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ガスバーナーの炎に色をつける

お題は以下のようです

シチュエーション:中高大一貫校 文化祭 花火

使用したセリフ「明日も会いたい」

 一史(18才)

 朱音(15才)

 



 あの時、日没直前の第一化学室の隅にある小さな薬品庫は、確かに闇に閉ざされていた。


 一分の隙もなく並んだ棚。

 ところどころに積み上げられた段ボール。

 壁のスイッチが模造紙の奥に隠れてしまった蛍光灯。


 そんな部屋の片隅で、あの時少女は、光を求めていた。


 例えば、小さくても明るくて、温かくて、あかく揺れる炎のような。


 何か、ひかりが欲しかった。



 ――ここは、世界の片隅。傷の淵。



 闇の帳に、隠された。



 ―――



 今日は第一化学室も、いつになく人が多い。


「STAFF ONLY」と書かれた紙を貼り付けた暗幕に向かって机の間を通りながら、一史(かずふみ)は新鮮な気持ちがした。

 新鮮とはいえ、この景色を見るのも六回目になるのだが。


 六人用の長い机にパネルが立てられ、化学部員たちのレポートが展示されている。不思議そうに眺める小学生と、その隣で考察に目を通す父親。

 丸椅子の並んだ机の一角は「実験コーナー」の看板を掲げ、白衣姿の部員が子供たちの相手をしていた。


 今日は文化祭二日目。普段は、授業と人数の少ない化学部の活動ぐらいでしか使われないこの場所が人で賑わっていた。


 中高大一貫の私立校の文化祭に来るのは小学生とその親がほとんどだ。そして化学部の展示ともなれば、部員をからかいに来るのでもなければ在校生が来ることもないだろう。


 普段とはまるで違う雰囲気に多少胸を踊らせながら、一史は暗幕をくぐった。椅子とビニール紐と養生テープを駆使して作った部員専用スペースである。

 その中で。


「…それ、こぼすなよ」


 山積みになった鞄に埋もれた後輩女子が、焼そばをかきこむようにして食べているのを一史は目撃した。


「あ、一史先輩。シフトですか?」


 片倉朱音(かたくらあかね)(さかき)一史をちらりと見上げた。


「ああ。片倉もか?」

「はい。公開実験担当なんで。あと十五分くらいで始める予定なんですけど…」

「だからってそんな食い方行儀が悪いな」

「いえ、これはお腹空いてるだけです」

「犬か」


 一史は鞄をおいて白衣を取り出す。


「女の子に向かって辛辣ですねー」


 朱音は言いつつ食べ終えると、ごちそうさまでした、と律儀に手を合わせてから立ち上がり、白衣を揺らして出ていった。

 もちろん空容器は放置である。


 自らも白衣を羽織った一史はそれを見て呆れたようにため息をつき、その薄いプラスチックと割り箸をつかんで再び暗幕を通った。

 実験コーナーの近くにあるゴミ箱にさりげなくそれらを捨てると、部員に交代を告げた。


「で、次はこれをぐるぐるかき混ぜながらー…そうそう上手!」


 同じ時間帯にシフトに入った野上秋人(のがみあきと)が子供たちに指示を出す。

 真剣な眼差しで紙コップの中身を混ぜていた小学生は褒められて嬉しそうだ。


 一史はそれを眺めていると、秋人が気遣わしげに聞いた。


「…一史、子供苦手だったりする?」

「よくわかったな」

「うん、もうつっこまないでおくね」


 隣の秋人にばかり子供が集まっている気がするのは気のせいである。


 そして、実験コーナーの子供たちが捌けて来た頃。


「では、これから公開実験を始めまーす。興味のある方はぜひ教壇の前にきてください」


 朱音の声が化学室に響いた。

 本来公開実験を行うのは中三だが、中三化学部員は朱音しかいないので中二と合同である。


 今回の演目は――


『炎色反応』


 黒板には大きくその四文字が書かれていた。


 炎色反応とは、ガスバーナーの炎にリチウムなどの金属の溶液を反応させて様々な色の炎を作る実験である。カラフルで分かりやすいので、新歓でもよく使われるものだ。


 というようなことを、噛み砕いて滑らかに語る朱音。いつもの淡々とした態度からは想像もつかないほど明るく社交的に見える。


「…あいつ、器用だね」

「猫かぶりが上手いだけだろ」


 公開実験に人が集まり暇になった実験コーナーで、一史と秋人は囁きあった。


 炎を見やすくするため、部屋の明かりが落とされた。


 教壇に貼り付くようにして朱音の手元を見ている小学生。彼らに向かって笑顔で実験をこなしていく。

 手際よく擦ったマッチに火が灯って。


「ほら。緑の炎ができたでしょう?」


 子供たちの間に歓声が広がった。


 教科書で見る炎色反応の実験は、溶液を浸した白金線をガスバーナーに翳したものが多い。

 しかしこの公開実験では見映えを考慮したのか、底の浅い蒸発皿に入れたアルコールに試料を混ぜて着火したらしい。

 朱音に命を吹き込まれた、半透明で緑色の炎が蒸発皿の上でくねっていた。


 紅、橙、紫、緑。

 並べられた他の蒸発皿からも次々に火が立ち上がり、暗い化学室のなかで幻想的に踊る。

 顔を輝かせて見入る子供たちに嬉々として説明する朱音の肌をも、単調で不規則な陰影がゆらゆらと撫でていった。

 薄暗く仄明るい彼女の表情は、まるで炎を操るマジシャンのようで。味気ない内容のはずの解説すら、心地よい呪文に聞こえる。


 光は少し妖しげに、美しく、この化学室を照らしていた。


 やがて徐々に炎が小さくなっていくとパチリと電気が点いて、夢から覚めたように部屋が明るくなった。


「ありがとうございました!よろしければ展示レポートも見ていってください」


 朱音のマニュアル通りのその言葉に、公開実験はお開きとなった。


「お疲れー片倉」


 後片付けを終えて戻ってきた朱音に秋人が声をかけた。


「ありがとうございます。疲れました」

「なかなかいい演技だった」

「一史先輩が言うと誉め言葉に聞こえないですね」

「失礼なやつだな」


 一史の労いは不評のようだ。


 そんな実験コーナーへ、二人の女の子が駆けてきた。


「あ、さっきのお姉さん!」

「ん?どうしたの?」


 姉妹だろうか、顔立ちがどことなく似ている二人である。妹が姉の手を引いて朱音に話しかけた。


「火の実験すごかったよ!お姉ちゃんも面白かったって」

「あ、ちょっとマリ!」

「でね、お姉ちゃん来年この学校に入るんだよ!そしたら、化学部にいくんだって!」

「ちょ、えっと、あの…」


 本人の制止を聞かずに喋り通したマリという名の妹に翻弄され、姉の方はあたふたしている。もちろん、彼女が受けるであろう中学入試は来年の二月だからまだ先のことである。

 朱音は、この微笑ましい姉妹に優しく笑いかけた。


「そうなんだ。じゃあ私、化学部に入ってくれるのをここで待ってようかな」


 顔を赤くしていた姉は一瞬驚いて、そして嬉しそうに笑うと、大きく頷いた。


 姉妹は両親に呼ばれ、すぐに去っていった。


「いやーあれは完全に惚れた顔してたね。片倉って罪なやつ」

「本当にあの子がここに入ってきたときに失望させてやるなよ」

「変なこと言わないでくださいよ」

「絶対狙っただろー」

「小学生に優しく接しただけです」


 朱音は居合わせた先輩二人に大いにいじられた。

 本人にも気障なことを言った自覚はあるのだろう。照れを隠すのに必死で、返答にいつものキレがなかったのが面白かったらしい。


「だっていいじゃないですか、ああいう姉妹」


 終いには、不貞腐れてふいとそっぽを向いた。


 そこへ。


「あの…」

「どうした?」

「実験コーナーって、なにやるんですか?」

「あ、こんにちは、ぼく。もっとこっちおいでー」

「は、はい」

「じゃあ説明するね。まず…」


 三人は、一瞬で営業スマイルに切り替わった。


 それから一時間ほど後。


「…そういえば片倉、シフトじゃないよな?」


 一史が今更のように言った。


「流れで一緒にやってたけどいいのか?」

「はい。暇なので」

「なに?ぼっちなの?」

「クラスの友達が吹奏楽部なので、公演で忙しくて一緒に回る時間が合わないんです」

「まあ、部活が違うとそうなるか」

「そうかそうかー、片倉は暇でも俺はそうでもないんだよねー…」


 秋人が時計を確認した。


「俺これからクラスの方行かなきゃ行けないんだけどさー…」

「シフトの交代、こないな。中二のやつら絶対忘れてる」

「…チラ」

「…別にいいですよ」

「サンキュー片倉!」


 秋人の視線に、朱音は嫌な顔をするでもなく代わりを引き受けた。


「一史は子供相手じゃ心許ないから、片倉頼んだ!」

「余計なお世話だ」


 秋人は白衣を「STAFF ONLY」の内側に放り込んで化学室を出ていった。


「…一史先輩、子供苦手なんですね」

「さっき秋人にも同じこと言われた」

「見てればわかりますから」


 客人は多くはないが、長く時間が空くほど少なくもない。


 ぱらぱらとやってくる小学生の実験の指導を更に一時間、一史と朱音の二人でやっていた最中のこと。


「…ガスバーナーの炎なんて炎じゃないですよね」


 朱音が唐突に言った。

 目の前の男の子が、実験の戦利品を持って嬉しそうに走り去った後だった。


「…どういうことだ?」


 一史が聞き返すと、朱音は少し残念そうに言った。


「私たちの公開実験、蒸発皿を使ったんですけど、練習の時に一応ガスバーナーでもやってみたんです。

 その時に思いついたんで中二の子たちに言ってみたら、『は?』って顔されました」

「当たり前だ。俺も今そう思ってる」


 一史のにべもない返事に、朱音は大真面目に語り出した。


「だって、火っていうのは周りを明るく照らしてこそ火なんです。多少青白くったって、あんな透明で向こうの景色が揺らぐだけの存在を、私は炎とは認めません」


 随分強引な理論である。ならばと一史は言い返した。


「でも、蝋燭とかの赤い炎は温度が低いし、あれは不完全燃焼中の煤が発光してるだけだ。燃焼って意味では化学的にガスバーナーの方が正確だろ」

「化学的な話なんてしてません。炎の話をしてるんです。火は光ってナンボ。そこから人類の進化は始まったんですよ」

「お前なんで化学部入ったんだ」


 熱の入った朱音の弁は、最終的にそこへ帰結した。

 一史に冷静にツッコまれた朱音は、誰かわかってくれる人いないかなあとぼやいた。


「…だって、明るい方がいいじゃん」


 不満げな声音。敬語の抜けた呟きを溢した朱音の瞳が、怯えるように揺れた気がした。


 見てはいけないものを見た気がして、一史は目の前の器具にさりげなく視線をずらす。

 無防備なやつだと思った。


「あれ、なんで一史先輩と朱音ちゃんがいるんですか?」


 不意に聞こえた声に一史が振り向くと、白衣を着たメガネの少女が首を傾げていた。


「中二のやつらがこないから代わってたんだ」

「ああ、あの子たち。ちょっと抜けてるとこありますよねぇ」


 高校二年の神崎真弓(かんざきまゆみ)は苦笑した。


「真弓先輩が次なんですか?」

「うん。もう一人もすぐ来ると思うよ。朱音ちゃん当番じゃないのにお疲れ」

「いえ、全然大丈夫です!」


 そう微笑んだ真弓に、朱音は嬉しそうに返事をする。どうも朱音は殊に真弓になついている節がある、という秋人談を一史は思い出した。


「もう一人がまだ来ないなら、私手伝いましょうか?」

「え、いいの?」

「はい。どうせ暇ですし」

「じゃあお願い。ありがとね」

「いえいえ」


 盛り上がり始めた女子二人に置いてきぼりを食らった一史は、白衣を翻して大人しく「STAFF ONLY」へ戻ることにした。


 文化祭最終日。そろそろ終盤であった。



 ―――



「じゃ先輩、お疲れさまでした」


 中二たちが出ていくと、化学室には一史一人になる。他の部員は帰ったのだが、後片付けが遅くなった一史は洗い終わった器具の水気を拭いていた。


 ビーカーは棚へ、メスシリンダーとピペットは乾燥用の台へ。滞りなく所定の位置に並べていく。

 そして、精密秤を蛇口下の戸棚へ仕舞い終えて。


「…帰るか」


 西日の入らない薄暗い化学室を眺めて呟いた。一人になると独り言が増えるのはなぜだろう。


 一史は机の下に置いてあった鞄を取り上げようと視線を落とす。

 すると隅にもうひとつ、鞄があるのに気がついた。女物のようだ。


 まだ部員は残っていたらしい。しかし姿が見当たらない。どこかへ行っているのだろうか。

 不審に思って部屋を見渡してみるが、このままでは施錠できなくて困る。


 とはいっても、化学室で人が隠れられる場所なんて限られているのだ。もしこの部屋にいるのなら、掃除用具入れのロッカーか薬品庫ぐらいなものである。


 取り敢えず手近にあったロッカーを開けてみた。


 ――当然、人はいなかった。


 ちりとりが落ちていたのでフックにかけ直し、そっと戸を閉める。


 閉めてから、なんとなく誰も見ていなかったことを確認してしまった一史だった。


 最初からこっちに行くべきだったと一人で少し恥ずかしくなりながら、一史は薬品庫の扉に手をかける。後でここも鍵を閉めなくてはいけない。


 引き戸を滑らせると、薄い光が薬品庫に射し込んだ。

 それでも六畳ほどの部屋は横に長く、隅には暗がりが残っている。


 ざっと見た限りでは誰もいない。

 そう思って一史が扉を閉めようとしたときその暗がりから、がさり、と音がした。


 はっとして、薬品庫の奥まで踏み込んだ。何かがいるらしい。


 一史が暗がりを直視したとき、音の主は、段ボールの陰に座り込んでいた。


 少女は、体育座りを崩したような格好で、情けない顔で、怯えた瞳で、一史を見上げていた。


 彼女は、片倉朱音は、泣いていた。


 噛み合ったように膠着する二人の視線。


 漫画とは、やはり現実を美化して描いているのだなと、呆然とした頭の隅っこで一史は思った。


 現実の泣き顔は、あんなに綺麗じゃない。目の前の彼女は目を真っ赤にして、涙で頬も睫毛もぐしゃぐしゃに濡らしていた。


 やがて朱音の表情は、怯えから驚愕に、驚愕から安堵に移り変わっていく。

 一史が戸惑っているうちに、朱音の目に新しく膨れ上がった涙は重みに耐えきれず、はらりとこぼれ落ちた。


「…っ……う…っうぅ…」


 ひとつ、またひとつと、ただ視線をあわせたまま涙を流す。

 その目はまだ、何かに縋りつくための勇気がないようで。


 そんな泣き方に、憐憫とも、庇護欲とも、同情ともとれない強い感情で顔をしかめたくなるほど苦しくなった。

『これ』を、どうにかしたくて。

 一史は朱音に静かに近づくと、しゃがみこんで彼女の頭に手を乗せた。幼い子にするように、優しく撫でる。


「大丈夫」


 何が大丈夫かなんて一史は解っていない。でもこれが引き金になると、一史はわかっている。


 朱音の顔がきつく歪んだ。

 引き金さえ引けば、二人の間にあった壁が崩れるのは呆気ないほど、簡単だった。


 今涙で滲んでいるであろう彼女の視界には、自分はどんな風に映っているのだろう。


 一史の胸で泣く朱音の背に腕を回しながら、思った。


「…こわ、かった…っ」


 まあそれはどうでもいいか、と思う。


 背中に回した手を朱音の頭に伸ばし、そっと、引き寄せるように抱きしめた。


 朱音の体は、相対的に、予想通りに、平均的に、通常に、小さかった。


 瞼を閉じればそこは闇。耳元の少女の嗚咽と腕の中の華奢な体温だけが、五感に触れる。


 突発的な一史のこの感情に、驚きはしても不快感はなくて。


 ここは、世界の片隅。傷の淵。



 ――夏休みの下校時間間近にあった涙について。以降二人は忘れたかのように、夢の話ほどにも口に出さなかった。



 ―――



「私、暗所恐怖症なんですよね」


 ピペットにゴムを嵌めながら朱音が言った。どういう会話の流れだっただろうか。


「暗い所がほんとに無理です。アイマスクとか意味わかりません」

「へえ。じゃあなんで目を瞑るのは平気なんだ?」


 隣の机でシャーペンを走らせていた一史が言った。


「先輩意地悪いですね。感覚的な問題ですよ」

「じゃあ中二の林間学校で胆試しやるだろ?あれは大丈夫だったのか?」

「あんなのは脅かし役が全員顔見知りじゃないですか。それに何だかんだで明かりがついてるし」

「まあ、お化け屋敷も前が見えなきゃ進めないからな」

「あ、お化け屋敷は入れません」

「わかりづらいな!」

「暗い云々以前にお化け怖いです」

「意外だな。片倉はそういうの気にしないタイプかと思ってた」

「だって襲われるんですよ?祟られるんですよ?幽霊とか怪談とか、そんな恐ろしい話がなんでこんなに世の中に広まってるんですかね」

「なら、今度の合宿で百物語でもやるか?もちろん全員参加で」

「あっ、こんなところに硫酸が」

「待て片倉!」


 一史は慌てて朱音の肩に手をかける。


「ゴーグルをつけろ」

「そっちですか」


 朱音は大人しくゴーグルをつけると、硫酸と蒸留水を量り始めた。希硫酸を作るようだ。

 …あれは濃硫酸だったらしい。

 一史は心の中で肩を竦めると、記録ノートの整理に戻った。



 それから数ヶ月後。夏休みの薬品庫で、一史はこの会話の意味を知ることになったのだった。


 ――とある、なんでもない平常活動日の会話である。



 ―――



「よし、花火しにいこう!」


 秋人が言った。


「いいですねぇ、花火」


 真弓が乗った。


「わあ!花火できるんですか!」


 中二が歓声をあげた。


「花火か。何年ぶりだろ」


 朱音が受け入れた。


「花火…!」


 中一が戸惑いながら喜んだ。


 「文化祭の打ち上げに花火をする」という秋人部長の案は、多数決により可決された。


「よし、スーパー寄って公園行こう」

「確かあそこは花火大丈夫でしたよね」

「俺はまだ何も言ってないんだが」

「知ってる知ってる。一史も行くよね?」

「え、いや…」

「行くよね?」

「…」


 一史に反論の余地は与えられなかった。


 今まで化学部には、みんなでわざわざ集まるような打ち上げはなかった。

 そのかわり、最終日の学校終わりに何かしようと言い出したのは秋人だった。


 人数の少ない弱小文化部とはいえ、やはり文化祭は最大イベント。

 ごみになった装飾がつまったビニール袋に、数時間前とはうって変わった静かな化学室。ふわふわと漂う熱気の残響。

 各々それなりの達成感と、少しの寂しさぐらいはあった。


 そして、それに乗じて楽しいことがしたいというのが実情である。


 公園に着いて花火の袋を破り始めるが、まだ西の空の際が赤い。花火をするには明るいけれど、それを気にする人はいなかった。


「これやたら線香花火入ってるね。みてみて、こんなにごっそり」

「最後にみんなで競争しましょうよ」

「ちょっと待て!お前ら火つけるの逆だろ!」

「うぇっ!?そうなんですか!」

「ありがとうございます先輩…!」

「中学生にもなってどうしてそうなった…」

「え、こっちじゃなかったんですか?」

「お前もか」


 何せ楽しいからいいのである。


「中二はしゃがみこんでなにやってるの?」

「草焦がしてます!」

「やめなさい」


 そんな使い方もある。


 真弓に脅迫的な笑顔を向けられた中二と違い、一史は至極真っ当に花火をしていた。

 秋人が両手に花火を持って振り回し始めたのでたった今避難してきたところである。


 シューと鋭い音を発しながら、剣を思わせて輝く細長い炎。散れる火の粉がカラフルに、手先から小さな流星群のように飛び出していく。

 夜に見れば白いだろう煙のくすんだ薄墨色が、風下の一史の視界を覆って流れてきた。ぶつかる煙から顔を背けても、それは案外さらりとまとわりついてこなかった。


 陽の落ちきらない公園はやはり明るくて、炎などなくてもみんなの表情がちゃんと見える。

 そんななかで光る炎は少しちゃちく見えて。

 だけどこの朱色がかった空気がとても心地いいと、はしゃぐみんなにふと思った。


「先輩、火ください」


 一史が声の方向に目をやると、朱音が火の点いてない花火を指先で揺らしながら近づいてくるところだった。一史が持つ花火の火が目的らしい。


「ああ。早くつけないとこれもう終わるぞ」

「え、ちょっとまってまだ消えないでっ」


 朱音が花火の先をくっつけて数秒後、ゆらりと燃え尽きた炎と入れ替わりに、新しい炎が噴き出した。


「よし、セーフ。先輩もう一本やります?」

「そうだな。まだ残ってそうだし」


 数歩先のバケツに投げ入れると、じゅっ、と少しの水蒸気をあげて最後の熱が消えた。ひろげられたビニールの上、どんな花火になるのか見分けのつかない中から一本手に取ると、さっきいた場所まで戻る。つけやすいよう朱音がつきだした花火に、棒の先を近づけた。

 膨らんだ火花を確認して、お互いに花火を離す。


 流れるような一連の動作。


「…先輩、ぼっちなんですか?」

「その言葉、そのまま返してやる」


 それもそうですね、と朱音は肩を竦めた。


「そういえば、花火も炎色反応ですよね。この炎なんか真っ赤」

「まあな。こんなときにまで化学の話題なんてお前も意外と化学好きだな」

「そりゃ化学部員ですから。演示でやったばっかりですし。

 あと例えば、打ち上げ花火見てるラブラブなカップルの後ろで、『あれは赤いからリチウムかな、あ、今度は銅みたいな色だ』ってずっと呟いて雰囲気壊してみたくなりませんか?」

「お前性格悪いな」


 えーロマンですよ、ロマン、なんて飄々と朱音は笑う。


「ロマンと言えば、こんな明るい時間にやる花火って雰囲気がないというか、安っぽく見えますよね」


 そんな朱音の台詞に怒ったかのように、花火は終わってしまった。

 あ、終わった、と感慨なくバケツにそれを落とすと、新しい花火に火をつけた。線香花火のように四方八方に飛び散るタイプらしく、パチパチと星を撒き散らし始めた。


 一史は、やはり同じことを考える人間はいるものだと、妙に納得していた。


 朱音は花火に目を落としながら続ける。


「やっぱり花火は光ってナンボですよ」

「今日も同じようなこと言ってたな」

「ああ、ガスバーナーの話ですか?よく覚えてますね」

「なかなか斬新な屁理屈だったからな」

「私の持論です。光るはずのものが光らないなんて職務放棄じゃないですか」

「そんなに光が好きなのか」


 一史は苦笑した。


「ああ、そういえば、片倉は暗所恐怖症だっけ」


 一史の花火が音なく消えた。

 最早機械的に次の花火に手をだす。

 朱音の花火は、燃焼した黒い灰に、先からゆっくりと侵食されていくところだった。

 ずっと手元を見ていた一史はふと朱音の顔を見やる。彼女の目は動揺して、だけどそれを押し隠すように張り詰めていた。


「…よく、覚えてますね」


 一史は、話題を誤ったことを悟った。


 ずっと、触れてはいけないという暗黙の了解ができてしまっていたことだった。


 暗所恐怖症の話だけなら、朱音が自分で明言したことなのだから問題ない。今なら核心に触れず話題を変えられるだろう。


 だけど、鼻腔を満たす火薬臭さと、明るく灰色に霞むヴェールと、鼓膜に響く空を切る音と、なにより直視してしまった朱音のあの瞳に、後戻りする気をなくしてしまっていた。


「そうだな」


 一史は答える。


「簡単に、忘れられることでもない」

「普通忘れますよ、あんな話」


 朱音はまだ、諦めきれずに「話」の話をする。

 違う、そこじゃないと、一史は暗黙の了解など知らないふりをした。


「そんなわけないだろう。危うく、あのまま薬品庫の鍵をしめるところだった」


 一瞬、怯むような睨むような目つきになって、でも次の瞬間、朱音はへらりと笑った。


「うわ。先輩ひどい」


 その笑顔は、花火のように強烈で薄い煙に包まれた、心の片隅を占めるあの時の感情を再燃させて。

 線香花火みたいに落ちるか落ちないかの危うい緊張感は、いっそ落としてしまえばなんとかなるような気がした。


「女の子をあんなところに閉じ込めるなんて――」

「笑うな」


 一史の、冷たくも聞こえる声音。


「お前は何からそんなに逃げてるんだ」


 これが、引き金になればいいと。


「俺ならそうとはっきり言え。そうじゃないなら…そんな面して笑うな」


 朱音の笑みが凍って、唇を噛んだ。


「お前、結構顔にでてる。隠してるつもりなのかは知らないが」


 朱音は、射ぬくような一史の視線から逃げるように俯く。

 その先にあるはずの花火は、とっくに消えていた。


「…何が、言いたいんですか」


 俯いた朱音の表情は髪に隠れて見えなくて、見下ろしている一史には声が震えていることしかわからなかった。


「…そうだな」


 それでも一史は落ち着いて言う。


「あの時のことの訳をちゃんと聞きたい、とか」


 一史も、すっかり黒くなった花火をずっと握り締めていた。


「…言ったじゃないですか。私暗所恐怖症なんです」

「ああ、知ってる」

「ほんとに、駄目なんです。ちょっとでも光があれば平気なのに」

「…ああ」

「多分、私が中にいること、気付かなかったんだと思います。薬品庫に片付けにいったら急にドアが閉められたんです。あそこ、暗いじゃないですか。…真っ暗になって、足がすくんで、動けなくて、それで…ほんとに、怖くて」


 その震えた言葉は、独り言にも、何かに訴えかけているようにも聞こえた。


「……思い出すんです、暗いところにいると。小さい頃、押し入れに閉じ籠って耳を塞いでるのに聞こえてくる、父親っていう男の怒鳴り声とか。怖くて怖くて、誰にも言えないくらい怖くて…。

 その押し入れを開けてくれたのはいつもお姉ちゃんで、でもそのお姉ちゃんも、今はいないんだって、思って…」


 朱音の体が強張っていく。


「……本当に、怖くて」


 掠れて、酷く聞き取りづらかった。


「…そうか」


 一史には、やっぱり朱音の黒い髪しか見えない。だけど、表情を想像するくらいならできる。


 控えめに、でも確かに、朱音の頭に手がのせられた。


「『誰にも言えないくらい怖かった』って、言えたじゃないか」


 一史の手の下で、朱音がぴくりと反応した。


「あの時俺がお前に『大丈夫』って言ったことの清算は、これで勘弁してくれ」


 一史は、手のひらで朱音の体から力が抜けていくのを感じた。

 そして、こくり、とひとつ、うなずいた。


「お二人さーん!線香花火しよー!」


 気づくと、秋人他部員たちが、線香花火を持って蝋燭の周りに集まっていた。


「ああ」

「今行きます」


 二人はすっかり冷えた燃えかすをバケツにちゃぽんと放ると、一本ずつ線香花火を拾って輪の中に加わった。


 陽は大分傾いてきている。

 蝋燭の炎がちろちろと、線香花火の朱い玉を形作っていって。


 ぱちんと弾けて始まった線香花火は、ぷるぷると危なっかしく震えている。


 始まりも終わりも、案外呆気ないものだ。

 だけどそれは魅せつけるように、今美しく輝いていた。



 ―――



 数時間後、家に帰った朱音の携帯にメッセージが届いた。


 ディスプレイに表示されたのは。


 〈榊一史先輩〉


 開くと、一行こう記されていた。


 〈思ったんだが、明日予定あるか?〉


 朱音の返信。


 〈明日は文化祭の振替で休みですよ。部活はないです〉


 暫くして、再び携帯がなった。


 〈そんなことは知ってる。片倉の予定を聞いてるんだ〉

 〈なにかあるんですか?〉

 〈なにかってなんだ〉

 〈打ち上げ的なものです〉

 〈そこまで言うと流石に嫌みだぞ〉

 〈…本当にどうしたんですか。デートですかなんですか〉

 〈そうだと言ったら?〉


 一史の皮肉っぽい笑みが思い浮かんで、朱音は顔をしかめた。

 続けざまに、一史からのメッセージを受信した。


 〈勝手に男の胸を借りておいてさよならっていうのは無責任だろう〉

 〈それ本気で怒りますよ〉

 〈わかってる。冗談だ〉


 朱音は盛大にため息をついた。


 〈明日は別に予定ありません〉

 〈そうか。なら――〉


 それからやり取りが一段落して、画面を眺めて朱音は


「一史先輩ってこんな人だっけ?」


 と首を傾げて呟いた。


 一方一史が、後に履歴を読み返して恥ずかしさに頭を抱えたことを朱音は知らない。




 垣間に見えた彼女の過去。

 頭にのせられた彼の体温。


 青白い高温の炎についた色は何色だろう。


 〈明日も会いたい〉


 少し気になって打ち込んでみたそんな文章を、自分にしては女々しすぎると苦笑して、送信ボタンを押さずに画面を閉じる。


 真っ黒な画面に映った自分の口元が、少し緩んでいた。



 透明じゃない炎に浮かび上がったその先の景色は、きっと、悪いものではない気がして。








 Fin.





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