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スラー  作者: 泣村健汰
3/3


 琴と初めて出会った日の事を思い出す。あの夜は、向こうのコンディションが一目で最悪だと判った。

「あー、えっとー、イラストラーターやってます、小早川琴です。正直、徹夜の仕事明けで、くっそ眠いんれ、途中私が寝ちゃったとしれも、許しれください」

 イラストラーターと言う謎の職業を名乗った彼女は、呂律の回らない口調のままとりあえず手元に届いたビールを一息で半分程呷った後、開始10分でスヤスヤと寝息を立て始めた。

 参加者が驚く中、幹事の篠森が慌ててフォローを入れる。

「皆ごめんね。彼女、私が担当してる先生なんだけど、ちょっとここ最近無茶なスケジュールになっちゃってね。それで、昨日の昼からついさっきまでぶっ続けで仕事しててさ。打ち上げがてらに来て貰ったんだけど、やっぱ無理だったみたいね」

 頭数を揃える為に必死だった篠森に拝み倒され、無茶なスケジュールも省みずに律儀に約束を守ったのだと聞いたのは、婚約した後の事だ。それにしても、いくら疲れて居たとはいえ、初対面の面子が多い中、あそこまで熟睡出来るものかと、その豪胆ぶりに感嘆した。

 一次会ではそのまま目覚める事は無かった彼女は、そのまま帰るのかと思いきや、どうやら二次会にも参加するつもりらしかった。

「先生、本当に大丈夫? 全然寝てなかったのに、無理してない?」

 居酒屋の出口で、彼女達の会話が漏れ聞こえてくる。

「大丈夫だったら、そもそもあんたが誘ったんでしょ?」

「だって、こんなにスケジュール拗れるって思わなかったし」

「たっぷり寝させて貰ったからもうバッチリよ。それに、打ち上げがてらなんでしょ? このまま帰ったら何の為に来たか分かんないじゃない、今日の払いはそっち持ちなんでしょ? じゃあもうちょっと飲み食いさせなさいよ」

「先生のそう言う所、好きなのよね~」

「そう言う所って、どう言う所よ」

「頑丈な所と現金な所」

「おお、気が合うね、私も私のそう言う所大好き」

 篠森と随分仲が良いんだなと眺めながら、ふと、男の目を気にしがちな篠森が楽しそうに女性と話している姿を新鮮に感じ、彼女、小早川琴先生に興味を持った。

 都合のついたメンバーで流れ込んだ二次会は、あちらのお客様からバーボンが届きそうな雰囲気の、隠れ家的なバーで行われた。俺は改めて篠森に紹介して貰い、小早川先生に名刺を渡した。

「こいつ、私の同僚の君島君、仕事は出来るけど、面白味はそんなに無い男」

「そんな紹介の仕方があるか」

「こちら、私が担当してる、小早川琴先生。君島君も絵は良く知ってるでしょ?」

「ああ、良く知ってるよ」

「どうも、小早川です。すいません、ちゃんと挨拶もせずにいきなり寝ちゃって。大分限界だったみたいで」

「それじゃ、私ちょっと向こうに用があるから、後は二人でごゆっくり。先生、楽しんでね。君島君、先生に変な事するなら、ちゃんと許可取ってね」

 ギラリとした薄気味の悪い笑みを浮かべ、篠森は手を振りながらソファ席に座っているグループへと混ざって行った。

「今日のあの子の狙いは誰なんですかね?」

「ああ、あのソファの真ん中の、スーツの彼ですよ」

 篠森の本日のターゲットを、こっそりと指差す。

「あ、本当だ。隣陣取りましたね。今度は撃沈しないといいんですけど、その後が荒れるから」

「篠森との付き合いは長いんですか?」

「そうですね。私、あの子以外に担当着いて貰った事無いんで」

「一度もですか? うちでイラスト描かれて、随分経ちますよね?」

「まぁ、私もあの子が良くて、あの子も私を離さないって言ってるので、まだ暫くはこのまんまだと思いますよ。それにしても、あの子もあのがっつき癖さえ無くせば、もうちょっとモテそうなもんだと思うんですけどねぇ」

「同感です」

「君島さんもそう思いますか? あ、ひょっとして狙われてる系ですか?」

「いや、俺は幸い、あいつのお眼鏡には引っかからなかったみたいで、仲の良い同僚させてもらってます」

「それはそれは、あの子には悪いけど、幸運ですよ」

「ええ、本当に」

 篠森には悪いと思いつつ、二人で彼女を見守る事で、共通の会話が生まれた。

 そして、彼女との会話を重ねる最中、不意に彼女の後ろに、彼女の生み出したイラストやキャラクターが垣間見える瞬間があった。その都度、まるで星を飲み込んだかの様に輝きを増していく彼女の姿が、俺には眩しく映った。

 素敵な人だ、もっと、この人の事を知りたいと、そう思った。

 多少の酒も入っていたし、雰囲気にも酔っていた。それは事実だろう、だが、様々な要因が折り重なる状況に置かれた事自体を、運命と位置付けるなら、俺は運命によって、琴に想いを寄せるように仕向けられたのだろう。

 ロマンチックな言い方を敢えてするなら、一目惚れだった。

「小早川先生、もしよければ、今度また、会えませんか?」

 カシスオレンジを啜る為に傾けていたグラスが止まり、ゆっくりと戻っていく。

「いいですよ、締め切りのやばくない日でしたら、いつでも。またみんなで集まりましょうか」

 彼女は、昨日通りかかった野良猫が可愛かった事を報告するような口調で、俺の人生で初めての口説き文句を、サラリと受け止め、ふんわりと流されてしまった。

 どうやら、しっかりと言葉にしなければ真意は伝わらなかったようで、後日の集まりで、改めて二人っきりでのデートのお誘いをさせて貰った。その時には、漸くと言うか今更ながらにと言うか、無事にしっかりと意図が伝わったようで安心した。

「あの、君島さん、もしかして、私の事口説いてます?」

 顔を赤くしながらそう笑う琴に、俺は照れ臭くも深く頷きを返した。

 そう、君は気づいていなかったかもしれないけれど、俺は初めて会った時から、君の事を口説いていたんだよ。


 インタビューは滞りなく進んでいった。

 こちらからの突っ込んだ質問にも笑顔で回答を頂き、雅さんから飛び出す琴との関係や作品に対する質問には、俺と篠森の二人で答える事が出来た。今日のサポートに篠森がついて来たのは、編集長の些細な気まぐれだったのだろうが、それでもファインプレーだったと言わざるを得ない。

 そして、言葉を重ねて改めて思う。砧雅と言う人間は、確かに天から才能を賜った人間だと。

 彼の内側には、彼独自の音楽が鳴り響いている。そしてその独自の音楽は、彼の技術は元より、その特異な人間性の懐から鳴り響くからこそ、感動を与えるまでの水準に達しているだろう事が、ピアノを弾かずとも伝わってくる。このインタビューに向けて、彼の出したCDはそれこそタコが耳に触手を這わせる程聞いた。そしてその耳に馴染んだ素晴らしい音楽達は、確かに今目の前にいるこの人から産まれたのだと、ピアノを鳴らしていないのに、言葉だけで、そう確信させてくれる。

 これを才能と言わずして、何と言うだろう。

 1時間に及んだインタビューの果てに、俺は使い古された紋切り型の質問を最後に持ってきた。

「じゃあ最後に、雅さんにとって、音楽とは、ピアノとは何ですか?」

「……そうねぇ、僕にとっての音楽かぁ、うーん、そうだねぇ、毎晩寝る前に読み聞かせて貰いたい絵本かな」

「絵本?」

「そうそう、小さい頃、お母さんとかに寝る前に読み聞かせて貰わなかった? あれあれ。一日の終わりにあれを聞くのが、僕は凄く楽しみだったんだけど、同時に、この絵本が終わったら今日が終わっちゃうって言う、悲しみの証でもあった。嬉しさも悲しさも与えてくれて、尚且つ寝る前の読み聞かせって、自分が愛されてると感じる最たるものじゃない? 僕にとっての音楽って、そう言うものかな。そんでピアノは、僕が読んで貰う絵本を手に入れる為に必要な手段、沢山の絵本が詰まった書庫の鍵って感じかな。分かるかな?」

「正直、何となくでしか分かりません。俺なりの解釈を付け加えるのも違う気がするので、これはこのまま載せて、インタビューはここで終わりって形でもいいですか?」

「任せるよ」

 結びに相応しい、彼らしい言葉を引き出せたような気がする。それと同時に、彼の言葉を理解出来ない俺は、やはり凡愚なのだろうと、些か自分にげんなりもした。

「じゃあ、僕からも最後の質問ね。達也君にとって、琴ちゃんって、どう言う存在?」

「俺にとっての、琴ですか? そうですね、言葉にすると恥ずかしい部分もありますが、とても有難い存在です。昔から、俺は琴の才能や魅力に必死に負けないように頑張って、支えられる様に歯を食いしばって、それでも自分の未熟さに歯噛みするばかりです。そんな俺といつも真正面から向き合ってくれる、本当に、有難い存在です」

「なるほどなるほど。つまり、あれだね。達也君はどこかで、才能と言う物に対しどこかコンプレックスを抱いている訳だね」

 俺の発言の何処をどう聞いてそう思ったのだろう。雅さんは事も無げにうんうんと頷いた。

「え? あの、俺そんな卑屈な態度出してました?」

「卑屈とかじゃないよ。そう言う事じゃない。ただね、達也君はもしかしたら、自分には才能が無くて、僕や琴ちゃんには才能があると、勘違いをしているんじゃないかと思ってね」

「どうして、そう思ったんですか?」

「うーん、僕は理論とか理屈で語るのはあまり得意じゃないんだけど、どうしてかって言われたら、君の言葉とか、インタビューの聞き方とか、琴ちゃんの本に書かれてる事とか、色んなニュアンスで、何となくそう思ったんだ。そして僕は、もしも君がそう思っているなら、そんな事は無い、君は素晴らしいんだよって言ってあげたいなって思ったんだ。だから、もし違ってたらごめんね。どうかな?」

 不純物の無い澄んだ瞳。冬の早朝を思わせるその瞳には、純粋さと、こちらを見通す鋭さがあり、思わず、これだから天才は、と、溜息が零れそうになった。

 見透かされた挙句取り繕うのも格好が悪いし、何よりここで誤魔化しても仕方が無いだろうと、白旗を揚げることにした。

「あー、そうですね、何かを生み出すことの出来る人に対してのコンプレックスは、正直ありますよ。特に俺の周りには、琴も含めて、本当に才能溢れる人が沢山いますから。そう言う人の話を聞いたりする度に、この人達は、自分とは違う次元を生きて、自分とは違う角度で世界を見られるんだろうなって、羨ましくなります」

 自分の凡人っぷりに早々に気づく事の出来た俺はまだ、そう言う才能溢れる人達に対して届かぬ手を伸ばし続ける事をしなくて済んだ分、傷は浅かったのかもしれない。ただそれは、単に諦めを腹の底まで飲み込んだ事に対する、耳障りの良い言い訳なのだろう。努力を怠った事を謗られれば、それに大しての反論は全く出来ない。だけど、そうしなければ生きていけないのだ。持たざる者がどれだけ叫んだとしても、それは才のある人間には届かないし、理解もされないだろう。

 だが俺は、そうで在るべきだと思うし、そうで無ければならないとさえ思っている。才能のある人間が、凡愚の言葉に一々かかずらうのは、時間と労力の浪費だろうとすら思っている。

 自分が向こう側に回れない事が分かったからこそ、俺は彼らの素晴らしさをより噛み締める事が出来たと感じている。だから叫ぶ、俺達の為に、もっとその才能を使って、素晴らしい世界を見せてくれと。素敵な贈り物を与えてくれと。あんた達は才能があるんだから、それ位いいじゃないか、そうじゃなきゃ、手が届かなかった俺達が、報われないだろう、と。

「次元が違うと言うのは、じゃあそうだな、僕は結局どこまで言っても音楽畑の人間だから、自分なりに音楽での解釈をさせて貰うね」

 そこで雅さんは、譜面台の上に置いてあった楽譜を一枚手に取り、裏返しにした。そこに、同じように譜面台の上に置いていたペンで、五線譜を書いていく。その五線譜に、四分音符を二つ、ミと、ソの位置に書いた。

「この二つは、当然音が全く違う。お互いに共鳴する事はあるかもしれないけれど、鳴らすのは独自の音だ。この二つは、次元の違う二つの音だと言ってもいい。ここまではどうだい?」

「ええ、分かります」

「じゃあ、ミはミで素晴らしい音を持っているのに、高い位置にいるソの事を羨ましいと思っていたとする。でもこれって、酷く悲しい事だとは思わないかい? だって、ミはミで、ソには見えない景色を見ることが出来るんだよ? ソを羨ましがる必要なんてどこにもない」

 雅さんが、俺の事を励まそうとしている事が伝わってくる。

 その時、ふと唐突にバイブレーションの音が部屋に響いた。

「すいません、ちょっと失礼します」

 篠森が恐縮しきりにそそくさと部屋を出て行った。

「雅さん、雅さんが俺の価値を高く買ってくれてるのは分かりました。でも俺は、その例えは違うと思います。だって俺は、ミでも、ソでも無いんですから。自分ながらの音を持っている人は、確かに他の人を羨ましがる必要なんて無いかもしれません。例えば、ミが琴だったり、ソが雅さんだったりすれば、それはそうでしょう。でも、俺はそんな音は持っていない。世界が五線譜だとしたら、俺が入る隙間は無いんです。俺は感動する側ですよ。ミやソが並んだ事で見せてくれる素晴らしい世界を楽しむ、一人の観客です。俺がステージに上がる事はありません」

「ふんふん、確かに人には、決められた役割がある。ステージに立つ事を望む望まないも人それぞれだ。そう言う意味では、今回の例えは間違っていたかもしれない。でもね、達也君。この例えの意義はそこじゃないんだよ」

「意義、ですか?」

「そう、才能云々はどうでもいいんだよ。僕の今の考えは、僕はどうやったら君に、君は素晴らしいんだって伝えられるか、それだけなんだ」

 その時、篠森が慌てた様子で再び部屋に入ってきた。

「君島君! 今、ちょっと携帯見て!」

「何だよ、今仕事中……」

「いいから! 今会社から連絡あって、琴先生が、産気づいて病院に運ばれたって」

 心臓がドキリとする。瞬間、苦しむ琴の顔が脳裏を過ぎった気がした。

「雅さん、すいません、少しいいですか?」

「勿論、早く早く」

 許可を取り、携帯の電源を入れる。何かあった時は篠森に連絡が入るだろうと、インタビューに集中する為に、俺は携帯の電源を落としていた。携帯に電源が入る様子が、酷く緩慢に映る。俺も、気が急いているんだろう。

 画面に映った着信履歴は4件、最初の一件は琴の携帯、後の三つは、お義母さんからだった。急ぎ掛け直すと、2コールでお義母さんが出た。

「もしもし」

『もしもし、達也さん?』

「はい」

『ああ、あのね、今琴と一緒に病院に来てね。いよいよなんだけど、こっちに来られたりしないわよね?』

「すいません、今まだ仕事中で」

『ああ、そうよね』

「終わり次第すぐに向かいます、あの琴の様子は?」

『とりあえず、大丈夫……』

 聞こえていたお義母さんの声が、突然千切れるように聞こえなくなった。

「奏さん、どうもお久しぶりです。雅です。ええ、そうです、あの砧雅です」

 何事かと思い声の方を見ると、雅さんが俺の携帯を奪い取っていた。

「ちょっと、雅さん!」

 そこで雅さんが俺の顔の前に掌を広げた。叫びそうになった声が、思わず押し止まる。

「ええ、大丈夫です。病院名を教えて頂けますか、僕がすぐに、達也君をそちらへお連れします。ええ、はい、分かりました。では」

 通話を切った雅さんが、俺に携帯を返す。

「じゃあ行こうか。すぐにタクシーを呼ぼう」

「雅さん、タクシーなら既に呼んであります」

「お、流石S嬢、仕事が出来るね!」

「ええ、私、仕事出来るんです。雅さん、仕事が出来る女って、どうですか?」

「格好良くて素敵だと思うよ」

「ありがとうございます!」

 頭が追いつかない俺の背中を、篠森が強めに叩く。

「ほら! 君島君、しっかりしなさい! あんた、もうすぐパパになるのよ!」

 今度は雅さんが、俺の肩を抱く。

「大丈夫、君は僕がバッチリ琴ちゃんの元まで連れて行くからね。ドーンと構えていてくれたらいい」

 呼び鈴が鳴った。迎えのタクシーが来たのだろう。テキパキと動く二人を視界に捉えてはいるが、俺の心は、まるで月でも歩いているかのように、フワフワと浮き足立ったままだった。


 タクシーの後部座席に座り、俺はまんじりとしていた。

 隣には雅さんが、助手席には篠森が座っていて、俺は昂ぶる心臓を押さえながら、何処を見るでも無く、窓の外の景色に目を移していた。世間はもう、すっかり秋の気配だ。

「そうだ達也君」

 得意気な顔で、雅さんは不意に俺の方を向いた。

「慰めになるかは分からないけど、今の君に語りかけたい言葉が見つかったよ」

 雅さんは俺の隣で、先ほど五線譜と、ミとソを書き込んだ紙を広げた。わざわざ、家から持ってきたのだろう。

「君はつまり、自分が鳴らす音が無い事を、才能が無い事だと勘違いしているんじゃないかと思うから、僕なりの解釈をさせてもらうね」

 雅さんは手にしていたペンで、ミとソの下に、その二音をつなぐ様に、シュッと一本、半月の様な線を引いた。

「何ですか?」

「これはね、スラーだよ」

「スラー? 音楽記号ですか?」

「そう。このミとソは、このままだと単独の音だ。繋がりなんか何にも無い。でもこのスラーと言う記号があると、このミとソは、まるで昔からの知り合いだったかのように、仲良く響き出すんだ。僕は、このスラーが、君だと思う」

 手書きの五線譜が、手渡される。

「今回の僕達の事だけじゃない。君はきっと、色んな所で、沢山の人達が繋がる事を手伝ってきたんじゃないか? それを威張ることも、鼻にかける事も無く、ただ謙虚に、誠実に、君が才能があると思う人達をの才能を、沢山の人に届けて来たんじゃないか? 沢山の人達と繋いでくれたんじゃないのか? こんな事、努力だけで出来る事じゃ無いと思う。君の人徳と、人柄と、優しさや温もりや慈しみがあったからこそ、君は沢山の人に受け入れて来られたんじゃないのか? あえて君の言葉を借りるなら、これを才能と呼ばずして、何て呼ぶだろう、って話だよ」

 雅さんの言葉の後ろに、版画家の中村さんの顔が浮かんだ。

 君は君らしくあればいいんだ、そう笑う中村さんの後ろに、それが君の才能なんだから、と言葉が付け加えられた気がする。これは、俺の妄想なのかもしれないけれど、心が引き締まる思いがした。

「君島君、もうすぐ着くから、準備しといてね!」

 助手席で叫ぶ篠森の言葉で、背筋に再び力が入る。

 病院の入り口でタクシーを止め、急いで飛び出す。

「私が払っとくから、あんたは早く行きな!」

「すまん、頼んだ!」

「今度奢れよ!」

 篠森のありがたい恐喝を耳に流し、受付で君島琴の病室を聞く。

「旦那様ですか?」

「はい、そうです」

 受付の看護士さんに案内され分娩室へと向かうと、部屋に入る直前に、室内から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。消毒などを手早く済ませ、急いで中へと入る。

「琴!」

 叫びながらドアを開けると、疲れきった顔をした琴が、顔の真っ赤な赤ん坊を抱いていた。

「……達也、ジャストターイミーン」

 疲弊しきった様子の琴と、抱かれた赤ん坊を見て、涙腺の決壊を抑え切れなかった。

「へへへ、良く来れたね、仕事中だったんでしょ?」

「ああ、でも、雅さんが、行こうって、言ってくれて。すまん、遅れた……」

「間に合ったじゃん。ほら、抱いてやってよ」

 琴から、産まれたばかりの赤子を受取る。くしゃくしゃの顔に、真っ赤な体、必死に生きようとするその姿に、更に涙が押し出される。

「あぁ、俺の子か、可愛いな、可愛いな……」

 鼻を啜りながら、我が子の顔をまじまじと見る。とても美人な女の子だ。これは将来、モテて仕方が無いだろうと、一瞬でそんな事を考えてしまった自分は、親バカまっしぐらだろう。

 処置が残っているからと言われ、子供を看護師さんに預け、俺は一度病室の外へと出た。廊下に出ると、ベンチに座っていた雅さんが、すっくと立ち上がり、俺の事を強く抱きしめてくれた。

「おめでとう」

「ありがとう、ございます」

「父親になった心境はどうだい?」

「まだ良く分かりません。でも、これからどんな事があっても、あの子を守ろうと、思いました」

「それは結構。ねえ達也君、当然の事を言うけど、君と言うスラーが居なかったら、琴ちゃんとあの子は、どれだけいい音を鳴らしていたとしても出会ってない訳なんだ。僕には才能云々は上手く分からないけど、君は確かに、彼女達にとって、必要な存在だったんだよ。その事に関しては、誇りを持って欲しいな」

「……肝に銘じます」

「所で、あの子の名前はもう決まってるのかい?」

 涙を拭って鼻を啜り、俺は笑った。何だか、とても幸せだった。

「ええ、あの子は音楽を色濃く受け継ぐ血筋に産まれました。でも、琴はそんな中でも、絵の才能がある。この二つの架け橋となってくれるようにと言う想いを込めて、絵に、音と書いて、絵音と名付けようと思ってます。琴と二人で相談して、決めました」

「絵音ちゃんか、いい名前だね。何だか、インスピレーションが沸きそうだよ。いつかこの子の為に、曲を書かせて貰える事になったらいいな」

 雅さんが穏やかに笑っている所に、駆け足で篠森がやって来た。無事に産まれたニュースを聞くと、どさくさに紛れて雅さんに抱きついていた。ちゃっかりしている。

 余談だが、それから数年後、絵音が大きくなるまでを描いたコミックエッセイ、『泣かないで、エネちゃん』がアニメ化された時、主題歌は雅さんの立ち上げたレーベル、MIYABIの新人アーティストが担当する事になった。これもまた、俺と言うスラーが、その繋がりの一端を担っているのかもしれないと思うと、感慨深かった。

 自分の音を鳴らせなければ才能が無いと思っていた俺は、自分の勘違いを深く戒めた。雅さんにとっては、あの時出た『スラー』と言う単語は、単なる思い付きの一つかも知れない。だけど俺にとって、このスラーと言う音楽記号は、大事な人生の指標になった。人と人との間に楔を打てる才能、そう言って貰えた気がした。

 俺自身に誇れる物がある訳では無い。だけれども、俺が繋いだ人達が笑い会っている時、俺はとてつも無く誇らしい気分になる。

 琴が絵音を抱きしめ、二人で笑い合っている時、俺はスラーとしての立場で生まれた自分に、心からの感謝をする事が出来た。

 


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