表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

第四話 嘘をついた日

朝の空気は、いつもより重かった。

湿り気を含んだ埃が、路地の奥に溜まって動かない。少年は家の戸口で立ち止まり、外へ出る前に一度だけ振り返った。

母は内職の準備をしていた。

糸を揃え、針を並べ、今日の分の袋を数えている。その動きは正確で、無駄がない。

それはこの家が生き延びるために身につけた速度だった。

「今日は?」

母が顔を上げずに聞いた。

「……すぐ戻る」

少年はそう言った。

“すぐ”が嘘だと分かっていても、別の言葉が見つからなかった。

兄はすでに出ていた。作業場へ向かう背中を、少年は見送らなかった。

見れば、止められる気がした。

路地を抜けた先に、昨日の男がいた。同じシャツ、同じ靴。

違うのは、今日ははっきりと少年を待っていることだった。

「来たな」

男はそう言って、初めて笑った。その笑顔は、路地の人間のものではなかった。

余裕があった。

「名前は?」

昨日は答えなかった。今日は、答えた。

男は頷き、少年を連れて歩き出した。路地を出る。舗装された道に足を乗せる。

それだけで、靴底の感触が違う。

車の音が近くなる。建物の高さが変わる。人の服の色が変わる。

少年は、歩きながら何度も後ろを振り返りそうになった。

戻る理由は、いくらでもある。だが、戻る場所は一つしかない。


連れて行かれたのは、小さなグラウンドだった。

柵があり、ネットが張られ、線が引かれている。すべてが、最初から決まっている場所だった。

「打ってみろ」

ボールは、本物だった。重さが違う。縫い目が指に引っかかる。

少年は、構えた。壁はない。返ってくる保証はない。

投げられたボールは速く、低かった。少年は一瞬遅れたが、体が勝手に動いた。

音が鳴る。路地とは違う、鈍い音。

打球は地面を転がり、境界線の内側で止まった。

「悪くない」

男はそう言った。それは評価だった。

二球目。

三球目。

少年は、少しずつ調整した。

壁で覚えた角度。同じ場所を狙う癖。

三球目は、境界線を越えた。

男は何も言わなかった。

ただ、メモを取った。

「次は、ここに来い」

男は紙を差し出した。

日時と場所が書かれている。

「学校は?」

「行ってない」

「なら問題ない」

その言葉が、少年の胸に残った。“問題ない”と言われたのは、初めてだった。

家に戻ると、母が水を汲んでいた。

少年はバケツを取ろうとしたが、母は首を振った。

「いい。あんたは、もう出るんでしょう」

それが、どういう意味なのか、少年には分からなかった。だが、胸が少しだけ痛んだ。

兄は夜遅くに帰ってきた。顔に疲れが浮かび、靴を脱ぐ動作も荒い。

「明日、仕事がある」

兄はそう言ってから、少年を見た。

「お前は?」

少年は一瞬、言葉を探した。正直に言えば、止められる。止められれば、楽になる。

だが、昼間に言われた言葉が頭をよぎる。

“問題ない”。

「……手伝いがある」

嘘は、思ったより簡単に出てきた。喉も、声も、震えなかった。

兄は少年を見つめた。長い沈黙のあと、短く言った。

「分かった」

それ以上、何も聞かなかった。それが、この家の優しさだった。


夜。少年は眠れず、外に出た。

路地は静かで、壁だけがそこにあった。白い長方形は、昼間よりも薄く見える。

少年はボールを投げ、振った。音が返ってくる。

——コン。

いつもと同じ音。だが、今日は少し違って聞こえた。

嘘をついた。家族に。自分に。

その代わりに、線の向こう側へ一歩進んだ。

少年は、境界線の石を見た。動いてはいない。だが、もう越えるか越えないかではない。

戻るか、戻らないかの線になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
Episode 4 — To the Other Side of the Line The boy leaves the alley for the first time. Paved roads…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ