第二話 越えてはいけない線
翌朝、少年は井戸へ行かなかった。
水は兄が運んだ。何も言われなかったが、それが許可ではないことは分かっていた。
路地に出ると、昨日と同じ音がすでに鳴っていた。
——コン。
——コン。
少年は足を止めた。壁に向かって打つ音ではない。
誰かが、人に向かって打っている音だった。
「来たぞ」
声が飛ぶ。少年は何も答えず、境界線の内側へ押し込まれた。
今日は、ちゃんとした試合だった。人数も揃い、順番も決まっている。
ボールは相変わらずテニスボールだが、昨日より新しい。
境界線の石は、そのまま置かれていた。
越えたらアウト。越えなければ、生き残る。
「昨日みたいに振れよ」
誰かが言う。期待の声だった。それが、少年には重かった。
ボールが来る。昨日より速い。昨日より高い。
少年は一瞬、壁を思い浮かべた。白い長方形。返ってくる音。
振った。
——乾いた音。
打球は低く、速く、境界線の手前で弾んだ。アウトにならない。
「安全だな」
笑い声が上がる。少年は息を吐いた。
次の球。
同じ高さ。同じ速さ。
少年は、わずかにバットの角度を変えた。
——音が違った。
打球は伸び、石の線を越え、さらに先へ転がった。路地の出口近くで止まる。
一瞬の沈黙。そのあと、ざわめき。
「まただ」
三球目。
四球目。
越える。
越える。
昨日と違うのは、皆がそれを待っていることだった。
「境界線、動かすか?」
誰かが言った。冗談のような声だった。
だが、石は動かなかった。動かせば、別の線が必要になる。
線を増やすと、誰が内側で誰が外か、分からなくなる。
路地は、そういう場所だ。
少年は気づいていた。自分が打つたびに、誰かの表情が変わっていくことに。
羨望。焦り。苛立ち。そして、計算。
「名前は?」
昨日と同じ質問。今日は逃げられなかった。少年は小さく答えた。
それを聞いた誰かが、覚えたように頷いた。
試合が終わる頃、路地の入口に知らない男が立っていた。
シャツはきれいで、靴も新しい。場違いだった。
男は何も言わず、しばらく見ていた。少年が打つところを。
「お前」
声をかけられ、少年は振り返った。
「次も来い」
それだけだった。名刺も、約束もない。だが、その言葉は、父の沈黙よりも重かった。
家に戻ると、母が聞いた。
「今日は早いの?」
少年は首を振った。早くはない。ただ、遅くなれなかった。
兄は黙って飯を食べていた。箸の動きが速い。
「仕事、どうだった」
少年が聞くと、兄は一瞬だけ顔を上げた。
「減った」
それだけだった。
夜。少年は眠れなかった。境界線の石が、頭の中に浮かぶ。
越えたら、アウト。越えなければ、ここにいられる。
だが、越えてしまったら。もう、同じ線は引けない。
外に出ると、路地は静かだった。
壁は、そこにある。少年はボールを投げ、打つ。音が響く。
——コン。
壁は返してくる。だが、人は返してこない。
少年は、境界線の向こうを見た。路地の出口。その先は、見えない。
「越えるな」
誰かの声がした気がした。父か、兄か、それとも昨日の自分か。
少年は、もう一度振った。打球は、境界線を越えた。音は、戻ってこなかった。




