上
『スラー』
大衆居酒屋には、毎日とは言えないまでも割と頻繁に足を運ぶ。だがそんな俺でも、女が最初の一杯目の中ジョッキを、一息で飲みきる場面に出くわすのは初めてだった。
褒められたものではない偉業を成し遂げた篠森は、ジョッキをテーブルに叩きつけるように置き、ズリ落ちた眼鏡をくいと持ち上げ、大きくため息を吐いた。
「あー、意味分かんない……」
ぼやき声がまるでおっさんである。
「ぼやいたって仕方ないだろ? それから、流石に一気飲みはやめろよ」
「君島君はいいわよ。私なんてただのとばっちりなんだから。あー、意味分かんない……、私じゃなくても全然いいじゃん」
「とは言っても、俺が編集長の立場だったら、分からなくもないかな。ちょっとでも縁があるってのは、やっぱり大きなファクターだと思うぞ」
「へーへー、そうですか。これだから仕事に熱心なイエスマンは嫌なのよ。上司の言う事は絶対ですか、そうですか、消えてなくなれ」
「大体何がそんなに嫌なんだよ。お前、音楽嫌いなのか?」
「いい? 好きとか嫌いとかじゃない訳? あのハゲが言ってる事が意味が分からんって言ってる訳よ!」
篠森が荒れている理由を思い返してみる。確かに多少は腹が立つかもしれんが、仕事なんだし、ここまで呪詛を撒き散らす程だとは思えない。まぁ、俺と篠森の思考回路の違いを鑑みれば、この状況自体は十分予測出来たものではあるけれど。
俺と篠森は、職場の同僚だ。仕事は、出版社の編集者。と言えば聞こえはいいが、大手どころか中堅にもなりきれない、弱小出版社の編集者の内実なんて、基本なんでも屋である。取材もすれば記事も書く、本屋へ営業に回る事もあれば、大手出版社のお偉いさんや作家さんを接待したりもする。
当然社員の数も少ないので、一人一人の負担も多くなる。その癖給料も安く、締切前は激務を極めるので、人の入れ替わりもそこそこ激しい。
だけど、俺はそんな今の職場が嫌いでは無かった。雑誌編集の仕事はやり甲斐があったし、自分の手がけた本を書店で見かけるのは、実に気分が良かった。
それに今は、頑張らなければいけない理由もある。
「あー、あのハゲ! いくら私が小早川先生の担当だからって、そんなん毛穴程も関係無いでしょ!」
枝豆を片手に文句を言いながら、流れるような手つきでテーブルのボタンを押した。遠くで、ピンポーンと言う音が流れてくる。
「なぁ篠森、とりあえず、編集長の事ハゲハゲ言うのはやめろよ。別にハゲてないだろあの人」
「何言ってんのよ! 私知ってんだから、あのハゲねぇ、この間から生え際相当来てるんだから」
「いや、だから、気にしてんだろうから、言ってやるなって……」
「べっつにいいじゃない。君島君の事言ってる訳じゃ無いんだから」
ケラケラと笑う篠森の元へ、先程のボタンで呼び出された男性店員が注文を取りに来た。
「えっとねぇ、芋焼酎のお湯割りとぉ、このぉ、だし巻き卵もらえますかぁ?」
若くて顔立ちの整った店員さんは、イケメンを見ると甘ったれた声を出す病の女にも、素敵な愛想笑いを返している。実に立派だ。
「君島君はどうするぅ?」
――俺にまで向けるな、気持ち悪い。
「いや、俺はまだビールが残ってるから」
店員さんは俺に会釈を返すと、素早い動きで通路へと戻っていった。
「はぁ、イケメンのお陰でちょっと落ち着いた」
「お前は魔女か」
「それよりかさ、先生の容態はどうなの?」
「容態って言うなよ、別に病気じゃないんだから」
「じゃあ、なんて言ったらいいのよ?」
「あ~、なんだろうな? 様子?」
「じゃあ、先生の様子は?」
「昨日電話で話した限りは、いつも通りだった。寧ろ、家事しなくていいから仕事が捗るって」
「私ねぇ、先生のそう言う所大好き。締切きっちり守ってくれるのって、私が担当してる中だったら小早川先生だけだもん」
「だからってなぁ」
「分かってるわよ。無茶はさせない。原稿も大事だけど、子供の方がもっと大事。私だって女なんだもん、その位分かってるわよ」
篠森が担当しているイラストレーター、小早川琴は、何を隠そう俺の妻だ。当然本名は君島琴なのだが、イラストレーターとしてのペンネームは、俺と篠森と琴で話し合い、旧姓のままで行く事にした。
そして、目の前の篠森がなんと、俺達の出会いのきっかけとなった張本人なのだ。篠森が幹事を務めた合コンに、彼女が狙っている男が参加してくれる事が決定した。だが、人数が集まらなくてあわやお流れとなりそうだった時に、同僚の俺と、当時も担当をしていた琴を無理やり引っ張ってきたのだ。その席で、俺と琴は出会った。
そしてそして、彼女は現在身重であり、予定日は今日からピッタリ一週間後だ。その為今は、病院も近いしお義母さんも世話をしてくれると言う理由で、実家に里帰りをしている。
蛇足だが、篠森が狙っていた男は、その席に参加していた他の女子と見事にくっつき、そのままゴールインしたと言うのを風の噂で聞いた。篠森と言う名の暴風から……。
「お待たせしました。芋焼酎のお湯割りと、だし巻き卵です」
「あ、そこ適当に置いてって」
持ってきたのが女性店員だったからか、先程とは打って変わって、篠森は素っ気ない反応を見せる。申し訳ない限りだ。
「はぁ、あんたらはいいわよね~、ったくも~、な~んで私には、素敵な出会いが無ぇんだろ。女子力が足りなかったりするのかしらねぇ?」
店員が居なくなったのを見計らい、篠森は焼酎を啜りながら再びぼやき始めた。
「あ~あ~、女子力って何かしらねぇ~。私もそこそこ、女子力あると思うんだけど、男を見る目が無いのか、男に見る目が無いのか……」
だし巻き卵には箸をつけず、備え付けの大根おろしに醤油を垂らし、それだけでちびちび飲み始める女を見て俺は思った。
女子力が何かと厳密には言えないが、少なくとも俺にでも分かる事がある。女子力とは、一杯目の中ジョッキを一気呵成に呷る事でも無ければ、二杯目でいきなり芋焼酎のお湯割りを、大根おろしでちびちびやる事でも無いだろう。
「くそぉ、幸せになりてぇ……」
――そのぼやき、重すぎだろ……。
篠森の不機嫌の理由を説明する為、話は3時間程前に遡る。
「君島~! ちょっと~!」
「はい」
書店回りを終えて帰社した俺は、早々に編集長に呼ばれた。行くと、刷り上がったばかりの企画書の束を渡される。表紙には、ピアニスト、砧雅インタビューと書いてあった。
「ピアニストにインタビュー、ですか?」
「ああ、再来月号の頭から、月一で音楽家へのインタビューの企画が上がってな。お前、今月であっちの方終わりだろ? 任せたから」
あっちの方とは、俺が来月号、つまり今月で最終回を迎えた、画家へのインタビューコーナーの事だ。一部のコアなファンには受け入れられたようだが、一般的にはやはり画家の特集と言うのは地味だったようで、そこまでの支持を得ることは出来ず、今回で終了の運びとなったのだ。
「編集長、なんでまた俺なんですか?」
「お前のインタビュー、画家さん達には随分好評だったんだよ。企画自体が地味だったから、まぁ伸びなかったのは仕方ねぇけど、お前の事気に言ってくれた画家さんは随分いてな。こないだ、お前が初回で特集した画家さんの個展があった時、うちの雑誌だけ開催前に入れてくれてよ。君島君によろしくって言われたって。って訳で、次もお前が適任だなって判断した」
初回って事は、版画家の中村さんだ。どんなインタビューをしていいかまるで分からず行った俺を、インタビュー後飲みに連れてってくれた。俺はその日、中村さんに上手く話が聞けなかった事で自己嫌悪に陥っていた。そんな俺に、日本酒を飲みながら、君は君らしくあればいいんだと言って、快活に笑ってくれた。インタビュー記事が載った号が発売された後に、丁寧な手紙が編集部に届き、是非君島君にと、君島の名が掘られた手製の判子が同封されていた。お礼の電話をさせて貰った時も、君は君であるだけでいいんだと、あの日と同じように言われた。今回の個展も、行けなかった事が大変悔やまれた。たまたま、最終回のインタビューの日と被ってしまったのだ。後でまた一本、お礼とお詫びの電話をしておこう。
「今回も、お前らしく、いい感じにインタビューして来い」
編集長は、俺が中村さんに言われた言葉を妙に気に入ったらしく、俺にいつも、お前らしくお前らしくなんて、したり顔で言う。
「それにしても、俺一人ですか?」
「もう一人くらいつけようと思ってる。まぁこう言うのは縁だしなぁ」
「縁?」
「お前、砧さんのプロフィールちょっと見てみろ」
編集長に言われるがまま、企画書を一枚捲る。そこには、その砧雅さんとやらのプロフィールが並んでいた。順に追って行った時、見覚えのある名前を見つけて、思わず目が止まった。
「16歳で、小早川弦へ弟子入り?」
「あれだろ。それって確か、琴ちゃんの親父さんだったよな?」
「はい、そうです」
編集長は俺よりも、琴との付き合いが長い為、琴の事を名前とちゃんづけで呼ぶ。この気軽さを、好ましく思わない人もいないでは無いらしいが、俺はさして気にしてはいない。基本編集長は、名前にしろ苗字にしろ、作家は大体ちゃんづけだからだ。
「編集長、弟子入りの事、知らなかったんですか?」
「まぁ俺も最近忙しくてな」
「それで、縁と言うのは?」
そこで、編集部の入口の方からダルそうな声が聞こえて来る。
「おどりあーした……」
見ると、眼鏡が半分ズリ落ち、口をきちんと閉じるのすら面倒なのであろう篠森がいた。
「おー、丁度良かった。お~い、篠森~!」
編集長が篠森の元へ声を掛ける。狭い編集部は、そんなに大きな声を出さなくても十分に端まで声が通るが、編集長は人を呼びつける時、不必要なまでにでかい声を出す。本人曰く、聞こえなかったふりを撲滅する為らしい。編集部全員に聞こえる声で呼びかければ、本人が聞こえないふりをしても、周りからのフォローが効く。まぁ、一社会人として、聞こえないふりをするのはどうかと思うが、編集長が以前いた職場では、その場に居たと言うだけで新たに仕事を振られる事があり、その際に、聞こえないふりをしてサッといなくなるのが有効だったと言う。どんな職場だ。
自分のデスクに荷物を置いた篠森は、しかめっ面を隠そうともせずに、こちらへ幽鬼のように近づいて来る。
「……なんすか?」
「木下ちゃんの原稿、上がったんだろ?」
「ギリッギリでしたけどね。マジで、あの人マジで、うちで使うのやめません? そんなに人気な訳でも無いのに、いっつもギリッギリで、マジで、やってらんないんすけど……」
激しい疲労とは、時に人を素直にさせるものだ。その時溢れてくる本音は、殆どが負の物かもしれないが……。
「まぁ、間に合ったならいいんだ」
「んで、なんすか?」
編集長は、自らが持っていた企画書を、篠森へと手渡した。
「これお前ら二人で頼むわ。細かい事は君島に聞いてくれ」
「……はぁ?」
隣から、どす黒い殺意に火がつく音が聞こえる。
「そんじゃ、俺は印刷所回ってくるわ。直帰になると思うから、君島、後頼んだ」
「はい……」
編集長が去っていく姿を、ちらりと眺めた後、俺はゆっくり、隣の殺意に視線を移した。すると、殺意は俺の顔を食い入るように見つめていた為、思わず目を逸らしてしまう。
「はぁぁぁぁぁっっっっ……」
気を落ち着ける為なのか、殺意を吐き出す為なのか、長い長いため息が聞こえて来た。
「君島君……」
「なんだ?」
「飲み行くよ?」
「俺、まだ仕事……」
「飲み行くよ?」
「……分かった」
早く清めの酒を与えなければ、同僚が、化物になってしまう……。
夜10時。帰宅した俺は、時計を睨みつけた後、妻に一本メールを打った。
『帰ってきた。まだ起きてるか?』
すると、すぐさま折り返し電話が掛かって来た。ネクタイを外しながら、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『達也、お疲れ様』
「おう。起きてたのか?」
『普通に仕事してたわ』
「あんまり無茶すんなよ」
『こんなん、無茶の内に入んないわよ』
電話越しにケラケラと笑う琴の声を聞き、心がふと軽くなるのを感じた。
「つわりとかはどうだ? 体調は?」
『心配症ね~』
「そりゃ、心配にもなるだろ」
『大丈夫よ。私もこの子も、そんなヤワじゃないから、達也は安心して、バリバリ仕事してればいいのよ』
「お前だって、もうすぐ予定日なのにバリバリやってんだろ? 少し大人しくしてた方がいいんじゃないのか?」
『暇で暇でしょうがないんだもん。無理はしないから、大丈夫だったら。ね~』
今、琴はお義母さんに声を掛けたのだろうか。それとも、お腹の子に声を掛けたのだろうか。
「ところで、砧雅さんって知ってるか?」
『きぬたみやび? あれ、どっかで聞いた事あるわ……』
「昔な、お義父さんに弟子入りしてたらしいんだよ」
『ああ、ああ、思い出したわ。雅兄ちゃんね』
「兄ちゃん?」
『そうそう。私と洋が、小学生くらいの時かな? 父さんのとこに出入りしてたの。当時、高校生くらいだったかしらね? どうしたの? 雅兄ちゃんの事なんて』
「今度な、篠森と一緒に、その雅さんにインタビューする事になってな」
『インタビュー?』
「ああ、次にやる、音楽家のコーナー任される事になってな」
『へぇ~、画家の次は音楽家ねぇ』
「なんだよ?」
『なんでもないわよ。やっぱり、達也はそう言うのに向いてるんだなって思ったの。達也相手だと、なんか、色々話しやすいって言うか、思わず色々喋っちゃうような、そんな雰囲気があるのよね~』
「買いかぶり過ぎだよ。まぁ、確かに前回の評判が良かったから、今回もらしいんだけどな」
『ほらぁ』
「ん~、まぁ、頑張ってくるさ」
『達也は真面目だからねぇ。気楽にやりゃいいのよ。そしたらなんとかなるから』
「ん、ありがとう」
『そんじゃ、明日検診だから、そろそろ寝るわ』
「おう、悪いな、遅くに」
『ん~ん、そんじゃ、おやすみ』
電話を切った後、スーツのままベッドに倒れ込んだ。ふと横を向くと、琴と二人で撮った写真が目に入った。
琴と結婚をして2年。一緒に暮らして、改めて思う事があった。
彼女には、才能がある。
琴本人もとても魅力のある女性だが、それに加え、彼女の描くイラストは、強く人を惹きつける魅力があった。
今彼女が抱えている仕事は、去年から連載を続けている、『今日も明日も笑いたい』と言うコミックエッセイだ。恥ずかしい事だが、俺と琴の出会いや結婚についてを赤裸々に描いている。篠森と琴がノリノリで立ち上げたこの企画は、徐々に読者からの支持を集めていると言う。書店回りをしても、営業に言っても、君島達也の名を口にすると、「あのタツヤ君ですか」と喜ばれる事が多くなった。もうすぐ発売される一巻は、弱小のうちとしてはかなり頑張ってる部数が、初版として刷られる事が決定している。だが、周りの反応を鑑みるに、すぐに増刷がかかる事は間違い無いだろう。ストーリーは、体験をした俺が言うのもなんだが、ありふれたものだと思う。やはり人気の理由は、琴によるイラストの力が大きいのだろう。
彼女の才能と努力の素晴らしさを誇らしく思うのと同時に、自分の凡人ぶりが少しだけ嫌になる。そんな劣等感の先にあるのは、父親になる事への、漠然とした不安だった。
――俺が、父親か……。
冷蔵庫から烏龍茶を取り出し飲み込む。酒を含んだ身体に、冷たいお茶が心地いい。
父親は、生まれてからが父親だとはよく言ったものだ。既に母親の顔をする琴の顔を見る度に、自分の不甲斐なさに焦れてしまう。不必要な焦燥なのだろうが、だからと言って簡単に払拭出来るものでも無い。
――気楽にやりゃあいい、か……。
琴の言葉を反芻しながら、再び烏龍茶を流し込んだ所で、琴から一通メールが来た。
『気楽に気楽に。おやすみなさい』
こっちの気持ちを見透かしたようなメールに、ふと口角が上がる。おやすみと返し、俺も眠りに就く事にした。