第四話 嘘をついた日
朝の空気は、いつもより重かった。
湿り気を含んだ埃が、路地の奥に溜まって動かない。少年は家の戸口で立ち止まり、外へ出る前に一度だけ振り返った。
母は内職の準備をしていた。
糸を揃え、針を並べ、今日の分の袋を数えている。その動きは正確で、無駄がない。
それはこの家が生き延びるために身につけた速度だった。
「今日は?」
母が顔を上げずに聞いた。
「……すぐ戻る」
少年はそう言った。
“すぐ”が嘘だと分かっていても、別の言葉が見つからなかった。
兄はすでに出ていた。作業場へ向かう背中を、少年は見送らなかった。
見れば、止められる気がした。
路地を抜けた先に、昨日の男がいた。同じシャツ、同じ靴。
違うのは、今日ははっきりと少年を待っていることだった。
「来たな」
男はそう言って、初めて笑った。その笑顔は、路地の人間のものではなかった。
余裕があった。
「名前は?」
昨日は答えなかった。今日は、答えた。
男は頷き、少年を連れて歩き出した。路地を出る。舗装された道に足を乗せる。
それだけで、靴底の感触が違う。
車の音が近くなる。建物の高さが変わる。人の服の色が変わる。
少年は、歩きながら何度も後ろを振り返りそうになった。
戻る理由は、いくらでもある。だが、戻る場所は一つしかない。
連れて行かれたのは、小さなグラウンドだった。
柵があり、ネットが張られ、線が引かれている。すべてが、最初から決まっている場所だった。
「打ってみろ」
ボールは、本物だった。重さが違う。縫い目が指に引っかかる。
少年は、構えた。壁はない。返ってくる保証はない。
投げられたボールは速く、低かった。少年は一瞬遅れたが、体が勝手に動いた。
音が鳴る。路地とは違う、鈍い音。
打球は地面を転がり、境界線の内側で止まった。
「悪くない」
男はそう言った。それは評価だった。
二球目。
三球目。
少年は、少しずつ調整した。
壁で覚えた角度。同じ場所を狙う癖。
三球目は、境界線を越えた。
男は何も言わなかった。
ただ、メモを取った。
「次は、ここに来い」
男は紙を差し出した。
日時と場所が書かれている。
「学校は?」
「行ってない」
「なら問題ない」
その言葉が、少年の胸に残った。“問題ない”と言われたのは、初めてだった。
家に戻ると、母が水を汲んでいた。
少年はバケツを取ろうとしたが、母は首を振った。
「いい。あんたは、もう出るんでしょう」
それが、どういう意味なのか、少年には分からなかった。だが、胸が少しだけ痛んだ。
兄は夜遅くに帰ってきた。顔に疲れが浮かび、靴を脱ぐ動作も荒い。
「明日、仕事がある」
兄はそう言ってから、少年を見た。
「お前は?」
少年は一瞬、言葉を探した。正直に言えば、止められる。止められれば、楽になる。
だが、昼間に言われた言葉が頭をよぎる。
“問題ない”。
「……手伝いがある」
嘘は、思ったより簡単に出てきた。喉も、声も、震えなかった。
兄は少年を見つめた。長い沈黙のあと、短く言った。
「分かった」
それ以上、何も聞かなかった。それが、この家の優しさだった。
夜。少年は眠れず、外に出た。
路地は静かで、壁だけがそこにあった。白い長方形は、昼間よりも薄く見える。
少年はボールを投げ、振った。音が返ってくる。
——コン。
いつもと同じ音。だが、今日は少し違って聞こえた。
嘘をついた。家族に。自分に。
その代わりに、線の向こう側へ一歩進んだ。
少年は、境界線の石を見た。動いてはいない。だが、もう越えるか越えないかではない。
戻るか、戻らないかの線になっていた。




