Sky Scraper
私の知っている正樹は、いつもしまむらのTシャツにエドウィンのジーパンという格好だった。可もなく不可もない。しかし無言で「ファッションに興味ありません」「服なんて着れればいいんです」と主張している服装ばかりだった。
なのに今日の正樹は、白いコットンのテーラードジャケット。ライトグレーのチノパン。そして青白のストライプのYシャツという出で立ちだ。
私が知っている正樹は、こんな爽やかな格好はしなかった。
もともと背が高い正樹は、しまむらファッションでも見栄えが良かった。それがファッショナブルになり、痩せてスタイルも良くなったのだ。
「かっこよくなったね。正樹」
素直に、簡単な言葉で賞賛した。
「変わらないよ、俺は」
だけど可愛くないことに、正樹は照れもしなかった。かっこいいって、言われなれているのかもしれない。
「しずかはマダムっぽくなった」
「なによ、老けたってこと?」
やっぱり、地味だったかな。自分の格好を見回す。ベージュのスプリングニットにライトブラウンのフレアスカート。
おのぼりさんだと思われたくなくて、あえて落ち着いたコーディネートを選んだ。それが失敗だと思ったのは、地下道から上がった後だった。
「年相応に、落ち着いたってこと」
いたずらっぽく笑う。こんな表情は、私が知っている正樹のままだった。
正樹がカードを壁のパネルに近づけると、ロックが外れる音がした。
「19時過ぎちゃったから、IDカードないと開かないんだよ」
ガラス扉の先は、エレベータールームになっていた。天井が高く、開放感がある。外壁はすべてガラス。内壁には竹が編まれたようなデコレーションが施されている。
電光看板がまたたき、多くの人々が行き交う街の喧噪と、隔離された空間。
選ばれた人だけが、この空間に立てるのだと、正樹の大きな背中を見ながら思った。
チーンという音と共に、チェック模様が刻まれた、メタリックな扉が開いた。
「さあ、乗って」
私と正樹が乗り込むと、扉はゆっくりと閉まった。
「ホントは関係者しか入れないんだけど」
「いいの?」
「ロビーに俺たちがいたって、誰も気にしないよ」
エレベーターは、静かに加速していく。
十秒後、私たちは地上三十三階にいた。
「うわぁ…」
思わず、声をもらした。
エレベーターの先に広がる全面ガラス張りの大パノラマ。
ガラスに手をつき、夜の東京を見下ろす。
まるで、銀河の上に立っているかのようだった。
「向こうに、光が全然ないところあるだろう? あそこは東京湾。日中なら、房総半島まで望むことができるよ」
「すごいところで、働いているんだね、正樹」
「田舎を出てから、頑張ったもの。勤めてた会社がつぶれたり、働きすぎて倒れたりさ」
正樹は苦笑する時、鼻の頭をかく癖があった。そんな仕草を、見ると安心する。やっぱり、正樹なんだなって思えて。
「この会社も、バイトで潜り込んだんだよ。何とか評価されて、正社員になれて。今はプロジェクトリーダーやってる」
正樹の顔は、男の自信にあふれていた。
こういうところは、高校時代から変わらない。いつも自信に満ちあふれていて、ちょっと気難しいけど友達思いで。そして、私には優しくて。
「この夜景を、しずかに見せたかったんだ」
やっぱり、正樹は優しい。
「何も、聞かないんだね」
「何を?」
「離婚のこと」
「わざわざ聞く話でもないかなって」
会話が止まってしまった。余計な事、言ってしまったのかもしれない。
でも、何も聞いてくれないと、私に興味がないのかなと、思ってしまう。
「正樹さん、お疲れ様でーす!」
沈黙を破ったのは、若い女の声だった。
二人連れだった。一人はTシャツの上にしわ寄せのキャミソールというフェミニンな装い。もう一人はスラッとした、アクティブさを感じさせるパンツルック。二人とも明るい髪色をしていて、毛先を巻いていた。
「あ、お疲れ」
振り返った正樹は、ニコリと笑って手を振った。
「隣の人、彼女ですかー?」
正樹の答えを聞く前に、キャッキャと笑いながらエレベーターに入っていった。
「同じ部署の娘たち。うるさいんだ。あいつら」
正樹は肩をすくめた。
職場の子に、正樹なんて呼ばれているんだ。なれなれしいと思ったが、おそらく特別な感情はないのだろう。東京では普通の事なのかもしれない。
「私、…正樹に恥かかせたかな?」
「なんで?」
こんなダサい、田舎のアラフォーが彼女だなんて思われて。
キラキラした夜景、キラキラした若い娘たち。なにもかもまぶしい。
若さとルックスで、女としての自信と悦びを謳歌する彼女たち。それに対して私は、女盛りを終え、ただのおばさんになろうとしていた。
東京の中心で働く正樹と、田舎から出てきた私。釣り合うわけがなかった。
「あいつらさ、俺に彼女がいないこと、ネタにしてるんだよ。はやく彼女作ってくださいねって」
「彼女、いないんだ」
「いないよ」
正樹の言葉に安堵したのは、隠しようがなかった。思わず笑顔になってしまった。
「仕事が恋人、なんだ」
「モテないだけだよ。それよりしずかは、婚活、がんばってるの」
「がんばってるよ。でも、条件通りのいい男は見つからなくて」
「身長が180cm以上あって、年収600万以上あって。料理や家事が得意で。なにより、私のことを大切にしてくれる人・・・だっけ?」
「うん、そう」
「すごい激レア物件だよな」
「そう?」
「そうだよ。本気で結婚したいんだったら、もうちょっと条件下げたほうがいいぞ」
相変わらず鈍いな、と思う。
高校を卒業する時、正樹は私に告白してくれた。
とても嬉しかった。私も正樹がずっと好きだったから。
だけど、ちょっとした言葉の行き違いがあって、たった二ヶ月で別れてしまった。
それからの私たちは、友人としてつきあった。
正樹は相変わらず優しかったし、私のわがままを聞いてくれた。
私は正樹の誕生日に、毎年ケーキを作ってあげた。クリスマスはプレゼントを交換して、近所の洋食屋で食事をした。
あんなに楽しかった時間はない。正樹はいつだって、私を楽しませてくれた。助けてくれた。
今は友達だけど、いつか正樹がプロポーズしてくれるだろうと、あの頃の私は思っていた。
でも、正樹は何も言ってくれなかった。好きだとも、つきあってほしいとも、愛しているとも。言ってくれたのは、卒業式の一度きり。
もう一度、言ってほしかった。そうすれば私は、彼のものになれたのに。
自分から言えばいいと思い、口を開きかけたこともある。だけど、自分の気持ちを素直に伝えることができなかった。もしかしたら正樹も、こんな気持ちなのかな。そう思うことが、慰めとなっていた。
私たちはずっとこのまま、この微妙な距離感のままなのだろう。近づくけど、決して交わらない。15cmから先には近づかない。それが私と正樹。
そう思い定めた時、私の目の前に、後に夫になる男が現れた。
旧帝大卒のエリート。一部上場企業に勤め、将来を約束されていた。背も正樹と同じくらい。理屈っぽい話し方も正樹に似ていた。
彼は私に結婚を前提につきあって欲しいと言ってくれた。三十歳を目前に控えていた私は、一も二も無く、そのプロポーズを受けた。
そして結婚式。
正樹のスーツ姿は、格好良かった。正樹は背が高いから、本当にスーツがよく似合った。
私の結婚と前後して、正樹は東京へ出ていった。結婚式が、正樹の姿を見る最後の機会となった。
私はときどき、夫の中に正樹を見ていた。夫を正樹の代わりだと思うこともあった。
そういう不実な気持ちというのは、すぐに感づかれてしまうものなのだろう。結婚して二年もたたないうちに、いわゆる仮面夫婦になっていた。
会えなかったけど、正樹との友人関係は続いていた。今はメールがあるから、会えなくてもつながっていられる。たわいもない話から相談まで、いろいろなメールを正樹に送った。
正樹に甘えていると自覚していた。でも、正樹とつながっていられたことが、冷え切った家庭の中でどれほど心を暖かくしてくれたか。
離婚の経緯は言いたくない。正樹にも言ってない。
やってはいけないことをして、夫を怒らせてしまった。破綻したまま三年も続いていた夫婦生活は、これで本当に終わりを迎えた。
離婚して最初に思ったことは、「正樹と会いたい」だった。
婚活を始めたのも、正樹に気づいてほしいと思ったから。もう一度結婚をする意思があると、分かってもらいたかったから。
だけど正樹は、私の気持ちに全然気づいてくれなかった。
身長が180cm以上あって、年収600万以上あって。料理や家事が得意で。私のことを大切にしてくれる人。
こんなに分かりやすく、ピンポイントに条件を出しているのに。なんで気づかないかな…。
でも、今の正樹と会ってみて、気持ちは揺らいでいた。
今の私は、正樹とは釣り合わない。
正樹は、いい男になりすぎた。
もっと美人で洗練されていて、都会が似合っている女…そう、さっきの娘たちのように、キラキラとした娘と結婚するべきなのだ。
私のような、ダサくてなんの取り柄もない、田舎の女と一緒になっては、いけないとさえ思えた。
思わず顔を伏せた。それを認めるのは、悔しかった。
「ねえ、どうして正樹は、ずっと一人なの」
でも、聞かずには、いられなかった。これで何も言われないなら、諦めよう。
「聞きたい?」
「うん」
「それはね」
正樹の両手が私の頬に触れた。
「十五年前に会った女が、俺にとって最高の女だったからだよ」
心の中に堅くなっていたものは、ふわっと広がったような気がした。
「ねえ、それって…」
正樹の大きな手が、私の顔から離れた。
私に背を向けて、エレベーターのボタンを押した。
「それって、もしかして」
「さあね。誰のことでしょうね」
私は、正樹の左腕をかき抱きしめた。
エレベーターのドアが開いた。
ここには、私たち二人しかいない。
銀色の扉が閉まる。
今なら言える。
正樹、大好き。これからはずっと、一緒にいてください。
「あの時、ちゃんと好きだと言っておけばよかった」
こんな後悔は、何十年も人間をやっていれば一つや二つ、あるはずです。
気持ちというモノは、言わないと伝わらないものです。
雰囲気で分かってもらえるとか、いつも一緒にいるからとか、そんな状況的事実は、恋愛においてはエビデンスにすらなりません。
Sky Scraperはそんな自身の反省から生まれた物語です。
残念なのは、まったく実話ではないということですかね(笑)