黒い鹿は、頭を下げて右のツノを突き出して、前足で地面をかき出した。
ブフーッと荒い鼻息を漏らす。
体色の黒が浮き出たかのように、ぼんやりと黒いモヤが立ち昇る。
「どうするコータ、オレが戦るか?」
「平気だってアビー。やっぱりお礼を言いたいしね」
コウタが前に出る。
黒い鹿がツノをかざして突進する。ためらいなく、迷いなく一直線に。今度こそ本気の本気なんで。アンブロシア喰って強くなったんで。とでも言うかのように。なおアンブロシアの目的外使用は効能がない。
一人と一頭が激突する。
プライドを賭けた黒い鹿の猛進は、コウタの素手で止められた。
「よしよし。この前はありがとな、このツノ、ほんと役に立ってるよ」
「カ、カァ。カァー」
左手で頭を撫でる。
右手に持った剣状のツノを見せてニコニコとお礼を言う。
何やってんだコウタ、とカークの鳴き声は力ない。
「ははっ、遊びたいのかな? よーしよし」
ぶんぶんと頭を振って離れようとする黒い鹿をコウタが撫でる。
三度目の遭遇だが、一人と一頭はわかりあえないらしい。
「聞いてはいたけど、この目で見ると信じられねえよなあ。これが【健康 LV.ex】か。絶望の鹿がペットみたいに……」
「カァカァ」
驚くアビーに、ほんと信じられねえよな、とカークが同意する。
会って二日目だが、一人と一羽はわかりあえたらしい。
「そうだ、今日はお土産があるんだ」
「あっおい。……まあ思いと違ったら効能がないし、アンブロシアをあげても問題ないか」
黒い鹿から手を離して、ガサゴソとズタ袋をあさるコウタ。
アビーはコウタに声をかけて、鹿と目が合った。
コウタの手から解放された、鹿と。
黒い鹿の目がギンッときらめく。
ふたたび黒いモヤが立ち昇る。
俺は強いんだ、強いはずなんだ、アイツならイケる、イケるぞ俺、と自分を励ましてるのか、前足で地面をかいて準備する。
ぐっと頭を下げて。
「おいおい、誰を相手にするつもりなんだ? 『空間斬』」
言って、アビーが黒い鹿に杖を向けた。
何も見えない。エフェクトはない。
コウタはぽかんとして、カークは頭ごと視線を動かす。
まるで、見えない何かを追っているかのように。
黒い鹿の、残った右のツノの先端が、スパッと切れた。
「戦る気なら、次は当てる」
眉を寄せて絶望の鹿を睨みつけるアビー。
黒い鹿はぷるぷる足を震わせる。へなっと力なく頭を下げる。上目遣いでアビーを、コウタを見上げる。
そんな滅相もない、えへへへへ、とばかりに。諦めたらしい。ホープレス。
「おおっ、そんな離れたところから! すごいんだねアビー!」
「カァ、カアカアッ!」
「はっ、オレは『逸脱賢者』だからな! 空間魔法を使えばこんなもんよ!」
「空間魔法! すごいなあ、俺も勉強すれば使えるようになるんだろうか」
「よし、コータとカークにはオレが教えてやろう! いまのはな、この辺りの瘴気を利用して自前の魔力を節約するって高度な小技も駆使しててだな」
鼻高々なアビーがぐっと胸をそらす。羽織ったローブごと盛り上がる。
コウタが気づいてなんとか視線をそらす。
後ろ向きにじわじわ遠ざかる黒い鹿と目が合った。
「あ、ごめんね鹿さん。大丈夫?」
ビクッと固まって、ソロソロと頭を下げる。
そのままバックしていく。
アッシはこの辺で失礼しやす、とばかりに上目遣いで。
「そうそう、忘れるところだった。ツノがすごく役に立ってて、これ、追加のお礼と……その、今日のお詫びに」
コウタがひょいっと果実を投げる。
黒い鹿がなんなく口でキャッチする。
片角の黒い鹿は、果実をくわえて去っていった。前回同様、その場では食べないらしい。
「おおー、ツノの欠片、ナイフにちょうどよさそう。お礼、足りなかったかな」
「カアー」
アビーが切り落としたツノの先端を拾うコウタ。
30センチほどの長さでまっすぐな刃物は、枝分かれしたツノそのものよりも使い勝手がいいだろう。
カークも満足げだ。
「まあいいんじゃねえか? 効能がないって言っても貴重なアンブロシアなんだ、絶望の鹿のツノの欠片でも、釣り合わねえってことはねえよ」
「え? さっきのは、精霊樹に『あの鹿にお礼がしたいんです』って言ったら落としてくれた果実だけど……」
「カァ?」
「ああああああ! そんなの食べさせたら! 絶望の鹿が強化されるじゃねえか! 絶望の先ってなんだ!?」
アビーが叫ぶ。
コウタがビクッと飛び退る。カークもぴょこっとバックする。
「オレ、常識から外れてるから『逸脱賢者』って言われるようになったんだけどなあ。昨日からオレは常識人になった気がする。ははっ」
アビーの力ない声は、絶黒の森に溶けていった。
コウタとカークが異世界生活をはじめて一週間と一日、アビーを迎えた二日目。
けっきょく、この日の探索に新たな発見はなかった。
黒い鹿の名前が判明したしナイフ状の刃物を手に入れたし、二人と一羽が仲良くなったことは別として。
精霊樹と湖のほとりに村を作る。
コウタとカークとアビーの道のりは、まだはじまったばかりだ。