第六話 【闇の胎動】葵の御紋と、計算された噂
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加納屋の快進撃の陰で、どす黒い感情を煮えたぎらせる男がいた。
古参の丁稚、仙太郎だ。
かつては次期番頭と目されていた彼は、突如現れた吉兵衛にすべてを奪われた。主人の信頼、店の主導権、そして――店の一人娘・おふさの淡い恋心までも。
「あの野郎、絶対に何か裏がある……。ただの修験崩れが、あんな大層な知恵を持ってるはずがねぇ」
ある日の昼下がり。吉兵衛が商談で出払っている隙を突き、仙太郎は吉兵衛の部屋へ忍び込んだ。
狙うは部屋の隅に置かれた、厳重な鍵のかかった長持。
彼は合鍵を使い、震える手で蓋を開けた。中には着替えと、古びた桐箱が一つ。
「……なんだこれは?」
桐箱を開けた瞬間、仙太郎は息を呑んだ。
白鞘の短刀。その柄には、黄金に輝く「三つ葉葵」の紋。
そして、古文書には「吉宗」の花押。
「ひっ……!?」
徳川の、それも将軍家の品だ。
盗品か? それとも……まさか、あいつは……?
あまりの事態に腰を抜かした仙太郎は、慌てて箱を閉じ、長持を元通りにして部屋を飛び出した。
◇◇◇
夕刻。店に戻った俺は、自室に入るなり違和感を覚えた。
長持の前にしゃがみ込み、蓋の隙間を見る。
仕掛けておいた黒髪が、二本とも落ちている。
(……誰かが見たな)
俺は口元を歪めた。
怒りはない。むしろ、待ち望んでいた瞬間だ。
犯人は分かっている。最近、俺を見る目が泳いでいる丁稚の仙太郎だ。
俺は部屋の行灯を消し、暗闇の中で思考を巡らせた。
このまま仙太郎を始末するか? いや、下策だ。
俺は「将軍のご落胤」という噂を、自分の口を使わずに流布させたかった。自分から名乗れば「詐欺師」だが、他人が勝手に噂すれば「伝説」になる。
嫉妬に狂った仙太郎は、最高の拡声器だ。
翌日。俺は蔵の中で、わざと仙太郎と二人きりになった。
背後から近づき、耳元で低く囁く。
「……見たな?」
「ひっ!?」
仙太郎が飛び上がる。俺はあえて、凍てつくような冷徹な瞳で見下ろした。
「あの紋のことは忘れるんだ。……お前ごときが抱えられる秘密じゃない。もし他言すれば、公儀が動くぞ」
それは、「誰かに言いたくてたまらなくなる」ための呪いだ。
「言えば幕府に消される」という恐怖と、「あいつは本当は凄い奴なのかもしれない」という嫉妬心。この二つが混ざり合い、彼は酒の席や遊郭で、必ず口を滑らせる。
『加納屋の吉兵衛は、実は将軍様の子らしい』
『証拠の品を見たんだ』
この噂は「ここだけの話」として、爆発的に広がるだろう。
俺はニヤリと笑い、怯える仙太郎の肩を叩いて立ち去った。
◇◇◇
その様子を、物陰からじっと見つめる少女がいた。
加納屋の娘、おふさだ。
彼女は吉兵衛から読み書き算盤だけでなく、この世の経済の仕組み(帝王学)を叩き込まれていた。
聡明な彼女は、仙太郎の挙動不審と、吉兵衛の意図的な沈黙の意味を悟っていた。
「……吉兵衛さぁ。あんた、また悪い顔をしてたね」
おふさは、戻ってきた吉兵衛に小声で告げる。
「仙太郎を泳がせたでしょう? あれじゃあ、明日には城下中に噂が広まるわよ」
「おや、気付いていましたか」
「当たり前よ。あんたの教え子だもの」
おふさは悪戯っぽく笑うが、その瞳には強い光が宿っていた。
「いいわ。あたしも共犯になってあげる。……いつかあんたが本当に天下を取るなら、あたしはその隣にふさわしい女になってみせるから」
この娘、やはり只者ではない。
その覚醒もまた、この夜の黒い企みから始まったのだ。
そして数日後。
俺の計算通り、街中に広まった噂を聞きつけ、一人の男が接触してくる。
豊臣の亡霊、木下国松の末裔である。
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