第三話 家族は、味方ではなかった
家の中は昼でも薄暗かった。
屋根の隙間から落ちる光が、床に不規則な斑点を作っている。
少年はその光を避けるように、壁際に座って靴紐を結び直していた。
ほどけてはいない。ただ、外に出る理由が欲しかった。
兄は、すでに作業着を着ていた。
肩の縫い目が少し裂けていて、そこから綿が覗いている。
昨日より、さらに古く見えた。
「今日は行くのか」
兄は、少年を見ずに言った。
声に感情はない。怒っているわけでも、心配しているわけでもない。ただ、確認だった。
「……少しだけ」
少年が答えると、兄は手を止めた。
ほんの一瞬だが、それだけで空気が変わる。
「少し、ってのは何だ」
少年は黙った。時間で答えると嘘になる。内容で答えると、もっと嘘になる。
母は奥で内職をしていた。糸を引き、結び、また引く。その動きは一定で、会話に入る気配はない。
この家では、問題は大きくならないうちに黙ってやり過ごされる。
「昨日、あの路地に変な男がいた」
兄はそう言って、ようやく少年を見た。視線は鋭いが、責める色は薄い。
「靴がきれいだった。ここに来る人間じゃない」
少年は、昨日見た男のことを思い出した。何も言わず、ただ見ていた目。
「次も来い」という短い言葉。
「何か言われたのか」
「……何も」
兄は息を吐いた。それはため息ではなく、仕事で慣れた呼吸の調整のようだった。
「お前は、向こう側の人間じゃない」
その言葉は、強くも弱くもなかった。事実として置かれただけだった。
少年は言い返したかった。昨日、自分が何をしたか。どんな打球だったか。
境界線を越えた瞬間、何が変わったか。
だが、兄の手を見てしまった。指の皮は硬く、爪の間に黒い汚れが残っている。
それは、毎日触れている現実の形だった。
「仕事、減ったんだろ」
少年が言うと、兄の眉がわずかに動いた。
母の手が止まり、また動き出す。
「誰に聞いた」
「……昨日」
兄は何も言わなかった。否定もしなかった。
「減ったのは、俺のせいじゃない」
そう前置きしてから、兄は続けた。
「だが、増えることもない。ここでは」
“ここでは”という言葉が、家全体を指しているように聞こえた。
少年は立ち上がり、壁に立てかけた木片を手に取った。
それを見て、兄の視線が鋭くなる。
「それで、何になる」
「分からない」
「分からないことに、時間を使う余裕はない」
兄の声は、父よりも現実的だった。父は黙るが、兄は数字で話す。
「俺が働いているのは、夢を見るためじゃない。食うためだ」
少年は、胸の奥が詰まるのを感じた。反論が見つからない。どれも正しいからだ。
「昨日、越えたんだ」
思わず口をついて出た言葉に、部屋の空気が止まった。
「何を」
「線を」
兄はゆっくりと瞬きをした。
「越えたから、何だ」
少年は答えられなかった。越えた先に何があるのか、まだ見ていない。
兄は立ち上がり、少年の前に立った。背はそれほど変わらない。
だが、重さが違う。
「越えるな。戻れなくなる」
それは忠告だった。脅しではない。
少年は、うなずかなかった。かといって、首を振ることもできなかった。
外に出ると、路地は昼の音を立てていた。
誰かが油を売り、誰かが怒鳴り、誰かが笑う。
少年は、壁の前に立った。
白い長方形は、少し剥げている。
投げる。
振る。
——コン。
いつもと同じ音。だが、胸の奥が重い。兄の言葉が残っている。
越えるな。戻れなくなる。
少年は、境界線の石を見た。動かされてはいない。だが、昨日より小さく見えた。
少年は、もう一度構えた。
今度は、壁ではなく、線の向こうを見て。




