小さい方、大きい方(後編)
「な、情けない・・・」
ここ六日。大きい方は負け続けだった。
自分より幾つも年下の相手に負けることは、大きい方の自尊心をかなり傷つけていた。
大きい方は肩を落とし、慣れない運動で既に筋肉痛になった腕を少し揉んだ。
なんとなくまた会うようになった彼らは、同じ場所、同じ時刻に会うようになっていた。
今日はなんとか勝ちたい、と大きい方は手に馴染み始めた棒を握る。何本かはとっくに折れてしまったので、これは何代目かもわからない。
―――いい加減体裁を保ちたいものである。
大きくため息をついて、億劫そうに大きい方は立ち上がった。いつもは来る時間なのに小さい方はまだ来ていない。
時間は深夜だ。冷たい風が顔を撫でて、小さく大きい方は息を零した。
「体が冷え切らないようにしないとな」
棒を振ろうと構える。
ざわりと心が波立つのを感じた。
小さい方が来ないから、というのもあるが、大きい方にもう時間は残されていなかった。
与えられた“療養期間”は、もうあと一日。日が昇り、そして再び沈む頃には馬車に乗って帰路につかなければならない。
たった一週間しか与えられなかった、と嘆くべきか。それともこの忙しい時に一週間もくれて感謝をすべきなのか。
自嘲の笑みを口に刻み、大きい方は棒を振った。
―――今日、決めなければならなかった。
モルガナを、試すのかどうかを。
今日を逃せば、もうこれを飲む機会は来ないだろうとなぜか大きい方は確信していた。
棒を振り続け、小さい方の俊敏な動きをイメージする。どうすれば、あのすばしっこい子供に負けを認めさせられるだろうか。
汗がシャツに濃い染みを作ったところで、動きを止めた。
はぁはぁと荒い自分の呼吸が耳触りだ。静かすぎる丘には、大きい方と白い花があるばかりだ。それをじっと見つめる。
――――モルガナに似た白い小さな花は、自分の決断を催促しているように思えた。
「おそい、な」
ぽつり、と言葉を零す。
明確な約束をしたわけではないから、もう来ないつもりなのだろうか。責められはしないが。
―――今日が最後なのに。
「・・・僕は女か」
なぜあの小さいのをこんなにも気にしているのか。
もしかしたら、今日の勝負で自分は決めるつもりでいるのかもしれない。
―――来なかったら、どうしようか。
ぼうっとその紫の瞳の奥に、暗い光が宿った。
しかし直後に聞こえてきた草を踏みしめる音に、大きい方は振り返った。
小さい方がおぼつかない足取りで近づいてくるところで、ぎょっとして大きい方は駆け寄る。
近くに行き、小さい方がふらふらしている理由を目の当たりにして大きい方はその場に縫いとめられたかのように動けなくなった。
――――紫だった腕が、どす黒くなっていた。
その麗しい顔にも、無数の擦り傷が。
「増えて・・・いないか?」
「・・・・」
「君、やっぱり・・・!」
何かされているのではないか、と大きい方が顔を上げた先にあったのは、これ以上ない笑顔だった。
「・・・じぶんから、たのんだの」
「な、」
「つよくなりたいって」
目を見開いた大きい方は一瞬強く小さい方の腕を握り、体を強張らせた。
やがてぎゅっと目を閉じ、何かに耐えるように深く息を吐く。
そして、儚げな笑顔をそっとその顔に浮かべた。
「―――君は、凄いな」
その笑顔に一瞬呆けたように小さい方が固まったが、目をぱちぱちと数度瞬くと、慌てて手を振り払った。
痣にあたってか、一瞬顔を歪めよろめいた小さい方に思わず大きい方が手を伸ばすが、再び払う。
「や、ろう」
その若干赤い頬を隠すかのように小さい方は言葉を放つ。
ふらふらと棒を握った小さい方が距離を取ろうと歩きだしたが、それを大きい方が腕を掴んでひきとめた。
「今日は、やめよう」
「―――な、ん」
「僕の負けだよ」
―――僕の、負けなんだ。
なにかを振り切ったような清々しい顔だった。
大きい方は膝をつくと、視線を小さい方に合わせた。まだ背が足りないので、若干見上げる形となるが。
「僕は、帰らなきゃいけないんだ」
「え」
「今日の夕方には、ここを発つ・・・・・六日だけだったけどありがとう」
「や、だ」
駄々を捏ねる子供のように小さい方は頭を振った。愕然としたように膝のあたりの服を掴む。
「―――きらい?だから、かえるの?がんばるから、がんばるからみすてないでっ!!!」
劈くような悲鳴だった。ぽろ、と涙が零れる。
その一瞬で、大きい方は小さい方の闇を垣間見た気がした。
たった六日だが、こんなにも恐れた目をした小さい方を大きい方は知らなかったのだから。
「―――見捨てたりなんかしていないよ」
「・・・でも」
「僕は、僕の役目を果たしに帰るだけだ」
「また、くる?」
潤んだ瞳で見上げてくる小さい方に、大きい方は顔をくしゃりと歪める。
自分のこれからを思うと、次にここを訪れるのはいつになることか分からなかった。嘘も方便、という言葉が頭をすり抜けたが、それは小さい方に対して失礼だと思った。正直に言うべきだ。
「分からない」
「・・・」
むすっとした小さい方に、大きい方は苦笑し、おそるおそる手をその頭に乗せた。ぎこちなくその髪を撫でる。
びっくりしたらしい小さい方は、瞬きを繰り返した後、気持ち良さそうに破顔した。その顔を満足げに眺め、また思わずといった具合に零れた涙を指ですくう。
そのまま思いきってぎゅっと抱きしめて、その背をあやす様に摩った。
その態勢のまま大きい方は口を開いた。
「―――ねぇ、僕のお嫁さんになってっていったら、どうする?」
顔を見て言えないなんて、なんとも情けない聴き方だと苦笑したが、これが大きい方の精一杯だった。
きょとんとした小さい方は不思議そうに首をこてんと傾け―――仰天するようなことを言ってのけた。
「おむこさんは、おにいさまよりつよくないといけないの。とぅーらより、かあさまより、ねぇさまより、とおさまよりだよ!」
「――――誰がそんなこと?」
「みんなっ!」
本気と書いて、マジと読む。
嘘を言っているように見えないあどけない笑顔に、今度ばかりは卒倒しそうになった。
この年で自分はこの子さえ満足に倒せないのに、おそらくこの子を鍛えているであろう人物たちを総なめにしなければならないらしい。
―――本気で、がんばろう。
大きい方の中に、強い強い決意が芽生えた瞬間だった。
弱いと、何も手に入らない、それが身にしみたとでも言えばいいのか。
苦笑して大きい方は撫でていた手で、今度はその小さな手を取った。きょとんとした顔に、警戒心というものはない。
・・・うーん、これは少し不安だ。
それにまた苦笑しながら、大きい方はゆっくりと地面に付けていた片膝を上げて、正式な型で跪く。
「君に誓う。必ず君に誇れる国を造ると―――」
ありがとう。
僕にこれを使わせないでくれて。
今日はポケットに忍ばせてある兄の遺品を思う。
兄はこれを持っていながら、最後まで使わなかった。その在り処を教えてくれたあの紙は、きっと死期を悟った兄が置いたのだろう。
いったいどんな気持ちで兄がこれを手に入れ、そして使わなかったのか。
今はもうその正確なところを推し量ることはできない。
けれど、自分はもうこれを使おうとは思わないだろう。
この日を忘れない限り。
病魔に苦しめられた兄が、それでも最後までこれを使わなかったように。
「ああ、そうだ。置き土産をしていかなくちゃ」
きょとんとした小さい方に、大きい方はにやりと笑った。
――――いかに男が恐ろしいか、教えておかないとね。
そしてその日の暮れ時。
一台の馬車が小さな村を出発した。その後を五頭の馬が追随し、先頭にも三頭立っている。大所帯のそれが、どれだけ重要な人物を乗せているのかを物語っていた。
人目を忍ぶように進むその馬車のカーテンがこっそりと押し上げられた。
そこから覗く紫の瞳が、ぼんやりと外を眺める。
「そういえば、あの館は誰のものなんだ?」
馬車の中に座った彼は、同席していた将軍に声をかけた。
彼がいう館は彼らが逢瀬に使っていた場所から最も近い建物だ。
各言う彼がその館を使わせてもらっていたのだが。
しかし着いたとき女中や小間使いはいたものの、主の姿は見えなかった。誰の持ち物かもその場で確認せず、結局礼の手紙だけを女中に預けてきたが。
恐らく主には会えない、しかし最も安全な場所だと彼の母は彼に言った。
だからとは言わないが、心身ともに疲れ切っていた彼は特に気にもとめずそこにいたのだが。
彼の問いに、やっとか、と言わんばかりに苦笑して同席していた将軍―――今の将軍バーデルードの師匠に当たる人物―――は頷いた。
「あれは『王の剣』の館でございます」
「『王の剣』?」
「ええ、王家を代々守る、伯爵の別荘でございますよ」
「伯爵・・・」
話を変えるように、将軍はひとつ咳払いをして彼に声をかける。
「王子、この一週間、王子の心身が健康に戻られましたこと、嬉しく思います」
「ああ、迷惑をかけた」
その言葉に将軍は目を見開く。
―――迷惑をかけた、などこの王子がいう日が来ようとは。
ここに来るときはまるで人形のように、全てに絶望した真っ暗な瞳を抱えておいでだったのに。
これが最後のチャンスと王と王妃が垂らした蜘蛛の糸を、しっかり彼は掴んだようだ。
一体何が切欠やら。
そんな将軍の胸中など知る由もない彼は、まだ名残惜しそうにその館の周辺を見つめている。
「―――構いませぬ。これしきの事―――何かよいことでもあられましたので?」
夜中に抜けだされていたようですが。
にやりと笑う将軍に、彼は苦虫を潰したかのような顔になった。ばれていたのか。
「あの辺りは安全です。少なくとも今は。ですから護衛の任の倦怠ではございませんよ?」
自由な時間が必要と存じ上げましたので。くすりと笑う将軍にぷいと彼は顔を背けた。何か気まずげなその顔は、これ以上語るつもりがないことを存外に語っている。
「―――しかし、何かを得られたならようございました」
「ああ・・・理由を得たよ」
「それはまた・・・何よりも変えがたいものでございますね」
「ああ・・・・あっ!!」
彼が何か浸っていると思ったら、驚いたように声を上げたので思わず将軍も腰の剣に手を添えて臨戦態勢を取った。
「っ何か?!」
「――――名前、聞くの忘れた」
はぁ?と呆れ顔の将軍に、絶望したかのように彼は頭を抱えた。
馬鹿か、僕は!
次いつ会えるかもわからないというのに、相手の名も、自分の名も告げていない。
―――まぁいいか。強かったし、『王の剣』の血族者か、村の者か。前者だと思うが―――探せばそのうち会えるだろう。
どこか抜けている彼の気性はその時も健在で、その後十六年まさか意中の人物に会うことどころかその片鱗が掴めないとは思いもしなかったはず。
各地に存在する王の剣の子孫の一人であるその人物は、ある人物からの男についての情報に恐れ戦き、その身を隠してしまう。
まさかあのように強い人物がまさか病弱で通っている、などと思いもしなかった彼は、長い年月を無駄に費やしてきたと言っていい。
―――灯台もと暗し。
そして幼かったその人物は絶対的な男への嫌悪だけはっきりと覚え込んでしまい、その大事な一週間のかの人物とを重ねることなどできず。
王も未だに最も大事なことを言わない聞かないの性分が治りきらず―――
このことを彼らが気づくのは、まだ先の話である。
「・・・・・・」
ぼんやりと目を開ける。
薄暗い部屋が、まだ朝方だということを彼に伝えてきていた。ベットは冷たく、彼以外の体温はない。また一人での目覚めである。凄く幼い時に横にいる人物を決めたはずだったのだが、と彼は嘆息した。
彼は小さく身じろぎすると、滑らかなシルクから身を起こした。
「・・・何の夢を見ていたのか」
確かに見ていた筈なのだが、と首を捻る彼は起き上がるとガウンを羽織る。
今一はっきりしない記憶は、霧がかっているかのようだった。
「大した夢でもなかったのか・・・?」
ふむ、と顎に手を当てると、薄らと髭が生えていた。
今日は彼女がやってくる日だ。情けない姿など晒せない。念入りに髭をそって髪を整えようと念頭に置きながら、彼は窓辺による。
とっくの昔に情けなさの頂点にあったころのことを知られているのも棚に上げて、いや思いださずに、彼はカーテンを開けた。
「あの条件のどこにひっかかってくれたのかな。全部?」
くすくすと笑う彼は、眼前で昇る太陽に眼を細めた。
―――そして彼女が、王城にやってくる日は始まった。
いろいろとありますが、活動報告にて。