第一話 路地は、世界より狭かった
朝、少年は水を運ぶところから一日を始めた。
金属のバケツは縁が歪み、持ち手が指に食い込む。
井戸は遠く、順番を待つ間に学校へ行く子どもたちが横を通り過ぎていく。
制服の色は、少年の家の壁よりも明るかった。
母は言った。「急ぎなさい。水がこぼれる」
少年はうなずいた。
水をこぼせば、また汲みに戻らなければならない。それは時間の無駄で、時間はそのまま金にならない。
家は、三人が横になればいっぱいになる広さだった。父は朝からいない。
兄は靴紐を結びながら、黙って外を見ていた。兄は働いている。
それだけで、この家では“正しい側”の人間だった。
少年が外に出ると、路地はすでに起きていた。
油の匂い、埃、遠くのクラクション。そして、乾いた音。
——コン。
路地の奥で、誰かがボールを打っている。テニスボールだ。
本物のクリケットボールは、ここには来ない。
少年はその音に引き寄せられるように歩き、路地の途中で立ち止まった。
壁がある。白く塗られた長方形。剥げかけているが、まだ“ウィケット”だと分かる。
少年は、そこに向かって何度もボールを投げてきた。
学校に行かない理由は、いくつもある。だが、ここに立つ理由は一つしかない。
ここだけが、何も要求してこない。
バットはない。拾った木片。角は丸く、手に馴染みすぎている。
投げる。
跳ね返る。
打つ。
——コン。
同じ音。同じ高さ。同じ場所。
少年は、毎回同じ点を狙っていた。
壁のひび割れ。広告の端。誰も気にしない、わずかな凹み。
「おい」
振り返ると、年上の少年たちがいた。裸足の者、靴の底が剥がれた者。
全員、試合をする気でいる。
「人数が足りない」
それは頼みではなかった。ここでは、足りないものは補われる。
拒否権はない。即席の境界線が、石で引かれている。
越えたらアウト。越えなければ、生きていける。
少年は、境界線の内側に立たされた。
投げられたボールは速かった。肘が下がり、体重が前に流れる。
素人の投げ方だが、勢いだけはある。少年は考えなかった。
考える時間は、貧しさの中では削られる。
振った。
——乾いた音。
打球は低く伸び、石の線を越え、さらに向こうへ転がった。
誰も声を出さなかった。
「……越えたな」境界線を。
少年は、息を止めたまま立っていた。手のひらが、じんと痺れている。
二球目。
三球目。
越える。また越える。
路地の空気が変わった。人が集まり、誰かが名前を聞いた。
少年は答えなかった。名前を言えば、ここが居場所でなくなる気がした。
家に戻ると、父がいた。仕事は早く終わったらしい。
「何をしていた」
少年は、壁を思い浮かべた。
白い長方形。返ってくる音。
「……何も」
父は、少年の手を見た。
傷。皮がめくれた指。
何も言わなかった。それが、この家のやり方だった。
夜。
祈りの声が遠くで聞こえる。少年は、誰にも言わずに外へ出た。
路地は昼より狭い。だが、壁はそこにある。
少年はボールを投げ、振る。
狙う場所は、もう決まっていた。境界線の、向こう。
打球は壁に当たり、戻ってくる。それでも、もう一度振る。
ここはまだ、路地だ。世界ではない。
だが少年は、越えてはいけない線があることと、越えてしまう線があることを、同時に知ってしまった。




