いくとせをきみのそばにて
この世界に転がり込んで幾年月。いや、嘘だ。まだ幾年月というほどでもなく、俺が異世界転移に巻き込まれたあの日から二年くらいしか経っていない。たぶんそのくらいだ。
たかが二年、然れども二年、独り身の俺には特に元の世界に強い里心がつくこともなくわりにあっさり馴染んでいたが、こっちに慣れ親しんできた今だからこそ不意に湧き上がってくる一つの欲望があった。
「ざるそばが食べたい」
ここはよくある中世ヨーロッパに似たファンタジー世界だ。人々の名前や雰囲気からして、俺の知るところで言えば17世紀頃のフランス風って感じか。俺は料理研究家でも風土史研究家でもないから、その頃のフランスにすでにソバを調理して食べる文化があったのかは知らないが、こっちの世界に関してなら断言できる。
この世界に、蕎麦はない。魔法はあってもタデ科ソバ属の一年草はないのだ。だからざるそばという料理もない。
まずそもそも向こうでフランスにソバを伝えたはずの中国や中東に類する土地がここにはない。
俺が住んでいるのは温暖な草原が広がるゆったりした国だ。交易で繋がっている他国にも冷涼な山間部に暮らす民族がいないようで、オリエンタルな、エキゾチックな、純和風な蕎麦を食べていそうな文化が育っておらず、つまり俺はまず植物としてのソバを発見しなければ、ざるそばを食すことができないのだった――。
「というわけで我が保護者にして引きこもりの大魔術師ガブリエル君。ちょっと世界を飛び回って『タデ科』の植物を探してくれないか」
この世界で宿なし食なし何もなしとなった俺を善意で拾い、面倒を見てくれている隠遁魔術師の青年ガブリエルは、分厚い魔導書から顔を上げもせずに深いため息をついた。
「お前はまた、突拍子もないことを。タデ科とは何だ。魔法薬の材料か?」
「俺の魂の救済に必要な重要アイテムだ。寒冷地とか、痩せた土地に生えてる可能性が高い。お前のその便利な転移魔法で、サクッと頼むわ」
渋るガブリエルを「未知の植物から新しい魔力経路が発見できるかもしれないぞ」と適当な文句で唆し、俺たちは転移魔法による弾丸世界ツアーを敢行した。北の果ての凍てつく荒野へ、岩肌が剥き出しの切り立った山岳地帯へ。
ああ、何度吐き気を催す空間跳躍を繰り返しただろうか。
ついに前人未踏の北方の辺境、やせ細った岩だらけの土地で、赤い茎に白い可憐な花をつける植物の群生を発見した。
「あった! これだ、ソバの原種だ!」
「随分と貧弱な草だが……本当にこれが目当ての物なのか」
「たぶんな!」
「たぶんだと?」
早速ガブリエルに頼んで種を採取してもらい、家に持ち帰る。次の仕事は栽培である。
「これを増やせばいいんだな? まったく、人使いの荒い……」
文句を言いながらも根っから研究家気質なガブリエルは自ら裏庭に立ち、かつて王室から賜ったという由緒ある杖を振るった。
高度な自然魔法によって裏庭はソバの栽培向きの土壌となり、時間管理魔法によってソバの種は急成長を遂げた。
土から芽が顔を出し、茎が伸びて赤くなると白い花が咲いて、そして女子がきゃっきゃと「カワイー」とか適当に騒ぎそうな三角の形をした小さな実が結ばれる。
一面の白い花畑を前に俺は感動で打ち震えた。魔法ってやっぱりすごい。おかげで俺は異世界でざるそばを食えそうだ。
次は収穫と製粉、そして蕎麦打ちだ。俺はただの元サラリーマンのおっさんなのでソバの実をうまい蕎麦にする技術など持っていない。つまりまたしてもガブリエルに丸投げである。
「お前、いい加減にしろよ」
「まあまあまあ、頼むよ大魔術師ガブリエル君」
「その呼び方をやめろ」
ガブリエルの眉間のシワが限界まで深くなったが、やはり未知に対する探究心に負けたらしい。
彼の風魔法は脱穀と皮剥きを完璧にこなした。そして土魔法で作った石臼を重力操作で回してガブリエルは見事な蕎麦粉を挽き出してくれた。
「よし、これを麵状にするぞ! 水を加えながらひたすら捏ねて延ばして捏ねて延ばせ! ちなみに俺はコシが強いのが好みだからよろしく」
「なぜ私がこんなことを……」
ガブリエルの繊細な念動魔法は、向こうの世界の熟練の職人も青褪めるほどの絶妙な力加減で粉と水を混ぜ合わせ、捏ね、風魔法の圧力で均一に延ばしていった。
最後には水魔法で作った極薄の氷の刃でミリ単位の狂いもなく美しく切り揃えられた蕎麦が俺の目の前に現れたのだった。
「完璧だ。ガブリエル、お前は天才かもしれない。蕎麦屋になれるぞ」
「なりたくない。二度とやらん」
さあいよいよ茹で作業、これは楽しいから自力でやろうとうきうきで湯を沸かそうとしたところで致命的な欠陥に気づいた。気づいてしまった。
「そばつゆがないじゃねえか!!」
もちろんソバの実すらない世界に醤油があるはずもない。いや、べつにソバと醤油に直接の関連性はないが、とにかく和食の代表格なそれらはこの国にはないのだ。
「だがしかし大豆っぽい豆はある。小麦と塩もある。ガブリエル、これに……麴ってどうやって作るんだ。なんかこう、発酵を促進する魔法を使ってくれ」
「私はお前を元の世界に送還する魔法を本気で開発したくなってきたよ」
まさに狂気の沙汰だった。ガブリエルは適当な豆を魔法でペースト状にし、謎の酵母を培養して、時間加速魔法で無理やり熟成させるという、魔術の無駄遣いの極みによって醤油を完全に再現した。この才能が隠遁生活を送ることを許されている事実こそ平和の証だな、まったく。
ちなみに出汁は港町で買ってきた干し魚を水魔法で急速抽出して誤魔化した。そうしてついに、なんちゃって醤油ベースのそばつゆが完成したのである。
テーブルの上には氷魔法で冷やされたざるそばが鎮座している。俺が茹でたので、自分で作ったと言っても過言ではないだろう。怒られそうだから言わないが。
ガブリエルが風魔法で削り出して作った箸を持つ手が震える。蕎麦をつかみ、つゆに半分ほど浸して、遠慮なく音を立てて一気に啜る。
「……ッ!!」
美味い。蕎麦の香りが鼻を抜ける。そばつゆの絡み方も素晴らしい。二年と少しぶりに、あの懐かしい立ち食いそば屋の喧騒を思い出した――。
「なんだ、泣くほど美味いのか?」
呆れ顔のガブリエルもフォークで器用に蕎麦を巻き取り、口に運んだ。ざるそばをフォークで食うのは個人的にちょっと気に入らんが、まあこれもインバウンドというやつだ。俺に蕎麦を食わせてくれた恩もあるし、特別に許してやろう。
もぐもぐと咀嚼し、そしてガブリエルは硬直した。
「苦労したわりに奇妙な味だ。端的に言うと不味いな」
「あ?」
「お前の世界ではこんなものが珍味なのか」
「べつに珍味じゃねえよ。庶民の味だ」
まあ、無理もないか。ガブリエルは見るからに顔色が悪くて朝も弱い低血圧気味の吸血鬼みたいな男だ。ルチンが豊富で血圧を下げる効果があるとも言われる蕎麦は、本能的に彼の体が好まないのかもしれない。
俺は残りの蕎麦を一人ですっかり平らげ、蕎麦湯もどきを飲みながらため息とは違う息をほっと吐き出した。
頭の中に描く故郷の情景は、駅前の立ち食い蕎麦屋から、俺が若い時に潰れてしまった老舗の本格蕎麦屋の店内へと移っていた。
蕎麦屋で食うカレーって美味いよな。なんでだろう。蕎麦の繊細な香りを真っ向から掻き消す暴力的なスパイスの香り。なのに蕎麦屋には大体カレーライスがつきものだった。出汁が効いているからだろうか。
もちろんのこと、この世界にはレトルトカレーどころか固形ルーも、調合済みのカレー粉というものもない。そもそもカレーという概念(?)がない。
自作しようにもスパイスの名前さえ向こうとは違っているだろう。クミン、コリアンダー、ターメリック、それに類するものを探すのは至難の業だ。
でも、だからこそ。
「……なんか、カレー食いたくなってきた」
向かいの席で食後のハーブティーを飲んでいたガブリエルが、びくっと肩を震わせて俺から視線を逸らした。
「なあ、ガブリエル君」
「聞こえん。私はこれから瞑想に入る」
「黄色くて辛くてスパイシーな粉、俺と一緒に探さない?」
「断る!!」
俺と大魔術師の異世界食道楽は、まだ始まったばかりである。




