閑話 箱根路の霧、刃は血を吸わず
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赤川大膳と藤井左京が活躍する閑話となります。
箱根の山は、乳白色の霧に沈んでいた。
杉並木の静寂を破るのは、鳥のさえずりと、天一坊一行の踏みしめる砂利の音のみ。
その静けさが、不意に濁った。
「……止まれ」
行列の先頭を行く藤井左京が、低く鋭い声を放ち、左手を水平に挙げた。
同時に、巨躯の赤川大膳が、無言で前に出る。
二人の視線の先、霧の奥から、下卑た笑い声とともに黒い影が滲み出てきた。
野盗の群れだ。
数は十と五、六。手には錆びた槍や鉈を携え、獲物を狙う狼のような眼で一行を取り囲む。
「おいおい、上等な着物を着た奴らが通るぞ」
「金目の物は置いていきな。命までは取らねぇ……抵抗しなけりゃの話だがな」
下品な野次が飛ぶ。
だが、大膳と左京は、眉ひとつ動かさない。
二人の間に流れるのは、恐怖ではなく、呆れるほどの「静寂」だった。
駕籠の中から、涼やかな声が届く。
「左京、大膳」
「はっ」
「道中を汚すな。……峰だ」
短く、しかし絶対の命令。
「殺すな」という言葉すら使わない。「血の匂いをさせるな」という美学がそこにあった。
「承知」
左京が薄く笑った。
大膳が太い首をコクリと鳴らした。
「聞いたか、大膳。殿は『汚すな』と仰せだ」
「難儀なことだ。……加減をするのが、一番骨が折れる」
野盗たちが色めき立つ。
「あァ!? 舐めやがって! やっちまえ!」
殺気が弾けた。切っ先が一斉に二人へ向かう。
――瞬間。
藤井左京の姿が掻き消えた。
チィッ――
鋭い音が、空気を裂いた。
先頭の野盗が槍を突き出した時には、すでに左京はその懐に入っていた。
抜刀、一閃。
だが、刃は男の肉を裂かない。
切っ先が男の帯を撫で、手首の腱を峰で軽く叩く。
「……ッあ!?」
男の手から槍が落ち、同時に袴がずり落ちて、無様にたたらを踏む。
左京は振り返りもせず、流れる水のように次の標的へ。
右手の太刀で敵の刃を絡め取り、左手の脇差の柄頭で、すれ違いざまに鳩尾を打つ。
「ぐっ……」
声にならない呻きと共に、野盗たちが音もなく崩れ落ちていく。
斬らない。舞うように、制す。
それは剣術というより、洗練された「儀式」のようだった。
「ちょこまかとッ! なら、そっちの大男だ!」
左京の神速に恐れをなした残党が、標的を変えて赤川大膳へ殺到する。
大膳は動かない。
大太刀の鯉口すら切らず、仁王のように立ちはだかる。
「どけぇッ!」
野盗の鉈が大膳の脳天へ振り下ろされる。
ガキンッ!
重い金属音が響いた。
大膳は、鞘に入ったままの大太刀を僅かに持ち上げ、その一撃を受け止めていた。
「軽いな」
大膳が低く呟く。
次の瞬間、彼の剛腕が唸った。
抜刀ではない。鞘ごと相手の腹へ叩き込む、剛の突き。
「ぶべッ!?」
内臓を揺さぶられた野盗が、木の葉のように吹き飛び、後続の仲間を巻き込んで転がる。
大膳は、群がる敵を岩のような体躯で弾き返し、捕まえた一人の襟首を掴んで軽々と持ち上げた。
「殿の御前だ。静かに寝ていろ」
ドスン。
地面に叩きつけるのではなく、気絶させるツボを心得た一撃で、男を優しく夢の世界へ送る。
豪快でありながら、その所作には一点の無駄もない。
ただ、圧倒的な「壁」としてそこに在り続けた。
気付けば、立っている野盗は頭目一人となっていた。
霧の中、足元には呻く部下たちが転がっている。
「ば、バケモノか……」
頭目が後ずさる。
その眼前に、左京が音もなく歩み寄る。刀はすでに鞘に納められている。
大膳が背後で、腕を組んで見下ろしている。
「……名は」
左京が静かに問うた。
「へ、へい?」
「我らは、将軍家御落胤・徳川天一坊様の家臣、藤井左京と赤川大膳。……お主らを斬らぬは、殿の慈悲と思え」
左京の瞳が、切っ先よりも鋭く頭目を射抜く。
「関所まで案内してもらおうか。……縄は、自分で打てるな?」
頭目は腰を抜かし、涙目で首を縦に振った。
殺意も、闘争心も、二人の「格」の違いの前には無力だった。
◇◇◇
箱根の関所。
数珠つなぎにされた野盗たちを引き渡した一行は、役人たちの驚嘆の声を背に、再び東へと歩を進める。
霧が晴れ、陽の光が差し始めた峠道。
大膳が、肩の凝りをほぐすように首を回した。
「……斬るより、神経を使う」
「ふっ。だが、悪くない切れ味だったぞ、大膳」
左京が涼しい顔で笑う。
駕籠の御簾が少し上がり、天一坊が二人に声をかけた。
「見事だ。……義兄弟」
その一言だけで、十分だった。
かつては伊予の海を彷徨った名もなき二人。
今は、天下を揺るがす若き主君の「矛」と「盾」。
赤川大膳と藤井左京。
二人は顔を見合わせ、満足げに笑みを交わすと、江戸へ続く道を堂々と歩き出した。
その背中には、かつてのチンピラの影はなく、一角の武人としての風格が漂っていた。
貴重なお時間を頂きありがとうございました。




