第十三話 越前守の眼力 〜死相なき怪異〜
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東海道を風のように駆け抜けた天一坊一行は、ついに江戸の喉元・品川宿へと到着した。
八ツ山下の御殿には、すでに幕府からの使者が待ち構えていた。
ついに、審問の時が来たのだ。
老中筆頭・松平伊豆守の屋敷。
上座には五人の老中が並び、その背後には幕府の重鎮たちが控えている。
重苦しい静寂の中、俺は通された。
傍らには伊賀之亮。手には、葵の御紋の短刀と、母の遺書、そして――尾張の叔父貴(宗春)から貰った黄金の太刀。
「……面を上げよ」
松平伊豆守の声と共に、俺は顔を上げた。
視線が交錯する。
老中たちは、俺の顔と、証拠の品々、そして手元の書類を交互に見比べている。
「……ふむ。証拠の品に疑いなし」
「大坂城代、尾張宗春公も認めているとなれば、もはや疑う余地はあるまい」
「上様も『覚えあり』と仰せだ」
空気が緩んだ。
俺が張り巡らせてきた伏線が、ここですべて機能した。
老中たちは安堵の表情を浮かべている。「これで上様も喜ばれる」「面倒な審議が終わった」という官僚的な安堵だ。
「よかろう。天一坊殿を、誠の……」
「――お待ちくだされ」
その決定的な瞬間を、鋭利な刃物のような声が切り裂いた。
松平伊豆守の背後に控えていた、一人の男が進み出る。
南町奉行・大岡越前守忠相。
この時代における、俺の最大の天敵だ。
「越前、何用か。すでに審議は尽くされたぞ」
「いえ、伊豆守様。……某、長年罪人の顔を見てまいりました。人相を見るに少々自信がございます」
越前守は、俺の正面に座り、じっと俺の目を見据えた。
(来たか、人相見……!)
俺は身構えた。
従来の講談なら、ここで「悪相が出ている」「死相が見える」と言われる場面だ。
だが、俺は誰一人殺していないし、国を良くしようという信念に満ちている。死ぬ気もさらさらない。
さあ、どう出る?
越前守の目が、俺の顔、目、そして魂の奥底までスキャンしていく。
長い沈黙の後、彼は眉間に深い皺を刻んだ。
「……奇妙だ」
越前守が呟く。
「悪相がない。……それどころか、死相の欠片も見当たらぬ」
老中たちが笑う。「ならばよいではないか! 越前の見立てでも潔白だ!」
だが、越前守は首を横に振った。その瞳には、かつてないほどの警戒色が宿っていた。
「いいえ。……綺麗すぎるのです」
彼は俺を指差した。
「紀州の閑村で育った若者が、これほど洗練された所作を持ち、大坂の経済を論じ、尾張公と渡り合う。……出来すぎている。まるで、最初から完成された役者を見ているようだ」
越前守の勘が、俺の正体という異質さを嗅ぎ取っていた。
嘘をつく者の目は泳ぐ。だが、俺の目は泳がない。なぜなら俺にとって、この改革は正しいからだ。
その絶対的な自信こそが、封建社会の秩序を守る彼にとっては、得体の知れない怪物に見えるのだ。
「伊豆守様。……この者、瞳に一点の曇りもなし。しかし、その曇りのなさが、逆に空恐ろしい。人の子にあらず、化け物の類やもしれませぬ」
「越前! 御落胤を化け物呼ばわりとは無礼であろう!」
「無礼を承知で申し上げます! ……この越前に、十日。いや、七日の猶予を! その間に、この完璧な鎧のほころびを見つけてご覧に入れます!」
越前守は平伏し、額を畳に擦り付けた。
その姿は、孤立無援。
大坂、尾張、老中、すべてが俺を支持する中で、たった一人、この男だけが「理屈を超えた嗅覚」で俺に喰らいついてきた。
俺は、内心で舌を巻いた。
(……すげぇな。この完全包囲網の中で、まだ抗うか)
敵ながら天晴れだ。
伊豆守が渋々頷く。
「……よかろう。七日だ。それ以上は待てぬ。天一坊殿、しばし八ツ山下の屋敷にてお待ちいただけるか?」
俺は静かに頷き、越前守を見下ろした。
「構いませぬ。……越前守殿、せいぜい私の粗を探されるがよい。だが、見つかるかな? 私自身にも分からぬ粗が」
越前守が顔を上げ、俺を睨む。
視線と視線の火花。
ここに、最強の詐欺師と、最強の奉行の一騎打ちの幕が切って落とされた。
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