第十五話 紀州の奇跡と、死にきれない奉行
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論戦に敗れた越前守の立場は、もはや風前の灯火だった。
「無実の御落胤を罪人扱いした」として、幕閣からは切腹を求める声が上がる。
越前は「急な病」と称して引きこもったが、それも時間稼ぎに過ぎない。
切腹の朝。
南町奉行所にて、大岡越前守は白装束を纏い、三宝の上の短刀を見つめていた。
傍らには倅・忠右衛門。
越前は、一縷の望みを託して紀州へ送った白石・吉田の帰りを待っていたが、刻限は迫っている。
「……父上、無念でございますか」
「無念だ。……あの男、天一坊。嘘をついているのは明白なのに、その嘘が国を救う真実になりつつある」
その時、門を叩く激しい音が響いた。
白石と吉田が、泥だらけで転がり込んできたのだ。
「お、お奉行様ーッ!!」
「戻ったか! どうだ、天一坊が悪人である証拠は! 奴が人を殺し、なりすました証拠は出たか!?」
越前守が身を乗り出す。
だが、二人の同心は、絶望的な顔で首を横に振った。
「それが……逆でございます」
「は……?」
「奴は、紀州では神童と呼ばれておりました」
白石が報告する内容は、越前の期待を粉砕するものだった。
――紀州平沢村。
かつて貧しかったこの村は、今や「浄化炭(紀州備長炭)」の産地として潤っていた。その製法を授けたのが、幼き日の天一坊(源氏坊戎行)だという。
母親代わりの「おさん」を最期まで手厚く看病し、死に水を取り、立派な墓を建てている。
師匠の感応院も健在で、「あやつはワシより賢い。仏の生まれ変わりじゃ」と涙ながらに語ったという。
獣の血? 偽装死? そんな小細工の痕跡など微塵もない。彼はただ、村人に惜しまれながら「父を探しに行く」と旅立っただけだ。
「つまり……奴は、孝行者で、村を救った英雄で、殺しなど一つもしていない……だと?」
「はい。調べれば調べるほど、感謝の声しか聞こえてきませぬ……!」
越前守は愕然と腰を抜かした。
悪党ではない。ただの詐欺師でもない。
「徳川の血を引くと思い込んでいる天才」という、さらに始末の悪い存在だったのだ。
さらに追い打ちをかけるように、大坂から早馬が届く。
『堂島にて相場が暴落。数軒の大店が破綻しかけたが、天一坊様の考案した【値洗い】と【追証】の仕組みにより、連鎖倒産は回避された。大坂商人は天一坊様を「商いの神」と崇めております』
万事休す。
論理で負け、証拠探しで墓穴を掘り、経済実績でも完全敗北。
越前守に残された道は、己の不明を恥じて腹を切ることのみ。
「……介錯を頼む」
越前が震える手で短刀を握った、その瞬間だった。
「待て待て。早まるな、越前」
白州の砂利を踏みしめ、悠然と現れた男がいる。
天一坊だ。
「貴様……! わしを笑いに来たか!」
「笑う? とんでもない。……人材の損失を防ぎに来たんだ」
俺は越前の手から短刀を取り上げ、放り捨てた。
「越前。お前は俺を疑った。徹底的に調べ上げた。……その執念、見事だ」
「な、何を……」
「俺が将軍になった暁には、追従者はいらん。お前のように、権力におもねらず、間違っていると思えば噛み付いてくる御目付役が必要なんだ」
俺は越前に手を差し伸べた。
「死ぬな。生きて俺を監視しろ。俺が道を踏み外したら、その時こそ腹を切らせればいい」
越前守は呆然とし、やがて男泣きに崩れ落ちた。
これを物陰から見ていた吉宗公(お忍び)は、深く頷いたという。
「……敵を許し、臣下に加えるか。家康公の再来か、こやつは」
貴重なお時間を頂きありがとうございました。
いよいよ、次回、父・徳川吉宗との、最初で最後の「親子喧嘩」です。




