不条理な学校
ホラーという程怖くはないです。
ただ、展開が全くもって理不尽だとは思います。物語に説明や整合性を求める方は注意してください。
私は空中を飛び回っていた。
天井が消え、落葉樹林と半ば一体化した学校の正面玄関の上を、縦横無尽に翔ける。楽しくて仕方がない。私の腕の掠めた紅葉が剥がれ落ち、行き交う生徒達の足元を薄く彩る。
玄関周辺にやや崩れながらも残った壁には、人工鳥人間化手術に関するポスターが貼られている。この手術は、何故か無料で提供されている。私はレベル3まで受けた。レベル3の手術を受けたのは、ついこの間の事だ。私以外にこの手術を受けた人間は、うちの学校にはいないそうだ。
ポスターには、大体以下のような事が書かれている。
・レベル1(赤の翼)…数十cm浮き上がり、時速4km程度のスピードで数分間飛ぶ事が出来る
・レベル2(黄の翼)…数m浮き上がり、時速10km程度のスピードで数分間飛ぶ事が出来る
・レベル3(青の翼)…数十m浮き上がり、時速40km程度のスピードで数十分間飛ぶ事が出来る
・レベル4(ショッキングピンクの翼)…大陸の横断をする事が出来る
レベル3と4では大違いである。故にリスクも桁違いだ。
レベル4になるためには、両脚の腿より下を切断しなければならない。体を軽くするためらしい。足に代わり、金属製の翼で宙を移動するようになるのだ。正直、旅客機のように海を越える飛行能力に、憧れない訳ではない。しかし、私はそんなのは御免だと思った。だから、手術はレベル3止まりだ。レベル3までなら、体の他の部位を欠損させる必要はない。翼も、普段は体内に仕舞っておける。
私は冷たい空気を切って急降下すると、ポスターの近く、掲示板のある一角へと降り立った。
翼を体内に格納し、友人と喋りながら階段を昇っていく。
教師や生徒が何時も使っているのは、4階建ての校舎の1・2階部分だけだ。うちの学校は変なのだ。
放課後。教室に夕影が差し込む頃。
くっ付けた机にだらしなく寝そべりながら、先輩は私に手紙のようなものを差し出した。
「これ。職員室に出してきて。」
多分、延刻届けだろう。
うちの部は、練習が終わった後に、こうしてダラダラと駄弁る慣習がある。
そのためだけに延刻届けなんて、と言われるかも知れないが、まあ慣習なので仕方ない。というか、先生の方もそれを分かっているのだろう。
分かりました、と返事をして、教室を出る。ふわりと宙に浮き上がると、真っ直ぐ飛んで職員室へ向かう。
「あぁ、これね。職員室に出してきて。」
先生は言った。
言っている意味は理解出来る。たらい回しだ。急に提出先が変更になったのか。
「但し3階より上に行ったら、教室の扉を開けるまで、決して口を開いてはいけないよ。」
教師はそう、私に言い含めた。
理由は何となく解る。
あぁ、はい。と気の抜けた返事をして、再び教師から延刻届けを受け取る。
目を擦り、面倒臭さに欠伸をしてから教室の方へと引き返し、階段を浮遊・上昇する。
階段を上る毎に校舎が暗くなっていく。
3階以降は死霊の学び舎である。
古めかしい服、そうでない服、ただ惨たらしい姿であるという一点のみが共通した死霊共が跋扈する、誰そ彼の学び舎。其処では、口を開いたら魂を取られる。
僅かな恐怖と、それを遥かに上回る冷めた気持ちで、私は澱んだ校舎の中を滑る。足下に、熱く濁った空気を感じる。此処に来ても、何故だか莫迦莫迦しいという思いばかりが湧く。
職員室は何処だったか。きょろきょろと辺りを見回すと、字の擦り切れた焦げ茶色の、木製の看板が目に入った。
多分、あれだった筈だ。そう考えた私は地面に降り立ち、その教室の扉をノックした。
少し間を置いて、扉が開かれる。中から顔に黒い靄のかかった、眼鏡の女性が出てくる。赤いカーディガンに白いシャツ、紺のロングスカートで、いかにも教師然とした出で立ちだ。
「失礼します。1年7組の…朱鷺ことねです。延刻届けを出しに来ました。」
「………………。」
クラスと名前は、一瞬正直に言いかけて、咄嗟に嘘を吐いた。此処では真名は明かさない方が良いと思ったのだ。尤も、そう思った根拠は何かの文献だか、映画だか、朧なものである。
「…職員室は、此処じゃないの……。」
か細い、今にも消え入りそうな声で女性は呟く。開かれた扉の奥から、黒い羽虫のような憔悴が漂ってくる。何にそうつかれているのか、黒点みたく群れをなして、今にも羽音が聞こえてきそうだ。見ているだけで気持ちが悪い。
はい、そうですか。分かりました。とだけ返すと、私は後ろへ下がって軽く礼をした。頭を上げた私の目の前で、扉が閉じられた。
心の中で溜め息を吐きながら、私は再浮上する。
此処でなければ、4階か。
暗がりから僅かばかりの朱い光に照らされている、おかっぱ頭の女の子、坊主頭の男の子、あからさまに旧い時代の人間の残骸。暗い澱みに浮かび上がっては立ち消える霊魂共の横をすり抜け、校舎の反対側へと飛ぶ。何故こうも校舎の彼方此方に階段があるのだろうか。設計ミスか。
反対側に近づくにつれ、眩しくなる。夕日が網膜に焼きつく。少し痛い。同じ校舎でも、此方側は日当たりが良い。幽霊の姿も疎らである。それでも此処は隠り世。青く塗装された金属製の翼に、粘度のある憧憬が纏わりつく。
私は4階へと上がった。
4階は沈んでゆく太陽に照らされ、朱というより白い程に眩しかった。
階段を上ってすぐの教室には、比較的新し目の薄茶色の看板に「職員室」と書かれていた。
あぁ、此処か。床に足を付け、翼を折り畳むと、私は扉を叩いた。然程時を置かずして、扉が開く。
中は、職員用の大きな棚が置かれている以外は、普通の教室と余り変わらないらしかった。そこからにゅっ、と半透明の教師が出てくる。先程話した、生きた人間の教師と、何処となく似ていた。
「失礼します。1年7組の…。」
「あぁ、延刻届けね。はい、確かに。」
幽霊教師は柔和な笑みを浮かべて、私の手から延刻届けを受け取った。淡く儚く、仄日を透かして見るあの世の微笑みは、不覚にも淋しい位に美しかった。
それから私は、何の気なしに職員室を覗き込んだ。先輩がいた。顔も手足も、色が反転したかのように真っ黒な、先輩がいた。私に延刻届けを押し付けた時と同じく、繋げた机に寝そべって、開封したポテトチップスの袋を傍に、漫画本を読んでいる。
…何故?
私が何か考えかける前に、「先輩」が身を起こす。その身から、黒い怨嗟が零れる。それでもその人は、紛れもなく私の先輩だった。先輩の体が机から離れる。彼女は重力に逆らって浮いていた。一分の隙もない程、霊体だった。そして私に飛びかかってきた。
ぞわりとしたものが背中を走る。一つの纏まりを持った悪意に総毛立つ。慌てて先輩をかわし、翔け出す。辺りはどんどん暗くなる。夜が近づきつつあった。暖かい残光が窓ガラスに乱反射する。私は、校舎の壁に身体を滅茶苦茶に打ちつけながら逃げた。後から、蟲の群体のようなものを纏った先輩が追ってくる。口が開くのも構わず、私は息を吸い込む。喉の奥から声混じりの息を強く吐き出し、必死で逃げる。
ふと、校舎の突き当たり左側に開いている扉があるのに気がついた。白い扉に左半身をぶつけながら、私はその教室に飛び込む。続いて先輩も飛び込んでくる。私は思い切って、教室の窓に突っ込んだ。窓は呆気なく割れ、私は外に転がり出た。金属でできた翼のお陰で殆ど怪我はなかった。
瘴気と縺れ合いながら、私は滑空する。紫と濃青が、空いっぱいに広がっていた。私に絡みついていた黒蟲は、少しずつ解けていった。滴りそうな程深い緑が、蒸し暑い空気の中でその身を揺らす。視界の端にそれを捉え、校舎の外壁に体を幾度かぶつけながらも、私は高度を落として学校の裏口近くに着地した。
裏口から再び校舎に入り、2階へと向かう。
人間の先輩がいた教室を覗くと、そこには人間の先輩がいた。机は元通りの位置に片付けられ、先輩はその一つに足を組んで座っている。
「遅かったね。」
青白い月明かりに照らされて、先輩は悪戯っぽく微笑む。
ちょっと色々ありまして、と答えると、先輩は静かにそっか、とだけ呟いた。
「じゃー、そろそろ帰ろっか!延刻届け、ありがとね。」
先輩に差し出された手を握る。二人で階段を下りて、校門まで行く。其処で、それじゃあ、と手を振り合って別れる。
先輩に背を向けると、私は地面を蹴って飛び上がった。眼前に広がる夜空。雲を抜けると満点の星。眼下の都会、高層ビル群。極彩色の、私の夜。
冷たい夜風を浴びて、家へと帰る。気持ちいいと広げた手足が、少しずつ薄らいでいく。ビシャビシャと血が飛び散るように、翼が毒々しいピンクへ染まっていく。家に帰る頃には、雪が降っているだろうか。朝には秋だったのが、夜には夏になっているのも、ご愛嬌。だって、この世界はおかしいのだから。
お目汚し失礼しました。