第十四話 網代問答~論破される名奉行~
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翌朝。江戸の空は、嵐の前の静けさのように重く淀んでいた。
水戸藩主・徳川綱條が、瀕死の病躯をおして登城し、「御落胤問題を蔑ろにするは、徳川の血への冒涜である!」と吉宗にねじ込んだのだ。
これにより、大岡越前守忠相の閉門は急遽解かれ、南町奉行所にて天一坊再吟味が行われることとなった。
場所は、罪人を裁くお白州。
だが、その空気は通常の裁判とは異質だった。
上座には、鬼の形相の大岡越前。
下座には、涼やかな顔で座す天一坊。その背後に参謀・伊賀之亮、そして武官の赤川・藤井が控える。
周囲を固める与力・同心たちは、固唾を飲んで見守っていた。
カァン!
越前が扇子で台を叩き、静寂を破った。
「これより、天一坊一行の吟味を行う。……心して答えよ」
「まず問う。其の方、自らを上様の御落胤と申すならば、何ゆえ直ちに江戸へ参らなんだ? 伊予から京、大坂と、無為に西国を遊び歩いていたその真意、奈辺にある!」
越前の鋭い追及。通常なら「金がなかった」「準備していた」と言い訳するところだ。
しかし、天一坊は静かに笑った。
「越前殿。遊びとは心外な。あれは視察だ」
「視察だと?」
「左様。天下を治める将軍職に就かんとする者が、天下の台所・大坂の相場も知らず、京の朝廷の空気も知らずして、どうして政ができようか?」
天一坊は、陪席する幕臣たちを見渡した。
「江戸城の奥に座り込み、書類だけで世の中を知った気になっている無能な大名たちと同じにされては困る。
私は、この足で西国の経済の流れを見てきた。民の竈の煙を見てきた。
帝王学の実地研修を行っていた私を、職務怠慢と責めるか? 越前」
「ぬ……っ!」
(正論だ。吉宗公もまた、民情視察を好む。それを否定することは、上様を否定することになる……!)
越前は攻め手を変えた。
「……百歩譲ってそれは良しとしよう。だが、出家の身でありながら、刀・薙刀・長槍で武装し、大名気取りの行列を組んだのは何ゆえか! 僧兵を擁するは、謀反の兆しと見なされるぞ!」
これには、背後の山内伊賀之亮が、音もなく前に出た。
「お奉行様、言葉が過ぎましょう。これは*危機管理にございます」
「なに?」
「若君は、将軍家の貴重な血筋。万が一にも、野盗や不届き者に襲われ、玉体に傷がつけば、それこそ街道の治安を守れなかった幕府の責任になりましょう?」
伊賀之亮は、意地悪く畳み掛けた。
「本来なら、幕府が護衛を派遣すべきところ。それを我らは、自前の銭で傭兵を雇い、上様の御子を守り抜いたのです。
これを謀反と疑うより、むしろ警護費用を肩代わりした忠義と褒めていただきたいものですな」
「き、詭弁を弄するな……!」
越前の額に青筋が浮かぶ。
法的には灰色だが、論理的には完璧な自衛権の主張だった。
越前は、最後の、そして最大の「掟破り」を突いた。
彼は白州に置かれた、豪奢な駕籠を指差した。
「天一坊! 貴様の最大の罪は、その駕籠だ!
その飴色の『網代駕籠』は、上野の宮様か、御三家・御三卿にしか許されぬ高貴な物。
身の程もわきまえぬ町人の分際でこれに乗るとは、奢侈禁止令違反!こればかりは言い逃れできまい!!」
決まった。越前は確信した。
身分制度こそが江戸の根幹。これを犯せば即、処罰できる。
だが、天一坊は深くため息をつき、憐れむような目で越前を見た。
「……越前、お前は本当に融通の利かぬ男だな」
「何だと!?」
「その駕籠、誰から贈られた物か、調べなかったのか?
……それは、尾張大納言・徳川宗春公より『余の代わりに乗って旅をせよ』と拝領した品だ」
一瞬、お白州の空気が凍りついた。
「え……お、尾張様、だと……?」
「そうだ。尾張公が『乗れ』と言い、私が『はい』と従った。これは親戚間の贈答であり、敬愛の証。
……さて、越前守。
其の方が、徳川の掟を盾にこの駕籠を禁じるというなら、好きにするがいい」
天一坊は身を乗り出し、越前を睨みつけた。
「今すぐその駕籠を叩き壊せ。
ただし……その破片を持って、尾張名古屋へ詫びに行くのは、私ではない。貴様だぞ?
『御三家筆頭の贈り物は、法に触れるので叩き壊しました』と、宗春公の目の前で言えるものなら、やってみろ!!」
――詰んだ。
越前守の手が震えた。
叩き壊せば、尾張との全面戦争。
認めれば、天一坊の身分を認めることになる。
これは、法で裁ける問題ではない。高度な政治的罠だったのだ。
シーン……。
お白州は、痛いほどの沈黙に包まれた。
越前守は、扇子を握りしめすぎて、ミシミシと音を立てていた。
完敗だった。
法と形式を重んじる越前に対し、天一坊たちは「実利」「経済」「政治力学」という、越前の想定を超えた武器で武装していたのだ。
これ以上の追及は、藪蛇になる。
越前は、血を吐く思いで宣言した。
「……本日の吟味は、これまでとする」
天一坊は悠々と立ち上がり、一礼した。
「賢明な判断にございます、お奉行様。……では、吉報をお待ちしておりますよ」
天一坊一行が去った後。
誰もいなくなった白州で、越前守は拳を床に叩きつけた。
「おのれ……おのれぇぇッ!! 天一坊!!」
論理では負けた。
政治でも負けた。
だが、事実はどうだ?
越前の奉行としての勘が叫んでいる。
(奴は偽物だ。あまりにも出来すぎておる。……完璧すぎるがゆえに、偽物なのだ!)
越前は顔を上げ、影に控えていた二人の男を呼んだ。
腹心の同心、白石治右衛門と吉田三国。
「白石、吉田。……直ちに発て」
「はっ。行き先は?」
「紀州だ。
どんな些細なことでもいい。奴が将軍の子ではないという証拠を……いや、奴の化けの皮を剥ぐ過去を掘り起こしてこい!」
それは、大岡越前守に残された、最後の、そして唯一の勝機だった。
論破された名奉行の、執念の逆襲が始まる。
貴重なお時間を頂きありがとうございました。




