プロローグ1
古びたアパートの一室で、一人の男がもぞもぞ動き出す。
アラームはない。
男が決まった時間に起きて出勤する暮らしをしなくなって、もう2年ほど経つ。
ベッドの中で伸びをして上体を起こす。
枕元のスマホを見て時間を確かめる。
「んんー、もう朝……いや、昼か」
手のひらで目をこすって、男はベッドから下りた。
キッチンで顔を洗う。
都内の安いワンルームに、独立洗面台という洒落たモノはない。
「今日こそ散歩に……やっぱやめとこう」
ポツリと呟いて外出を断念する。
西山康太、28歳。
覇気のない顔つきで中肉中背の、ありふれた男である。
2年ほど前に仕事を辞めてから、康太はほとんどの時間をワンルームで過ごしている。
一定期間の失業給付金と、貯めてきた貯金を食いつぶす日々だ。
それでも生きてこられたのは家賃が安いおかげでもある。
そんな暮らしでも、辞めた当初は不安を感じなかった。
いや、不安を感じられる状況ではなかった。
なにしろ、ある日とつぜん動けなくなったので。
身体的に問題があったわけではない。
単に動けなくなったのだ。
鬱である。
人付き合いが苦手な康太は、ハードな営業職をこなすうち、知らずストレスを溜めていたらしい。マンション営業は過酷なのだ。
飛び込んだ先でも職場でも、康太は真面目に受け取りすぎてしまったのだろう。
買い手のニーズやお財布事情を真面目に考える康太はたいした数字を残せなかった。顧客からの評判はよかったし、数少ない顧客にもたらした結果も喜ばれていたが。
康太にとって不幸なことに、会社は綺麗な営業だけでは「結果」が出ないタイプだった。限りなくブラックに近いダークグレー企業である。
康太はキッチンのシンクの前に立ち、ヒゲを剃ってからわしゃわしゃ歯を磨く。
こうして陽のあるうちに起きて、ヒゲを剃って顔を洗って歯を磨いて、いちおう外に出られる服に着替えるようになったのはここ1年のことだ。
辞めた直後は漫然と日々を過ごしていた。
薄暗い部屋で、動く気力もなく、通販で届いた保存食を食べて、ただ生きていくだけの。
「さて、今日もいるかな」
二つの小皿にシリアルを入れて、康太はベッド横の窓を開ける。
庭に出る。
康太が暮らす一階のワンルームには小さな庭がついていた。
ガーデニング用ではない。
洗濯機を置く場所であり、洗濯物を干すスペースだ。
ちなみに2mほどの高さのブロック塀で敷地の外は見えない。
洗濯機の横にある丸イスに腰掛ける康太。
牛乳をかけた方のシリアルは自身で食べる用だ。
もう一つの小皿は、フタを閉めた洗濯機の上に置いた。
「おー、今日も来た。カークはほんと頭いいなあ」
すぐに、小さな黒い影が飛んでくる。
まるで、エサを持って出てくる康太を待っていたかのように。
カラスである。
ここ最近で、唯一康太が話す相手である。
康太はカラスにエサをあげるのを日課にしていた。近所迷惑なことに。良い子は真似しちゃいけない。
「カアー」
「おはようカーク。昼だからこんにちは、かな?」
目を合わせてひと鳴きすると、カラスはシリアルをぽりぽりついばみだした。
康太の言葉を無視した、のではない。
しつこく鳴き続けて近所からクレームが入ったら、二度とエサにありつけなくなるだろう。待機場所は人目を避けて、エサをもらう時もこっそりと。できるカラスである。賢い。
「カークにエサをあげはじめてちょうど1年か。ありがとな。独りじゃない気がして、少しまともになってきたと思う」
カラス——カークをちらちら横目で見ながら語り出す康太。
奇妙な関係が1年続いても、康太がカークに手を伸ばすことはない。
たがいの距離感を大切にしているのか、あるいは拒否されてまた独りに戻ることが怖いのか。
康太が、カークに触れることはなかった。
今日、この時までは。
「おわっ!? なんだ!?」
ブロック塀の向こうから、ガシャッ!と大きな音が聞こえてくる。
音は大小を交えながら連続して聞こえた。
なんだ、と言いながらも、康太は気づいた。
交通事故だ。
アパート横の細い道路は渋滞回避の抜け道で交通量も多く、ときどきこうして事故が起こっていた。
都内で、庭付きなのに家賃が安い理由の一つだ。
そして——
「うわっ!」
——家賃が安い、最大の理由。
不動産屋から説明を受けた康太が「そんなの万に一つだろ」と、無視して入居を決めたリスク。
それは、事故の多い道なのにアパートは古びたブロック塀だけで、庭や1階の部屋に車が飛び込んでくるかもしれない、ことである。
普通に考えたらそんなことを説明されても無視するだろう。丁字路のどん詰まりなら避けるかもしれないけれども。
実際、アパートが建ってから40年間、そのような事故で死者が出ることはなかった。ブロック塀が壊れたことはあったそうだが。
「カアーッ!」
「危ないカーク!!!」
ブロック塀が崩れるのを見て、康太がカークに飛びついた。
外に背を向けてカークをかばう。
初めて触れたカラスの毛は滑らかだ。
康太の悲鳴もカークの雄叫びも衝突音が呑み込む。
一人と一羽は、アパートが建って以来40年で初めての交通事故被害者となり——
——初めての事故死者となった。