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幕間1 アーの族、エルネの里のミリーナ・ヴァン

 カイがエルネで串焼きを振舞った日の夕刻、ミリーナは家族が住まう天幕の中に仕切られた一角で湯船につかっていた。

 パシャン……ミリーナの動きでぬるま湯が跳ねる。

 水を日光で温め、ぬるま湯に入る。

 これがエルフの入浴だ。

 朝汲んだ水を色の濃い木で作った樽に入れ日光に晒して半日。夕暮れ時に温まったそれで体を清め、念入りに髪を洗う。

 火の使えないエルフの生活の知恵である。

 無の息吹により過度の熱は消し去られてしまうがぬるま湯程度なら問題ない。

 日の光がよく当たる樹木の頂に樽を括りつけて守るのは世界樹の守りを得たエルフの子供達の日課の一つだ。

 里を飛び出すまではミリーナもこの日課をこなし、家族にぬるま湯を提供していた。

 家族持ち回りで使うぬるま湯は週に一度のちょっとした贅沢……ミリーナは順番を譲ってくれた家族の想いに感謝すると共に何ともすまない気持ちになった。

 今はもう、ぬるま湯は贅沢ではないのだ。

 カイはあったかご飯の他にも色々と提供してくれる。火を使う事で出来る事をカイは色々と教えてくれた。

 火を使った風呂は一度だけ入れてもらった事がある。

 くぼみに水を溜め、鍋で沸かした湯と焼いた石をがんがん入れて温めた湯はぬるま湯よりも熱く、大竜バルナゥが吹いたブレス風呂のような爽快感にミリーナはほっこりであった。

 狩り場を飛ぶバルナゥが気まぐれで池にマナブレスを吹いた時だけ体験できるエルネの超贅沢をカイは半年に一度くらいならやっても良いと言ってくれる。迷惑だ駄犬だと呟きながらも色々世話を焼いてくれるのがミリーナにはとても嬉しかった。

 今は何と言っても煮タオルだ。

 夕食の後にちょっと席を外せば作ってくれるそれはブレス風呂のように熱くミリーナの肌にしみわたり、汗と汚れを拭いすっきりとした気分にしてくれる。

 湯気の溢れるタオルで顔を拭く贅沢は一度体験したら病み付きだ。

 初めて体験したミリーナがえうえう叫ぶのに気を良くしたのか、カイは毎日たくさん作ってミリーナにほいほいと渡してくれる。

 お前がいると温度調節が楽だと笑うカイは転んでもただでは起きない足掻く人だ。

 討伐対象のエルフであるミリーナをあったかご飯で餌付けて適切な距離を保ち、自らの計画した薬草人生を守ろうと足掻き続けている。

 長老の天幕で泊まる事になったカイはきっと今でも足掻いているに違いない。

 その姿勢は本当に素晴らしいとミリーナは思うのだ。

 エメリ草のような一株三百食など不要、ありふれた薬草取ってこいと言い放つ彼は二十一年の人生でもう確固たる立ち位置を決めている。

 ミリーナのように呪いを広げてやると言いながらあったかご飯に屈したり、一株三百食に心奪われたり肉肉人生に突っ走ったりは決してしない。

 弱くても折れる事なく足掻き続ける不屈の人。

 それがランデルの青銅級冒険者カイ・ウェルス。

 そして……


 ミリーナの、あったかご飯の人……


 ぬるま湯の湯船に顔を埋めたミリーナの口からプクプクと泡が漏れる。火照るはずのないぬるま湯の中でミリーナは頬を染めていた。


「ミリーナ……着替え、ここに置くわね」

「えう」


 ミリーナの母が仕切りの向こうに着替えを置いて離れていく。

 ブモー。

 天幕の動きに反応したのか捕らえた竜牛が何とも情け無い声で鳴いた。

 今、里は空前絶後の肉ブームである。

 カイの串焼きをしこたま頬張りあったかご飯に喜び泣いたエルネの皆は肉が食べられる事に驚き、焼肉ジューシーに感動し、カイに頼めばすぐに焼肉が食べられるように竜牛を飼育しようと決意した。

 朝までは発見即排除の害獣でしかなかった竜牛が串焼きを境に竜牛様、竜牛様と諸手を挙げて歓迎一色。竜牛の餌の実りに土下座するほどの見事な立場の逆転っぷりだ。

 まあ、いずれは食べるのだが。

 エルネの興味は肉だけではない。鍋を使うあったかご飯を食べたいと盛り上がる皆が今もカイを説得中である。

 しかし無理だろう。

 なにしろエルネに火にかけられる鍋は無い。

 桶や樽はあっても鍋は無いのだ。

 三人前程度しか作れないカイの鍋では血を見るのは明らかなのでカイは絶対作らない。でかい鍋を用意してから言えと叫んでいるに違いない。

 そろそろ助けが必要かもしれないえう……

 ぬるま湯が水になった頃、ミリーナは風呂から上がった。

 まだ発展途上の肢体を水滴が舐めていく。

 ミリーナはタオルで水気を拭い、母の用意した服を着た。

 掟破りをしようと里を出たミリーナにエルネの皆は温かい。

 これもカイのおかげだと心の中で感謝して、ミリーナは仕切りの外で待つ母の元へと姿を見せる。

 四百歳を超える母は変わらず美しく、彼女の帰還を心から喜んでくれた。


「飛び出してごめんなさいえぅ」

「いいのよ。貴方は掟を破らなかったのだから。それでいいのよ」


 優しく抱きしめる母の体は柔らかく、ミリーナをほっとさせてくれる。

 いつものように豊かな胸に頭を埋めてえうえう呟くと母は困った子ねと笑って頭を撫でてくれた。


「お、風呂から上がったか」

「ミリーナや、なかなか良い男を釣り上げてきたねぇ」

「うむ。森のランデルの芋煮並に美味かった。母に良い冥土の土産話が出来たわい」


 風呂から上がった音を聞いたのだろう、父と祖父母が入ってくる。

 エルフの家は長命だ。

 千年の寿命を持つエルフは百歳を超えたあたりで子を産める体となり、そこから五百年間は子を産む体が維持される。

 子沢山の家庭は食の問題もあって稀だが多世代家族は当たり前で四世代、五世代家族はエルフ的には普通の家庭だ。


「ひいばあちゃんに挨拶してくるえう」

「おお、そうだな。母は芋煮の話が好きだったからな」


 祖父がしんみりと笑う。

 ミリーナの家も四世代家族であった……五年前までは。

 飯に頭をかち割られマナに還った曾祖母は芋煮の話が大好きで、ミリーナに良くその話をしてくれたものである。

 ミリーナは瞳を輝かせながらそれを聞き、あと五十年早く生まれていればと泣いて曾祖母を困らせていたものだ。

 あったかご飯の日々となった今ではもう遠い日の想い出である。

 ミリーナは天幕を出てブモーと暴れる竜牛を避け、祖父母の暮らす天幕へと入っていく。

 寝床と荷物袋くらいしか無い簡素な天幕の中、石の上に置かれたいくつかの小さな木箱の一つを手に取り蓋を開く。その中にある曾祖母の遺したそれにミリーナはにっこりと笑い、語りかけた。


「ひいばあちゃんただいまえぅ。ミリーナはあったかご飯を食べたえう。聞いていたよりもずっと、ずっとおいしかったえう」


 箱の中の曾祖母にミリーナは語り続ける。


「ミリーナはいい人に出会ったえうよ。その人はなんだかんだと文句を言いながらあったかご飯をくれるえう。駄犬扱いだけど夢を叶えてくれたえう。ひいばあちゃんももうちょっと頑張っていれば串焼きを食べられたえう……えぅ……」


 曾祖父はミリーナが幼い頃に使ってしまった。

 エルフの呪いは幼い頃はとても弱く、いびりもしないが守りもしない。

 箱の中のそれはエルフが子孫を繋ぐための物。マナに還ったエルフの願いだ。


「ひいばあちゃん知ってたえう? 獣って美味しく食べられるえうよ? 人間の世界ではエメリ草一株であったかご飯が三百回食べられるえう。ひいばあちゃんが一度しか食べられなかったあったかご飯を三百回えうよ? エルネでは珍しくもないのにすごいえう。カイに出会って色々な事を知ったえう。ミリーナは今、本当に幸せえうよ……」


 溢れる涙がポロポロと、箱のそれに落ちていく。

 今の幸せを見てほしかった。そして一緒に食べたかった。

 ミリーナはカイとの出会いを思い出す。

 呪いに耐えられず家を飛び出し獲物を求めたあの日に嗅いだあったかご飯の香り。貼り付いた小窓の端にちらと見える湯気と芳香溢れる椀。腹の奥をギュッと掴んだカイの震える優しい声……


『食うか?』


 あの時からミリーナの胃袋はカイの虜だ。

 カイは迷惑だ駄犬だと呟きながらも傍にいる事を許してくれた。

 エルフの耳なら人の小さな呟きもくっきりはっきり聞き取れる。

 カイはミリーナに駄犬という呟きを聞かれているとは思っていないだろう。

 ミリーナはそんな扱いでも構わない。

 あったかご飯の前には全ては些事、取るにたりない事柄である。

 カイにとってミリーナは犬で良い。駄犬で良いのだ。


「ひいばあちゃんもいつまでも元気で……またえう」


 そう呟いて箱を閉じ、元の場所にそっと置いたミリーナが天幕を出ると母がミリーナを待っていた。


「おかあさん……」

「ミリーナ」


 母は静かに語りかける。


「私達は呪われた種族、エルフ……決して出すぎた真似をしてはいけませんよミリーナ」

「解ってるえう。カイは私を迷惑な駄犬としか見ていないえうよ」

「まぁ、なんて素敵で堅実な方なのでしょう」


 ミリーナの返事に母は口元を手で押さえて驚き、賞賛の言葉を漏らした。

 串焼き効果で評判が限界突破のエルネではカイの所業は全て偉業扱いだ。歩こうが転ぼうがさすがカイ殿! なのである。

 母は深く頷き、諭すようにミリーナに語りかけた。


「カイ殿にとって私達は犬で良いのです。ですからミリーナ、あなたは忠犬となりなさい」

「えう」


 母の言葉にミリーナは頷く。


「犬と人間はしっかりとした絆を結べる友の間柄と聞きました。盾として、牙として、そして友としてカイ殿の望む人生を歩ませておあげなさい。それが恩を受けた貴方の、そして私達エルネの恩返しです」

「えう」

「ほら、早速カイ殿が助けを求めていますよ」


 長老の天幕の中でカイがうがぁ面倒臭ぇと叫んでいる。

 エルフに囲まれても変わらぬカイの調子にミリーナは笑い、天幕に向かい駆けだした。


「エルトラネの近くで不穏な動きがあると聞きました。カイ殿をしっかりとお守りなさい。それが忠犬の務めです」

「えう!」


 背後にかかる母の言葉にミリーナは叫び、長老の天幕に突入する。

 カイを守るのはエルネの課したミリーナの役割だ。

 相手がたとえエルネでもミリーナは役目を疎かにするつもりはない。

 叫ぶカイから長老をひっぺがし、鍋鍋と叫ぶエルフをしっしと払ってカイを担ぎ、荷物を掴んでとんずらだ。

 また来月お願いしますと土下座しながら飛ぶエルフになるほど面倒臭いえうとミリーナは笑い、カイと共に夜の闇を駆けていく。

 カイが取り出した魔光石が周囲を淡く照らし出す。

 人の目には暗いだろうがエルフの目なら問題ない。ミリーナは鬱蒼とした森を縫うように走り、エルネの里を後にした。


「ありがとうミリーナ、助かった」

「えう。カイを守るのはミリーナの務めえう」

「いや待て……考えてみたら全部お前のせいじゃんか」

「え、えうーっ!」


 この駄犬。

 こっそり呟くカイの言葉はスルーして、夜の闇にえうーと叫ぶ。

 アーの族、エルネの里のミリーナ・ヴァン。

 忠犬への道は、まだまだ遠いようである。


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