ガラスの靴をなくしたシンデレラ
お題は以下のようです
場所:屋上 時間:夜
使用したセリフ「大丈夫。まだねむくない」
蓮(16才)
呼幸(17才)
おもちゃみたいだと、眼下の町を見て呼幸は思った。
七月とは言え、八時にもなればすっかり暗い。十分夜である。
梅雨明けしていない空気はどことなく湿っぽく、そのぶんまだ涼やかさを残す夜風が心地いい。
まして屋上でなら、その心地いい風をたっぷり受けることができるのは当然であった。
この学校の最終下校時刻は七時だが、先生たちは九時ごろまでいるから見回りさえ掻い潜れば、こうやってしばらく夜の学校に残ることができるのだ。
昨日も、忘れ物を取りに来たついでにここへ寄った。ほんの好奇心だ。
その時もやっぱり、呼幸はフェンス越しに町を眺めていた。
特に深い意味があるわけじゃない。例えば、消しゴムのお尻のカドは汚したくないとか、表紙に「三年一組十四番坂下呼幸」と二年前の自分の字で書かれた使いかけのノート(半分くらいも余っている)の処分に困るとか、その程度のことだ。
中二のあの日、ちょっと衝撃的だったあの出来事が少し、印象に残っているだけなのだ。
そんなわけで呼幸は、今夜も星の少なく月だけが冷え冷えと照らす夜空の下にいる。
八時ごろといえば、一番電気を点ける時間帯じゃないだろうか。一軒家やらマンションやら、明かりが無数に漏れている。時々車のヘッドライトが線を描いて。
ただそれらのどれも、屋上から見たのでは遠すぎて、おもちゃみたいだと、呼幸は思った。
特撮なんかで使う、良くできた町の模型。夜景と呼ぶにはお粗末な、平凡で特別な景色。
突然、ドアの開く音がした。
「っ!?」
急な物音に心臓が止まりそうな思いで振り向くと。
「あれ、こゆき先輩」
「蓮!」
軽快な声の主は、一つ下の後輩、蓮だった。
呼幸と、蓮の同輩の女の子でマネージャーを務める、男子バレーボール部の一年生である。そしてーー
「あ、蓮髪切った?」
「おー!気づいたの先輩が三人目ですよ!」
「一人目は?」
「現代文の岡崎先生です」
「相変わらず仲いいね…。じゃあ二人目は?」
「…篠原、です」
そう言った蓮の顔が、嬉しそうに弛んだ。
篠原里乃。我がバレーボール部の、もう一人のマネージャーである。
「ふぅん。里乃かー」
「ななななんですか」
呼幸がにやにや笑って見せると、蓮は面白いようにたじろいだ。本当に、分かりやすい人だ。
「ていうか、なんで屋上なんかきたの?こんな夜に」
話題を変えてやれば、蓮は安心したように答える。
「あ、それが携帯学校においていっちゃったんですよ!家でまじびっくりして慌てて取りに来ました!」
「あはは、携帯は致命的だね」
「はい!今イベント中なんですよねー」
「へー…」
蓮は某リズムゲームのユーザーらしかった。
「で、教室で携帯見つかったのはいいんですけど、このまま帰っちゃうのはつまんないなーって思って、夜の学校を探検することにしました!」
「探検…?」
「いやー夜の学校ってテンション上がりますよね!」
「…うん。蓮ぽくていいと思うよ」
予想の斜め上をいく。ある意味期待を裏切らないのが蓮である。
「先輩は?こんなとこで何してるんですか?」
「んーまあ色々あってね」
「色々?」
そ。色々。そう返して呼幸はフェンスに凭れた。
えー気になるじゃないですかー、と蓮は人懐こい笑顔で言う。
その笑顔に、「色々」の中身は絶対教えられないなと、呼幸は切ないような気持ちになる。
その裏にある自分の感情を、殊に蓮にだけは知られたくなかった。
それがどうしてかなんて、わかりきっているなら尚更。
自分の弱さを他人に見せることが出来るのが本当の強さであると、誰かがそう言った。
呼幸は、強くない。
「ま、この景色を見に来たってとこ」
呼幸が背後に視線を移すと、つられて蓮もフェンスに近づいた。
「へー!すごいですね!これ」
はしゃいだ声をあげる蓮。じっと見つめる真っ直ぐな視線。
「…夜の屋上なんて、初めてだ」
その横顔が、綺麗だと思った。
「なんか…いいですね、ここ。二人っきりになったみたいで」
呼幸の胸が、どくんと跳ねた。
「世界征服した気分になりますよね!こっから見えるもの全部俺のもの!みたいな」
フェンスの外を向いたまま、蓮は楽しそうに言った。
――ああ、私は、この横顔に恋をしたんだ。
呼幸は、泣きたくなるくらいに、笑いたくなるのだ。
同じ日の同じ時間にたまたま屋上に行こうと思った二人が出会うなんて、一体どれほどの確率があるだろう。それも、こんな夜に。
夜の屋上という、日常の中の小さな非日常。
もう二度とないであろう、出来すぎた偶然。
溶け合って、広がって、優しい夜気となって二人を囲っていく。
それはまるで、シンデレラにかけられた魔法のように。
脆く、美しく、切ないほどに透明な彼女のガラスの靴は、十二時の鐘と共に解けてしまう、儚い魔法でできていた。
「世界征服」を語る蓮の瞳に、自分は映っていない。それでも呼幸は言った。
「世界征服か…。それもいいね」
その言葉に、蓮は呼幸を振り向いてぽかんとした。
「な、なに?」
「あ、いやぁいつもの先輩ならツッコんでくると思ってたんで…」
「意外だったと」
「はい。でも…」
いいですよね!世界征服!
蓮は、呼幸をみてくしゃりと笑った。
「ふふっ。…そうだね」
『世界征服』
魔法にかかったちゃちで雑多な愛しいこの景色に、その言葉はとてもよく似合っている気がした。
確か、あの日も七月だった。中学二年生のあの日。
昼休み、校庭を中心に学校中がざわつき始めた。
――…どうしたの、あれ。危ないよ!なにやってんの?早く降りなって…――
何百もの視線の先には、屋上のフェンスの上に腰かける、一人の少女がいた。
真っ向から風を受け、制服と髪がバタバタとはためいていた。その風に、気持ち良さそうに目を細めて笑っていた。
呼幸のクラスメイトだった。しかしあまり話したこともなく、大人しい子だと思っていた。
そんな彼女が、全校の注目を集めているのだ。
担任があわてて屋上へ向かう。音をたてて扉をあけ、少女に数歩近づいたところで彼女が振り向き、先生の足がぴたりととまった。
後で聞いたところによると、駆け寄ってくる先生に「それ以上近づいたらここから飛び降りる」と言ったらしい。止まらざるを得ないだろう。
再び前を向いた彼女は生き生きと、小さな背中に青空を背負っていた。
誰もが漠然と憧れる、「自由」のかたちを堂々と見せつけるように。
その時世界は、彼女のものだった。
町は彼女を中心に広がり、風は彼女のために吹き、雲は彼女に向かって流れてくる。
そんな世界が、そこにはあった。
しかし、昼休みが終わる予鈴は相変わらず無神経に鳴り響いた。
気づいた少女はフェンスを伝って降りると、呆気にとられる先生をスタスタと通りすぎ、教室に戻っていった。
彼女が教室へ来ると、途端にクラスメイトたちから質問攻めをうけた。それをのらりくらりとかわし自分の席に着くと、平然と次の授業の準備を始めた。
校庭で遊んできたところから戻ってきました、とでもいうような少女の態度に、釈然としないながらも周りも「普段通り」をするしかなかった。
次の日、彼女は転校した。
父親の仕事の都合で引っ越すという、案外普通の理由だった。「今までありがとうございました」と、彼女はペコリとお辞儀して去っていった。
一連の事件の残響を、教室に置きっぱなしにしたまま。
しかし、それもいつしか薄れて消えた。
その前に一回だけ、彼女が一人の時を狙って呼幸は聞いてみたことがある。
「あのさ…屋上、楽しかった?」
彼女は一瞬驚いた顔をして、それから、宝物の在処を囁くような笑顔で頷いた。
だって、世界征服みたいでしょ?と。
あれから何度か屋上に上った。
だけどそこから見えたのは、ただいつも通りの町だった。フェンスに座る度胸を持たない呼幸には、『世界征服』の景色は見えなかった。
そのときに感じた憧れと落胆は、小さな小さな小石になって、今も心の中をコロコロと転がっていて。
そんな誰にも見せられない小石を抱えたまま高校生になって、初めて夜の屋上に来たときは驚いた。
そこはまるで異世界のように、いつもと雰囲気をがらりと変えていたから。
ここでなら、自分でも『世界征服』できそうな気がしたから。
ただ、それだけのことだった。
でもだからこそ、蓮が『世界征服』と口にしたことが、呼幸はすごく嬉しかったのだ。少しだけでも、思いを共有できたみたいで。
これはなんの魔法だろう。
呼幸は願う。
もう一度。あわよくばもう一度。
こっちを向いて、笑ってほしい。
魔法にかかったシンデレラは我知らず、お城のなかで王子さまの姿を探していた。
きっと今、涙が滲みそうなのは嬉しいからだ。呼幸はそう信じた。
「蓮」
「はい」
「世界征服したらさ、何したい?」
「先輩ノリノリじゃないですかー」
蓮はからかうように言うと、真面目な顔で考えた。
「俺だったらとりあえず…学校で携帯使ってもいいって法律つくります」
「野望が慎ましいね」
「あ!あと、この町にも夢と魔法のネズミの国をつくります!もちろん出入りは自由で!」
「おお!それは楽しそう」
「でしょ?だって東京にしかないってズルくないですか?」
「…あれは千葉じゃないかな?」
「…し、知ってますよ?」
「嘘おっしゃい」
少し照れ笑いしながら、今度は蓮が訊く。
「じゃあ先輩だったら何します?」
「んー好きなものに囲まれて暮らしたいなー。イケメンとか」
蓮が吹き出した。
「あっはは!先輩が真顔でそれ言うと面白いからやめてくださいよっ」
「失礼な。私だってイケメンに優しくされたいですー」
「あははは!」
「こいつ…。イケメンがだめなら猫に囲まれたい!もふもふした猫の国をつくる」
「え、それネズミの国の天敵じゃないですか」
「私が住むからいいの」
「でも俺は猫より犬派ですね」
「ええ、猫の方がかわいいよ。ああでも、蓮が犬好きなのはわかるかも」
「そうですか?」
「だって…」
自分が何を言おうとしているのか、呼幸は気づかぬふりをした。
「里乃、犬っぽいからねえ…」
「え…な、ななななんの関係があるんですか!」
呼幸は後輩マネージャーの顔を思い浮かべた。
綺麗な髪を二つに結い大人しそうな見た目だが、一生懸命に仕事をする姿や小柄な体には、チワワ的なかわいらしさがある。
唐突に出てきた里乃の名前に、蓮はあわてふためいている。本当に、わかりやすい人だ。蓮が里乃のことを好きなのは最早周知の事実。公然の秘密。
顔を赤くする蓮を見ているともうちょっとつつきたくなるのだ。
「蓮はさ、里乃のどこに惚れたわけ?」
「だからそんなんじゃないですってー!」
必死に否定する蓮を見て、呼幸は心の中で自虐的に笑った。
二人っきりの夜なんて最高のシチュエーションで、わざわざ恋敵の話題をふるなんて。
ガラスに罅がはいるような警鐘がなった気がした。その破片で、指を切ってしまうかもしれないのに。
「よし、聞き方を変えよう。里乃のどんなとこがかわいいと思う?」
「それハードル上がってませんか?」
「一般論を聞いただけだよ。私なら、仕事の飲み込みが早くて、頑張って働いてくれるところかなー」
「…先輩が親戚の叔父さんに見えてきた…」
いよいよ本気で嫌がられるかとも思ったが、蓮はまんざらでもなさそうなのでセーフだ。
蓮の、まだ少し躊躇うような横顔。
「…篠原に、『蓮ってKYだし軽いしバカだけど、そこが蓮のいいとこだよね』って言われたことがあるんです。
俺がKYで軽くてバカなのは知ってるし、他の奴にこんなこと言われたら、絶対冗談とかで流すんですよ!普通にただの日常会話だったし。
…だけど…なんでか、篠原に言われたあの時だけは、すとんって落ち着いたっていうか、あの時の笑顔が、かわいいなーって、思ちゃったって、いうか…」
はにかみながら俯いて、嬉しそうに話す蓮の横顔。
微笑ましくて頬が弛み、心が軋んで悲鳴をあげる。
ずっと、見ていたいと思った。心の悲鳴すらも抱き締めて。
「だだだだからって!篠原が好きとかそういうんじゃ全然なくてですね!」
「はいはい、わかったわかった」
もう、勘弁してくださいよ、と蓮は眉を下げて笑った。
ごめんごめんと、呼幸も笑った。
二人にはきっと、呼幸の知らない密やかなつながりがあるのだろう。「物語」、とでも言おうか。
呼幸はそれに近付けない。「物語」が存在するという事実にしか触れられない。
呼幸は、蓮の横顔に、恋をした。
正面で向き合いたいという願いはいつもどこかで燻っていて、だけどその願いが叶えられてしまった瞬間、それは別の想いに変わってしまうだろう。
呼幸は、それも嫌だった。
「…先輩」
「なに?」
「眠くないですか?」
「え?大丈夫。まだ眠くない。っていうかまだ九時にもなってないよ」
「紳士の気遣いです!」
「わけわかんない」
二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。
無情にも、十二時を知らせる鐘は重く、冷たく響きだして。
解けゆく魔法から逃げるように走るシンデレラには、たったひとつのガラスの靴が残された。
はいて使うこともできない、魔法の残滓。
おとぎ話のシンデレラはその輝きに導かれ、王子さまと幸せな再会を果たすのだ。
だけど――
――ガラスの靴なんて、たたき壊してやる。
少女はそれを投げ捨てた。
素足のままで駆け出す。少し、俯きがちに。
呼幸は、いつか二人は家に帰らなければいけないと知っていた。
呼幸は、蓮へのこの思いが高校生の一時の恋心だと知っていた。
始まりがあるもの全てに終わりがあるなんて、まったく、律儀な世界だ。
だから呼幸は、夏の短い夜にせめて祈るのだ。
私はまだ、眠くない。眠くないから、だから――
――この時間を、終わらせないで。
ガラスの靴をなくしたシンデレラは、確かにその夜、夜の刹那に永遠をみた。
FIN.
ありがとうございました。