幕間5 新妻達は初夜を捨てられない
「……ぇぅ」
夜。
ふと起きたミリーナは天幕をもぞりと這い出した。
竜峰ヴィラージュの雪の世界から空間を渡った世界は砂と光と熱気と乾燥の世界だった。
しかし、夜はまるで趣を異にしている。
目がくらむ程の眩しさは静かな月明かりに変わり、熱気は失せて肌寒いほどだ。
見上げた空には輝く月が星の海を泳いでいる。
そして幾多の天を衝く尖塔が月明かりに淡く輝いていた。
そう。ここはアトランチス。
棄てられたかつてのエルフの都だ。
ホルツの長老ベルガによれば数百万年前に廃棄されるまでは緑とマナに溢れた豊かな土地であったらしい。
しかし、今はその栄華も廃墟を残すのみ。
緑も無くマナも少ないこの地に飛んだ一行はまず荷物を確認し、ある程度の探索を行ってから拠点を構築した。
食料は心もと無く、帰り道はすでに無い。
飛んだ直後は食料を栽培すればいいと思っていたミリーナだが、この地の異様なマナの少なさが気になるところだ。
マナは万物の源だ。それが無ければ栽培もうまくいかない。
今日は拠点の安全確保だけで終わり、明日は栽培を試す予定だ。
そういえばカイは大丈夫えうか……
ミリーナは先日夫になったばかりのカイの天幕をちらり見た。
世界樹の守りを持つエルフにとっては大した事では無かったが、気候の激変に体が付いていかなかったカイはメリッサの回復とコップ水で何とか体調を整えていた。
回復によりカイは元気になったが、それは昼の話である。
この地は昼と夜がまるで違うと言っても良い。
とても暑く、そして寒い土地だ。
また体調を崩しているのではないえうか?
心配になったミリーナはカイの天幕にそろりと近づいていく。
少し離れた場所で夜番をしていたカイツーがちらりとミリーナを見て、すぐに視線を元に戻す。
カイとつながるカイツーが何も言わない所を見るとカイに問題は無いのだろう。
そしてミリーナが天幕を覗いても何の問題も無いのだろう。
注意もしない姿にミリーナは安堵し天幕の裾をつかみ、開いた。
「ぷぷぴぱー」「……」
なんでここにいるえうか……
妻の私をさしおいて、このピーえうーっ!
カイの横にちゃっかり陣取ったピーエルフにミリーナは口元ピクピクである。
「何してるえうか」「ももんぱぴぱぴぷー」
「全然わからないえうよ」「もっぴ……」
ぺたりとカイの胸元に頭を預けてご満悦のピーにひそひそ語るも全く会話は成立しない。
軽い回復をかけてカイに快眠を促しているあたり、メリッサよりもピーの方が能力高いえうと思ってしまうミリーナだ。
眠るカイのかたわらで騒がない良識は、たぶん愛の力だ。
ミリーナの知るエルトラネのピーは意味不明かつ傍若無人だ。
意味も意図も意思もわからない狂人なのだが付き合ってみると見えなかったそれが見えてくる。
ピーは感情豊かなのだ。
たぶん任せておいても大丈夫えう……えうが……
ミリーナはちらとカイを見た。
ピーの回復の成果だろう、カイの寝顔は安らぎに満ちている。
しかしカイを抱き枕にしているのは何とも気に入らない。
ここはつ、妻として立場を示す時えうね。
ミリーナは拳を握って気合を入れて、カイの天幕にするりと体を滑りこませた。
「ピーばかりずるいえう」「ふふんぺぷ」
「私もするえう」「ぺむぱ」
意味不明なピーと言葉を交わしたミリーナは反対側に寝転び、カイにぺたりと体を寄せる。
カイは軽く身じろぎしたが起きる様子は全く無く、深く静かに寝息を吐いた。
ピーと同じようにカイの胸に頭を乗せる。
カイの静かな呼吸がミリーナの頭を揺らし、温かな鼓動が心を揺らす。
瞳を閉じると心がゆらり、ゆらりと優しく揺らぎ、安らかな気持ちにしてくれる。
「えぅー」「ぷぷーっ」
ミリーナはカイの呼吸に合わせ、ゆっくりと息をする。
風の音も無く、木々のざわめきもない。
静かな夜である。
しかし嵐の前の静けさでもある。
竜皇ベルティアの物語に選ばれたカイが、どのような物語に翻弄されるのかミリーナには全く分からない。
ただ一つわかる事は、カイは足掻き続けるという事。
そしてミリーナ、ルー、メリッサの三人がカイの傍にいるという事だ。
三人は足掻くカイを支え、ベルティアの物語を共に進むだろう。
ミリーナはあの夜を思い出し頬を染める。
カイが夫となり、ミリーナが抱かれなかったあの夜。
カイが三人を迎えてくれた四人の初夜だ。
あの夜はベルティアの物語ではない。
ミリーナはそう考える事にしている。
ベルティアの物語とはおそらく出会い。カイと三人の出会いこそが物語なのだ。
人と人が出会い、心が紡がれ彩り豊かに織り成される時はベルティアではなく自分達のもの。
あの夜はその結果だ。
織り成された時が一つの形を成し、新たな時の模様に変わる始まりの夜。
これからカイと三人はこれまでとは違う時の模様を織り成していくのだろう。
「むむ、なんとうらやましい」「ぺぺらぷー」
声にミリーナが振り向くと、うらやましそうにルーが覗きこんでいる。
「……仕方ないえうね」「むふん」
ピーは話が通じないのでミリーナが場所を空け、カイの頭を抱えるように天幕の中を這い回る。
ルーはミリーナの空けた場所にするりと入り込んだ。
「カイ、今日は大変そうだった」「えぅ」「もぺんぷ」
「いきなり暑くて寒い場所はきつそうえう」「ん」「ぺろ」
「ぴぴらまーな、あけそぴののからぴらぴら」「わからない」「えう」
「もっぴぺぺ……お手数をお掛けします」「回復お疲れえう」「ん」
ミリーナとルーがピーの口に飴を突っ込み、カイの寝顔を皆で眺める。
三人に囲まれて、カイはとても安らかだ。
力ではなくご飯でエルフと向き会い、欲に走る事も無く淡々と生きる彼は迷惑だ駄犬だと言いながらも三人を救い、豊かな食を与えてくれた。
カイは三人に何も望まない……
関わりたく無いと望んでいたがそれは置いておく。
三人はカイに言われて薬草やペネレイを集め獣を狩りはしたがそれは火を使う為であり、三人の力が必要だった訳ではない。
三人と出会わなくても淡々と稼ぎ、日々に満足して生活し続けた事だろう。
この寝顔は今も満足してるという事えぅ?
ミリーナは寝ているカイに問いかける。
寝ているカイが答えるはずもない。
規則正しく寝息をもらすカイは相変わらず安らかで、時折身じろぎする程度で起きる様子は全く無い。
「大丈夫そうで良かった」
カイの額にかかる髪の毛をそっと流し、ルーが微笑む。
エルフには解らないダメージが心配だったのだ。
エルフは頑丈でカイツースリーは戦利品。
この環境下で体調を崩すのは一行ではカイと食料の獣二頭くらいだろう。大丈夫と言われても顔色の悪さは隠しようがないのだ。
「黙って無理をするなとルーに言っておいて、自分が黙って無理するなえう」
「ふが……ふ」
ミリーナがちょんと鼻をつつくとふがふがとカイは呻き、逃れるために頭を振る。
むにゃむにゃ蠢く口は何かを語っているようだ。
三人は目を見合わせて微笑み、カイの口元に長い耳を近づける。
もしかすると自分の夢を見ているのかもしれない……
カイの中の自分を想像して三人は頬を染め、漏れる言葉を待ちうける。
しかしカイの口元から溢れた言葉は、三人の誰の名でもなかった。
「くすぐったいよ、エヴァンジェリン……」
三人の表情が固まる。
エヴァンジェリン。
女性の名だ。
カイを起こさないように三人は視線を絡め、エヴァンジェリンとは誰か知っているかと瞳で問いかけ、そして皆で首を振る。
ミリーナとルーはメリッサに視線を向けた。
蘇生魔法を使えるメリッサは心を読む事が出来る。カイの言うエヴァンジェリンが何者なのか知る事ができるのだ。
しかし、メリッサは静かに首を振った。
「明日、カイ様に聞けば良いのですわ……」
「えぅ、そ、そうえうね」
「先走った。ごめん」
しょんぼりと肩を落としてミリーナとルーは頷く。
メリッサとて知りたい。
そしてメリッサは知りたくない。心を読めるが故に真実から目を背けられないメリッサは、カイの中のエヴァンジェリンがどのような存在かを知るのが怖いのだ。
三人との初夜、メリッサが読んだカイの心は三人に対する温かな想いに満ちていた。
メリッサはカイの想いを信じている。
しかしエヴァンジェリンと自分の立場にどれだけの差があるかは解らない。カイが自分を憎からず想っていてもエヴァンジェリンに比べれば塵芥かもしれないのだ。
「うわ、よせって、こら……」
「「「……」」」
カイがフフと笑い、楽しそうに身をよじる。
良い夢を見ているのだろう。瞳を閉じたその表情はとても幸せそうだ。
対する三人の表情は暗く沈んでいく。
自分達と違う女性がカイの中にいて、カイはとても楽しそうにしている。
エヴァンジェリンはランデルに住む女性なのだろう。三人の知らない彼女とカイはランデルでは共にあり、カイはこのような笑顔で彼女に接しているのだ。
対して自分達にカイはどうだろうか……
三人は沈んだ心で考える。
カイは色々な事をしてくれるがこんなに楽しそうではない。
採集、ご飯、栽培、ご飯、狩り、ご飯、作業、就寝……
時に駄犬と呟きながらカイの毎日は目まぐるしく過ぎていく。
厄介、面倒、迷惑……自分達にかけられるカイの言葉はこんなものばかりだ。
「カイ……ミリーナはもう、妻である必要はないえうね」
ミリーナは潤んだ瞳でカイを見た。
あの初夜の天幕の下、カイが自分に示した想いは真実だろう。
しかしあの時とは決定的に状況が変わっている。
カイの首にはめられた、死をもたらす贄の首輪はもう無いのだ。
カイはもうミリーナを抱く必要はない。
ミリーナが妻である必要も無い。
呪いを受け身内となる必要が無いからだ。
そして今、カイの夢の中にいる女性はミリーナではなくエヴァンジェリン……
短い妻の座だったえうね。いいえう。また忠犬に戻るえう。それで元通りえう。
ミリーナは自らを納得させるように心に刻む。
あの初夜は夢えう。カイがミリーナに見せてくれた素敵な夢だったえう。と……
「……嫌えう」
ミリーナの目から涙がボロボロとこぼれ落ちる。
あの初夜を夢にする事はミリーナにはどうしてもできなかった。
「カイの妻がいいえう。カイの妻になりたいえう。ずっと一緒にあったかご飯を食べたいえう。忠犬よりも妻がいいえう」
「でも、もうエルフをカイが抱く必要ない……」
「そうですわ。全てはカイ様にはめられた贄の首輪がカイ様を葉にしないためだったのです。その可能性が無くなった今、私達は忠犬に……戻らなければ」
「嫌えう、嫌えう」
泣きながらミリーナは首を振る。
出すぎた真似をしてはいけないと母親から言われていた。
ミリーナはその時わかっていると答えたが、全くわかっていなかった。
一度手にした夢を手放すのは、こんなに辛い事えうか……!
カイの為を思えば退くべきなのにどうしても諦められない。
ただの手続きが想いの始まりに変わったあの初夜を、どうしても夢と捨ててしまう事ができないのだ。
「皆はいいえうか? 妻からまた忠犬に戻れるえうか?」
「……嫌」
「嫌に決まっているではありませんか。ですが仕方がないのです。それをしたらもう私達はカイ様と共にはいられなくなる……」
三人はカイを見た。
カイは相変わらず安らかに寝ている。
三人が声を荒げても、泣いてもカイは深く静かに寝入っていた。
「「「……」」」
何をしても気付かないほど深い眠り……
そう、ナニをしても気付かないほど。
三人の心に魔が入り込む。
カイの妻でありたい。
しかしそれをしたらカイのそばにはいられない……ただ一人を除いては。
ミリーナとルーは虚ろな瞳をゆっくりと動かし、メリッサを見た。
「そんな……嫌、嫌ですわ……」
そう、ピーであれば仕方ない。
ミリーナとルーは何も言わず、静かにメリッサに行動を促した。
その瞳にいつもの輝きは無い。
自分達がひどい事をしていると自覚しているのだ。
それでも止められない。カイを裏切る行為であっても止める事ができない。
メリッサも同じだ。ピーならば許されると語る二人の虚ろな瞳に表情が虚ろに変わっていく。
欲望に心が飲まれているのだ。
「あっ……」
揺らぐ心が体を動かしたのか、メリッサの口からポロリと飴が零れ落ちる。
虚ろな瞳でメリッサは頭から飴を取り出し、落とし、もう一度頭に手を入れる。
「あ、ああっ……」
何もされていないのにメリッサは飴を口の中に入れられず、虚ろな瞳が狂気に染まっていく。
ミリーナとルーが虚ろに見つめるその先でメリッサの心が狂気に奪われ、そして……
バチーンッ!
ミリーナの頬がピーに張り飛ばされた。
「もっけぷぴんぱ!」
「え゛う゛っ!」
「めぴんぱぱぺろぷ!」
「ぬ゛ぐぅっ!」
バチーンッ!
ピーは返す刀でルーの頬を張り飛ばすと自らの頬を両手でバチン、バチンと叩き始めた。
「むくれぱぱ! ぺぴぺぴぽぽぷぺぷ! ぴまー! ぴまー!」
バチーンッ! バチーンッ! バチーンッ!
泣きながら頬を両手で叩き、叩き、叩く。
強化魔法でもかけているのか頬はすぐに赤く染まり、血がにじむ。
それでもピーは自分の頬を叩くのを止めず、あふれた血が頬を流れ、顎から床へと落ちていく。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
点々と増えていく血のシミがひと目で数えられなくなった頃、ピーはようやく自らを叩く手を止めた。
「もぷー……」
回復魔法が三人を癒していく。
癒しの輝きが三人を包む中、ピーはミリーナとルーを睨み静かに首を振った。
「えぅ……」「ぬぐぅ……」
ピーの狂気はメリッサの心でもある。
理性のタガが外れた心は純粋な意思であり、欲望の発露でもある。
そのピーが、ミリーナとルー、そしてメリッサの行為を責めていた。
メリッサの欲望であるピーがそれは絶対に許されないと戒めているのだ。
涙を流して首を振るピーにミリーナは初夜の自分を思い出す。
まるで逃げ道だとカイに抱かれる事を拒んだあの夜……それを今度は自ら行おうとしている。
それもピーに責任をなすり付けて自分は知らない事にする卑怯さだ。
そんな手続きをカイに押し付けて、お前は妻を名乗るつもりか?
ピーは今、こう言っているのだ。
「ぺまー、ぺまー」
ピーはカイに頭を預けると頬をすり付ける。
甘えるような声と共に行われる行為はカイに対する純粋な好意であり、相手がどうであろうと変わらないピーの気持ちの表れである。
離れるのが嫌だとカイを囲い込もうとした三人とは違い、ピーはカイの心が離れてもありのままを受け入れて好意を示し続けるのだろう。
自分の心を押し付けるのではなく相手の心を受け入れる。
それは恋ではなく、愛だ。
獣のように振る舞いながら、狂気は気高く美しい。
ピーは私達よりもずっと先を行っていたえうね。これでは駄犬にも劣るえう。
自分の事しか考えていなかったミリーナとルーは欲望にまみれた己の行いを恥じ、姿勢を正して土下座した。
「私が悪かったえう。カイが求めない限り二度としないえう」「もうしません」
「ぷっぽぱ?」
「メリッサの分も謝るえう」「申し訳ありません」
甘える行為を止めてじっと二人の土下座を見つめていたピーだがどうやら許してくれたらしい。カイの胸をぺしぺしと叩いて頬を寄せ、にんまりと笑った。
「へぺむぱ、ぽぺぽぺ」
「……いいの?」「もぷー」
ルーがカイの胸に頭を乗せ、瞳を閉じる。
「……カイの鼓動が聞こえる。ゆっくり、ゆっくり動いてる」「ぴぴまぽぽ」
「えう、私も、私も聞きたいえう……」「ぺーま」
ピーは離れず、ルーも離れず。
行き場の無いミリーナはしょんぼりと肩を落とし、カイの頭を抱え込むように寝転んだ。
「えう……これはこれでいい気持ちえう」
カイの寝息がミリーナの髪を梳き、髪が魔光石の淡い輝きに煌く。
三人の欲望の中にありながらカイの寝顔は安らかだ。
自分を呪おうとしたエルフが三人もいた事にカイは気付きもしない。
そしてミリーナ、ルー、メリッサがカイ欲しさにあったかご飯の恩を仇で返そうとしていた事などカイは考えもしないだろう。
ミリーナ達エルフにとってあったかご飯はそれだけ偉大なのだ。
「ぺまー」
ふにゃり……ピーが蕩けた表情でカイの胸の上を漂っている。
あんな顔がミリーナに出来るえうか……?
ミリーナは思い、その考えを改める。
出来るのかではなく、するのだ。
ミリーナはピーと同じようにカイの胸で漂うルーに視線を送ると、ルーもミリーナを見つめ返して頷いた。
「む」「えう」
ミリーナも頷く。
カイを呪う事はもうしない。
呪えばエルフの長い一生を後悔と懺悔で過ごす事になるだろう。
カイに並び立つ方法は一つしかない。
ミリーナとルーは決意にもう一度頷く。
どれだけ傷ついても蔑まれても足掻いて足掻いてそれを成す。
「るるっぱ。ぺぷーぷ、ぽー」
メリッサも同じ気持ちなのだろう、ピーがカイの胸の上でぶんぶんと頷いていた。
そう……
どんな事をしてもエルフの呪いを解く。
自分達が、カイの所まで這い上がるのだ。





