1-1 冒険者、全てを食らう暴食と遭遇する
『それは全てを食らう暴食なり。
世界を食らい混沌を招く災厄なり。
その暴虐に備えねばならぬ。
その種を食い尽くさねばならぬ。
たとえ我等が呪われる事になろうとも。
全てが混沌に沈む前に我等それを為す。
我等の決断が世界に栄光をもたらさん事を』
遺跡に眠る墓の言葉。
だが、それを読める者はもういない。
―――――
「まあ、こんなもんか」
廃都市オルトランデルの一角。
樹海と化した広場の隅で青銅級冒険者カイ・ウェルスは拾った陶器を手に呟いた。
昼でも暗い森の中で松明が音を立てて燃えている。
カイは松明の燃え具合を確認し、陶器を納めて袋を背負う。
そろそろ暗くなる頃合だ。
今日の活動はここまでだとカイはゆっくりと立ち上がり、注意深く周囲を見渡す。
広場は巨木が乱立し、四角く平らな敷石を蹂躙している。
蔦の絡まる建物は自然の力に締め上げられて、砕けて廃墟と化している。
いつもと変わらぬ光景。
かつて栄えた都市はその繁栄の名残を残しつつ、今は樹海の底に眠っていた。
「華やかなりしオルトランデルも、今は森の底か」
かつては王都と張り合うほどの栄華を誇った廃都市オルトランデルにカイは笑い、手にした松明の火の様子を注意深く観察しながら歩き出した。
活発な往来があったであろう広場も今は木々が支配する樹海だ。
のぼり、くだり、左に避け、腰を落とし、剣で蔦を切り払う。
面倒な作業を淡々とこなしながらカイはオルトランデルの樹海をゆっくりと進む。
広場から大通りに入るところでカイはまた松明を見た。
森の中ではこの火こそが命綱だ。
この火が突然消えた時、下級冒険者でしかないカイは全力で逃げるしかない。
それが奴等、『全てを食らう暴食』に対抗する実力を持たないカイが身を守る唯一の手段だ。
幸いな事に火の調子は良い。
カイは安堵のため息をつくと苔むした根を踏みしめ、オルトランデルの朽ちた大門の近くに準備した拠点を目指して足を進めた。
時折火を見るのは鬱蒼とした森の中で奴等を、かつてこの地域の中心都市であったオルトランデルをこのような姿に変えた存在を知覚できる簡単で確実な手段だからだ。
知覚不能の『無の息吹』に吹き消された火をすぐに確認し、煙のたなびく方向に全力で逃げる。
それがランデルの森で稼ぐ冒険者が先輩から最初に教わる事だった。
「ま、今の所消えた事は無いけどな」
故にその目的で火を灯す者はあまりいない。カイが用心深いだけだ。
カイは軽く笑い、その火で足元を照らして歩く。
冒険者となり森に入り始めてもう五年、幸いな事に松明の火が消えた事は無い。
冒険者ギルドの記録によればカイが訪れるような森の浅い領域では二十年間遭遇報告は無く、この廃都市に至っては森に沈んだ時から奴等との遭遇は無い。
カイがこの廃都市を仕事場にしているのはそれが理由だった。
青銅級冒険者カイ・ウェルス。
ランデル領の村で生まれて二十一年、食うために冒険者となって五年。
戦友や仲間と色々な経験をしたカイは様々な獲物や脅威と対峙する中で慎重である事の大切さを嫌というほど味わい、己の立ち位置を見定めた。
それが青銅級冒険者という階級だ。
石、鉛、鉄級の上位に位置する下級冒険者。
制限は多いが比較的安全な採集、捜し物、届け物が主要な仕事となる階級。
儲けは少ないが危険も少ない、かゆい所に手が届く便利屋の階級だ。
それが自分の適切な階級だとカイは思っている。
銅級と銀級の中級冒険者、金級、白金級、聖銀(ミスリル)級の上級冒険者は慎重さだけでは務まらない。
中級冒険者は慎重さに加えて大胆さと緻密さが必要となり、上級冒険者は死を乗り越える狂気が必要になるのだ。
この世界には蘇生の魔法があり、金を積めば生き返る事はできる。
だが生き返る事と死を乗り越える事は別の話だ。自らの体が牙に蹂躙される苦痛、生きながら溶かされる絶望、炭になるまで焼き尽くされても残る意識……それらの経験は蘇生後も冒険者を苦しめる。
人知を超越する怪物を討伐する上級冒険者はほぼ確実に死ぬ。
故に死をねじ伏せるだけの狂気を持たねば上級の冒険者になる事は出来ない。それを持つ者だけが上級冒険者として活躍できるのだ。
自らを妥当に評価できない者の末路は悲惨だ。
かつての同期は全員上位の階級へと上がっていったがほとんどの者は夢半ばで引退するか消えていった。
数十人いたカイの同期は今や十数人を残すのみ。
その中でも死の狂気を克服できたのはカイの昔の相棒、今は王国承認の特別階級である勇者級冒険者のアレクだけだ。他の上級に上がった者は死の狂気に囚われて幸せとはとても言えない人生を送っている。
かつてはカイも上を目指していた。
しかし食中毒で下痢と嘔吐を繰り返しながら狼の群れと戦った後、楽で安全な冒険者生活を選択するに至った。
心が折れたのだ。
痛く臭く汚く恐ろしく恥ずかしく情け無い思い出だ。
しかしカイはそれで良かったと思っている。
その程度で挫折したからこそ今でも冒険者をやっていける。
青銅級はカイにとって余裕を持って依頼を遂行できる階級だ。
報酬は貯蓄ができる程度にあり、依頼は植物の採集や捜し物が主で比較的安全。
活動はギルド登録した町に限定されるので生活も安定する。
狼や猪、熊などを狩る事もあるが異界の怪物を相手にする必要もなく、異界の顕現であるダンジョンに潜る必要も義務も無い。
樹海に沈むオルトランデルを仕事場にしているのも余裕を確保するためだ。
森に沈みながらも都市の姿を残している廃都市は建物などの人に都合の良い場所がいくつもある。適度な高さを持つ石作りの建物の二階より上に獣がやって来る事はまれであり、急場しのぎの避難場所や拠点に困る事はない。
森に沈んで百年あまり。
めぼしい財はすでに無いが上を目指さないカイにとってそれは問題ではない。
生活に困らないだけあればいいのだ。
廃都市の遺物と森の恵みで適度に稼ぎ、建物で安全に休む。
余裕をもってそれが出来るこの廃都市はカイのような安穏とした生活を送る冒険者にとって絶好の狩り場と言えた。
「よっ、と」
カイは大通りを抜け、オルトランデルの出口である大門近くの狭い路地に入ると崩れた構造物の隙間を縫うように歩いて一つの建物の中に滑りこんだ。
荷物を大事に抱えて細い廊下を歩き、石造りの階段を上へと進む。
仕掛けた罠を避けてまた階段を上がり、木で作られた障害物をどけて進んだ後に再び戻す。
これを何度か繰り返し、カイは自らの整備した拠点の一つにたどり着いた。
四階の端から二番目、狭い石造りの部屋。
窓は巨木の幹と絡まる蔦で埋められて、換気と採光用の小窓がかろうじて外の景色を運んでくる。
廃都市の廃墟の一室。
とうの昔に主を失ったそこにカイは扉を据え付け、かまどを作り、いくつかの道具を置き、枯れ木と食料、水を蓄えていた。
拠点に先客がいない事を確認して中に入り、扉にかんぬきをかける。
同じ冒険者相手にはいささか無用心だがしょせんは下級冒険者のお宝だ。冒険者を相手にする実力があるならもっと割の良い狩り場は他にある。
「……こんなしょぼい狩り場の財を狩っても罪に釣り合わないからな」
なさけない自己評価にカイは自嘲の笑みを浮かべると袋を置き、部屋に積んである枯れ木の一部をかまどに入れて松明の火を移した。
パチッ、燃えた木がかすかに爆ぜる。
煙が排気と採光用の小窓から流れていく。換気が出来ている事を確認したカイはかまどにかけた鍋に水を注ぎ、床に腰を下ろした。
剣を抜き、すぐに使える場所に置く。
借家のあるランデルの町に帰れるだけの最低限の持ち物は決して身から離さない。
カイは自らの周囲をいつものように整えると袋の紐を解き、中身を確認した。
「相変わらずしょぼいなぁ」
苦笑しながら床に品を置く。
陶器、装飾用の綺麗な石、銅貨、ガラスの破片、くず鉄等々二束三文のお宝がカイの眼前に並べられていく。
全て取り出した所でカイは腰の水筒を取り一口飲む。
確かにしょぼい。
が、生活にはこれで十分だ。
廃都市のガラクタは一袋およそ銀貨一枚。
さらに薬効のある植物を二袋採集して銀貨二枚、それを多少加工して銀貨四枚の価値に引き上げる。
合わせて銀貨五枚、五千エン。
これがカイの一日仕事の稼ぎだ。
カイの生活にかかるお金は一日およそ四千エン。
銀貨四枚だから日に銀貨一枚の貯蓄が出来る。
一ヶ月だいたい三十日で金貨三枚、
一年十二ヶ月で白金貨三枚に金貨六枚。三十六万エン。
たまに森で猪や鹿を狩れば一頭あたり金貨二枚。
カイはこの貯蓄を薬草加工か栽培の技術取得に投資するつもりだ。
薬草関連の仕事は老いても出来る。
二十一で老後の事を考えるのも妙だが挫折した身として老後は切実な問題だ。
上級冒険者として一攫千金が狙えるわけでもなく、耕す土地も商才も無く魔法も使えない。
そんなカイにとって薬草関連の仕事は現実的に狙える良い仕事だった。
冒険者としての野外活動経験と薬草関連の知識があれば老後もある程度の仕事ができる。
加工や栽培ができれば収入はさらに跳ね上がり、薬師ギルドに所属すれば町から出ずとも仕事が出来る。
資格も許可も必要ない。身ひとつで出来る仕事だ。
安全に稼ぎ、技術を習得して糧を得る。
死なず、体を失わず、余裕無き場所に近づかず、余裕をもって稼ぐ。
今のカイはこの信条で生きている。
堅実な仕事の遂行で取引先との信用も築けてきた。
薬草の納品先の評判も上々で、より高度な加工を白金貨三枚で教えて貰える約束も取り付けた。
あとは老いるまで無事に生きていければ良い。
カイは思考にふけりつつ、煮立った鍋の中に携帯食料を投げ込んだ。
クツクツと煮立つ湯の中で固めて乾かした携帯食料がほぐれていく。
火を使うのは多少の危険を伴うがこれだけは譲れない。
食中毒が怖いからだ。
体を内側から蝕まれながら狼の群れと戦ってみれば分かる。
息を吐くごとに腹の底からこみ上げる吐き気に硬直し、たまらず吐くと狼がスキありと噛み付いてくる。仲間を守ろうと剣を振り上げ踏み込むと尻にガツンとくる重い衝撃に腰砕けになり、狼を取り逃すと共に鼻が曲がる異臭が服を汚していく……
一人だったら間違いなく死んでいた。
あの時の相棒がアレクでなければ腕の一つくらいは失っていただろう。
あの時アレクは突き抜け、カイは折れた。
もしアレクのように突き抜けていたら勇者級まで昇りつめていたのだろうか……カイはそう考えて首を振る。
ないな。うん、ない。
鍋をかき混ぜながらカイは心の中で結論付ける。
勇者は人の枠を外れた者が到達する人外の極地だ。
少なくとも飯に火が通っていないと嫌だと駄々をこねている者が到達できる階級ではない。
森に沈んだ廃都市に潜み長期保存可能な携帯食料を熱湯でしこたま煮込むようなへなちょこには到底無理なのだ。
携帯食料がある程度ほぐれたところで食べられる野草を入れて嵩を増やす。
多少の薬草を入れておく事も忘れない。
傷薬に使う薬草を入れてひと煮立ちさせる事で危険性をさらに減らせると聞いてから実践しているカイの安全信条だ。
食材がほぐれて湯にとろみが生まれ、空気の泡がプクプクと表面で弾けていく。
携帯食料に野草に薬草。それらが絡み合い、何とも言えない良い匂いを放ち始める。
飯の香りだ。
カイは匂いを嗅ぎながら焦げ付かないように鍋をかき混ぜ頃合を見計らう。
味よりも安全。
カイは食材に十分熱が通っているかどうかをしばらく確かめて椀を取り出し、強い酒を染み込ませた布でよく拭いてから食材をよそった。
「うん、今日も旨そうだ」
匂いにカイの腹がグゥと鳴る。
今日も良い匂いだ。
カイの料理は食中毒回避が全てだが温めただけで料理は驚くほど美味になる。
これでもかと煮込んでも温かく柔らかい食事は冷めたそれよりはるかに旨い。
それに慣れてしまったら携帯食の白く固まった脂など論外だ。
カイは頷き、鍋をかまどから石の床へと置いた。
椀を左手に持ち、目の前に掲げる。
今日の食と健康に感謝を。そしてこの食が我が力と血肉になりますように。
カイは信じてもいない神に祈ると椀を胸元あたりまで下ろし、匙を手にしようとしたその時……
何かに吹かれたように松明とかまどの火が消えた。
「っ!」
瞬間的に暗くなった部屋にカイは息を呑んだ。
一体何が……冒険者になって初めての事態に混乱しながらカイは思考をめぐらせる。
突如全ての火が消える。
このような事が起こる可能性はカイの知識の中にひとつだけだ。
『全てを食らう暴食』
繁る草木の影に蠢き、火を排し、呪いをばら撒き、やがて地を森に飲みこむ存在。
そうではありませんようにと祈りながらカイは右手で胸元のポケットから魔光石を取り出し、強く握った。
カイの手から熱を持たない光が淡く溢れる。
魔光石は万物の源の力であるマナで光を放つ冒険者の必需品だ。マナを多く注げばそれだけ強く長く輝き、魔法の才の無いカイでも周囲がわかる程度の光を発する事ができる。
カイは淡く輝いたそれを地に転がすと、汗ばむ右手でしっかりと剣を握った。
鼓動に震える身体をねじ伏せ息を殺し、鋭く視線を走らせる。
松明とかまどは完全に消えて煙が部屋にたなびいている。
消える直前までは換気用の小窓に流れていたはずの煙のたなびきは今は正反対の方向、カイの脇を通り抜けるように伸びていた。
無の息吹だ。
瞬時に消えた火、これまでと違う方向にたなびく煙。
もはや疑う余地も無い。
やつらだ。
床に触れた剣が震えてカタカタと音を立てる。
金級冒険者ですら苦戦し銀級以下では一撃すら与えられない脅威がカイの目前に迫っている。森のざわめきの中に異質な音が響くたびにカイはビクリと身体を震わせ、落ち着き無く視線を走らせた。
逃げるのはすでに手遅れだ。やり過ごさなければ……
カイは混乱する思考を鎮める中、ふと左手の温かみに気付く。
飯だ。
温かな飯から湯気と共に溢れる魅惑の芳香。空腹をくすぐる幸せの香りだ。
自然には存在しない穀物と肉と野草と薬草の煮込みのハーモニー。
その香りはここから発してどこへ流れていた?
ガッ。
やばい。
そう考えた直後に音が響いた。
石に何かが衝突する音だ。
樹海に静かに沈む廃都市では滅多に聞く事の無い何かが動いた音。
それが近くから聞こえてきたのだ。
ガッ、ガガッ、ガッガガッ……ガガガガガガガッ……
激しく響く音にカイは硬直する。
音は次第に近づき震動が部屋を揺らす。
全てを食らう暴食が建物の壁を這い上がっているのだ。
自らの能力をはるかに超える脅威を間近にしてカイはきつく眼を閉じて、ただ自らの行いを後悔する。
弱者は強者の選択の後追いしかできない。
それは弱い者の宿命だが、それでも後悔してしまうのが人間というものだ。
こんな場所を拠点にするべきではなかった。
廃都市を仕事場にするべきではなかった。
冒険者を続けるべきではなかった。
飯に火を通すべきではなかった。
慎重に考えたのにどうして、どうして、どうして……
後悔は浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
延々と回る後悔の渦がカイの中で暴れ心を粉々に砕いていく。
しかし、いつまでたってもカイの終わりは訪れなかった。
「?」
ふと気付くと、壁を伝う衝撃音は止んでいた。
助かったのか?
そう考えたカイは聞こえた吐息に自らの甘い考えを投げ捨てる。
フーッ……フーッ……
いる。
すぐ近くに、いる。
身体が縮み上がるほどの恐ろしい吐息がはっきりと部屋の中に流れ込んで来る。
壁越しではない。
間違いなく直接聞こえる吐息だ。
扉にはかんぬきがかけてある。窓は木々と蔦に埋められている。非常用の抜け道は使われていない。
残る場所は1つだけだ。
カイは恐る恐る眼を開き、小窓を見上げた。
「……!」
息を呑む。
予想通り、それはいた。
窓を埋める美しく整った顔立ち、見開かれ爛々と輝く金色の瞳、わずかに見える森の緑を宿しきらめく艶やかな銀の髪。
そして窓枠に無理やり捻じ込んだ特徴的な長く尖った耳。
全てを食らう暴食……エルフがそこにいた。