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【箱】短編

夢を追って筆を取ること

作者: FRIDAY

 相当なけ、だっただろう。こうしている今でもそう思う。

 私は小説家になった。

 私がとある文学賞を受賞し、出版の話が舞い込んできたのは大学を卒業して数年後のこと。在学中にどうしても受賞することができず、小説家になることは諦めて就職し、それでも趣味として細々と小説を書いて、惰性だせいのように文学賞に応募する日々の中で突然のことだった。

 私は公務員だった。

 某県某市の市役所に勤務していた。ようやく新人さが抜けてきて、仕事にも慣れてきた矢先のことだった。

 法律で、公務員は副業を許されていないのは、誰しも御存知のことだろう。

 もしも出版に了承すれば、多少なりとも収入が得られる。となれば、今の職場は辞めなければならない。

 しかし私は迷った。当然だ。

 私は自分に才能があるとは思っていない。

 文才などあるとは思っていない。今だってそうだ。だから、文学賞を得て出版したところで、売れるとは思えなかった。辛うじて処女作が売れたとしても、二作目は、三作目は。いつまでも売れ続けられるのか、職業作家として生きていけるのか。

 とてもじゃないが、そんな自信はなかった。

 だからこそ、迷った……公務員だ。絶対とは言わないまでも、安定した収入を得て、得続けられるであろう職場と、一転して闇の中に分け入っていくような小説家。

 けれど…私は、小説家になりたかった。

 小学生の時分に抱いて以来、どんなことがあっても捨てることのなかった夢だったのだ。小説を出版し、誰かに読んでもらう。

 だから私は、公務員を辞めた。

 この選択が、正しかったとは思わない。間違っていたとも思いはしないけれど。結果的にこうして現在、私は細々とではありながら、小説家として食いつないでいる。幸いなことだ。

 公務員と小説家。安定と不安定。だからこれは、賭けだった。

 いや……賭けですらなかったかもしれない。

 小説家になって、けれども失敗して、路頭に迷うことになったなら…それならそれで、それまでだ、と。ただの諦めだったかもしれない。

 私は夢を叶えた。けれども私の人生は、決して成功譚せいこうたんなどではない。

 運よく、あるいは悪運強く、その場凌ぎで、騙し騙し、いつ潰れてしまうのかとその瞬間に怯えながら、からくも繋げてきただけなのだ。

 ただ、ひとつだけ、はっきりと言えることがある。

 私は、自分の選んできた人生を後悔はしない。

 不安定になるだろうと思い、実際にそうなっているけれども、何度同じ瞬間が訪れても、私は、その都度なんだかんだといろいろな言い訳をしながらも、やはり小説家になっただろう。

 なぜなら――


「――先生、先生」

 私へ呼びかける声がようやく意識に届いて、そこで初めて私は自分が物思いに沈んでいたことに気が付いた。慌てて座りを直し、「ああ、はい」と視線を上げる。

「すみません、何のお話でしたっけ」

 都内某所は喫茶店、私の向かい側に並んで座るのは、ふたり。中年女性と、新卒らしい青年だ。ふたりは某文芸誌の記者で、私の新作発表に向けての取材に来ていたのだった。

「いえ、これで取材の方はほとんど終わりになりますので、そのことを」

「ああ、そうでしたか」

 軽い音をひとつ、手帳を閉じた青年は、ようやく仕事を終える安堵に気が緩んでいるのだろう。初めに会ったときよりも表情が和らいでいる。彼は見かけ通りの新人で、私が初取材だったのだそうだ。隣に座る女性が、これまでにも何度か私に取材に来た見知りの記者で、新人君を監督に来ている。

 では、と席を立つ。コーヒー代は向こうが持ってくれる。さすがにそのあたりは教育が行き届いているのか、自然な流れで新人君が伝票を手に取った。

「本日は、取材にお付き合いくださり有り難うございました」

「いえ、こちらこそ。記事の方、楽しみにしていますよ」

 丁寧に低頭ていとうする新人君に、軽く手を振って返す。彼のような記者たちが、文芸誌などで取り上げてくれることで私の書籍の売り上げも変わっていく。今の世の中は決して、書き手の実力だけでは生きていけない。才能に不安のある私のような人間にとっては有り難い話だが、世知辛せちがらく思いもする。

「それで、その……ひとつ、これは個人的にお伺いしたいことなのですが」

 やや声を落として、新人君が言う。女性記者は何も言わないし、私も視線で返す。彼は、やや迷うように視線を彷徨わせた後、こう私に訊いた。

「先生は、どうして小説家になられたのですか」

 私は、すぐには答えなかった。取材の最後にぼんやりしてしまったのは、そう、そのことについて考えてしまっていたからだ。

 いろいろな思いがある。明日への不安や、自分への不信がある。けれど、そんなものを全て度外視して、私はこう答える。

「読んでもらいたい人が、いるんですよ」

「読んでもらいたい……それは、ご家族ですか?」

 新人君の言葉に、まさか、と私は首を振る。実家とは少なくない軋轢あつれきがある。私の就職などとはまるで関係なく、もっと泥臭い軋轢が。

 では一体、と首を傾げる新人君に向けて、私は小さくんでみせた。できるだけ、寂しげにならないように気を付けながら。

「私が誰よりも大切に思っている人ですよ」


 この世のどこかで、あの人が私の小説を読んでくれていたら、そのときは本当の意味で、私は人生の賭けに勝ったと言えるだろう。大きく、胸を張って。


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