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第五話 一球だけ、未来を見た(第一部・完)

約束の時間より、少年は少し早く家を出た。

母は何も聞かなかった。兄も、声をかけなかった。

家の中には、いつもと同じ朝が流れていたが、少年だけがそこから半歩ずれている気がした。

路地を抜けると、空気が変わる。舗装された道は硬く、足音がはっきりと返ってくる。

自分がどこを歩いているのか、否応なく分からされる。

昨日と同じグラウンドに着くと、すでに何人かの少年が集まっていた。

服はばらばらで、年齢も揃っていない。だが全員、手にしているものだけは同じだった。

バット、グローブ、そして硬いボール。

誰かが言った。

「今日はクリケットだ。遊びじゃないぞ」

その言葉を聞いた瞬間、少年の中で何かが静かに整った。

路地でやってきたことに、初めて名前が与えられた気がした。

昨日の男は、名前を呼ばなかった。番号も、細かい指示もない。

ただ、ボールを渡し、順に打たせた。少年の番が来るまで、長い時間があった。

その間、他の打球を見ていた。高く上がるボール。鋭く伸びる打球。

路地では見たことのない角度と距離。自分がやってきたのは、同じクリケットなのか。それとも、まったく別のものなのか。

少年には、まだ分からなかった。


順番が来た。

本物のクリケットボールを握ると、縫い目が指に食い込んだ。

テニスボールとは違う重さが、はっきりと伝わってくる。

構える。壁はない。ウィケットは遠く、線はすでに引かれている。

投げられたボールは速かった。少年は一瞬、振り遅れた。

次の球は低い。体が先に動いた。

路地で覚えた角度が、そのまま出た。

——鈍い音。

打球は地面を転がり、境界線の内側で止まった。

評価はない。誰も声を上げない。

もう一球。

男は短くうなずいた。少年は深く息を吸った。

白い壁。

何度も返ってきた音。一人で続けてきた、名前のない時間。

振る。音が違った。

打球は伸び、クリケットの境界線を越え、ネットに当たって止まった。

歓声はなかった。だが少年は、その瞬間に分かった。

ここでは、ボールは返ってこない。

そして、返ってこないからこそ、意味がある。

男はメモを閉じて言った。

「今日はここまでだ」

合否も、約束もない。それでも、少年はそれがクリケットの入り口だと理解していた。

帰り道、少年は路地に入る手前で足を止めた。

いつもの匂い、いつもの声。いつもの世界。

だが、そこに戻れば、自分はまた“名前のない打ち方”に戻る。

夜。少年は一人で外に出た。

路地の壁に向かい、ボールを投げる。振る。

——コン。

同じ動き。

だが、もう違う。これは、クリケットだ。ただし、ここでは誰もそう呼ばない。


最後にもう一球だけ、少年はボールを投げた。

そして振った。

打球は壁に当たり、いつもより遅れて戻ってきた。

そのわずかな空白のあいだ、少年は昼間のグラウンドを思い出していた。

ネット、線、返ってこないボール。

誰も声を上げなかった、あの静かな場所。

壁際に立てかけた木片を手に取ろうとして、少年は動きを止めた。

今日、あの男が言った言葉が、遅れて胸に落ちてきた。

「次は、曜日を空けておけ」

合否でも、約束でもなかった。ただの予定だった。

だがそれは、路地の外に時間を割り当てられたという意味だった。

少年は木片をそのまま壁に残した。

代わりに、昼間に渡された硬いボールを握る。

縫い目が、はっきりと指に当たる。

路地の向こうで、誰かが少年の名前を呼んだ。聞き慣れた声ではない。

だが、聞き間違いでもなかった。少年は振り返らなかった。返事もしなかった。

ただ一度、境界線の石を見下ろし、それがもう「戻るための線」ではないことを確かめた。

路地は相変わらず狭い。だが、そこから出ていく時間が、もう少年の中で動き始めていた。

次にバットを振る場所には、壁がない。少年は、それだけを知って家の中へ戻った。

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