閑話 土岐丹後守の憂鬱
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大坂城代・土岐丹後守は、胃に穴が空きそうだった。
あの若造――天一坊が突きつけてきた短刀と「お墨付き」。
偽物ならば即座に打ち首だが、万が一、本物であれば、処断した自分の首が飛ぶ。いや、土岐家そのものが潰れる。
彼は震える手で江戸の老中・松平伊豆守へ早馬を飛ばした。
『吉宗公に、覚えがあるか確認されたし』
数日後、返ってきた密書を見た瞬間、土岐は天を仰いだ。
『上様曰く、若き日には覚えがありすぎて、どれか分からぬ。……が、否定はできぬ、とのこと』
「覚えがありすぎて分からぬ、だと……!?」
土岐は執務室で頭を抱えた。
将軍・吉宗公は、紀州藩主時代、剛毅で鳴らした暴れん坊だ。そりゃあ、あちこちに種を蒔いていても不思議ではない。
だが、この「否定はできぬ」という一言が、官僚にとっては「肯定」と同じ意味を持つ。
もし偽物扱いして、後で「やはりあれは我が子であった」と思い出されたら? 切腹だ。
逆に、丁重に扱っておけば、仮に偽物だったとしても「上様の顔を立てて慎重を期しました」と言い訳ができる。
「……丁重に扱え。決して粗相のないようにな!」
土岐の保身から出た号令は、部下たちのフィルターを通すことで歪んで伝わった。
『城代が認めたぞ! あれは本物の若君だ!』
『上様も「覚えあり」と認めたらしい!』
噂の雪玉は、坂を転がり始めた。
大坂の商人たちは競って天一坊の宿へ進物を贈り、京の公家衆までもが「将軍のご落胤に拝謁したい」と招待状を送ってくる始末。
もはや土岐一人の手には負えない。彼は、とにかく天一坊を「気持ちよく大坂から送り出す」ことに全力を注ぐことにした。
◇◇◇
そんなある日、天一坊から「大坂を立つ前に、置き土産を渡したい」との申し出があった。
土岐は、自分の配下でも特に優秀な若手勘定方を集め、天一坊の話を聞かせることにした。
場所は、大坂城の一室。
現れた天一坊は、白板……の代わりに大きな和紙を壁に貼り、筆を執った。
「丹後守。大坂の堂島米会所は、世界に誇る先物市場だ。だが、欠陥がある」
「欠陥、でございますか?」
「ああ。個人の信用に依存しすぎている。誰か一人が破産すれば、連鎖的に市場が死ぬぞ」
天一坊は、流れるような筆致で図解を始めた。
そこで語られたのは、江戸時代の人間が想像もし得ない「現代金融工学」だった。
1.清算機関の設立
「取引の間に『会所』を挟め。買い手と売り手が直接やり取りするから取りっぱぐれる。会所が全ての取引の相手方となり、履行を保証しろ。そのための引当金を強制徴収するのだ」
(若手勘定方の目が見開かれる。「なんと……これなら連鎖倒産が起きませぬ!」)
2.値洗いの日次決算
「ツケを溜めるな。毎日、その日の終値で損益を計算し、損が出ている奴からは翌朝までに追加の証拠金(追証)を取れ。傷が浅いうちに手当てをさせるのだ」
(「毎日決算!? 手間はかかりますが、確かに夜逃げは防げます!」)
3.値幅制限
「相場が過熱したら、冷や水をぶっかけろ。一割動いたら取引停止だ。人間の頭を冷やす時間を作れ」
4.保険取引
「『売る権利』『買う権利』そのものを売買させろ。そうすれば、百姓は豊作貧乏を恐れずに済む」
レクチャーが終わった時、部屋は静まり返っていた。
若手勘定方たちは、震えていた。
それは恐怖ではない。「知性」への畏敬だ。
「……すさまじい。これほどの理を、若くして構築されるとは」
「やはり、上様の血筋だ。いや、上様を超える『経済の天才』かもしれん……!」
土岐丹後守もまた、確信した。
(偽物が、これほどの構想を持てるはずがない。こやつは本物だ。……いや、本物でなくては困る!)
天一坊は筆を置き、ニヤリと笑った。
「丹後守。これは俺からの宿題だ。これを幕府へ上奏し、堂島を改革しろ。……お前の手柄にしていいぞ」
◇◇◇
数日後、天一坊一行は、大勢の人々に見送られながら京へ向けて出立した。
土岐丹後守は、安堵のため息をつくと同時に、大急ぎで筆を走らせた。
宛先は、江戸城の老中と、大岡越前守。
内容は、天一坊が「本物である」という確信に満ちた報告。
そして、別紙として添えられたのが、天一坊直伝の『堂島米会所改革・建白書』である。
土岐は知らなかった。
この建白書が、後に江戸で天一坊が絶体絶命の窮地に陥った際、最強の援護射撃になることを。
――場面は飛び、数週間後の江戸城。
大老や老中たちが、天一坊をどう処断すべきか紛糾していた最中、早馬で届いた土岐からの報告書が広げられた。
「……なんだ、この『清算機関』という概念は?」
「『値洗い』……? なんと合理的かつ緻密な……」
「おい、これを書いたのは誰だ? 土岐か? いや、土岐ごときにこれほどの知恵はない」
「……天一坊だ。あのご落胤が、これを授けたというのか」
幕閣たちがざわつく。
ただの血筋だけの若造ではない。
この国の経済を根本から作り変えるだけの「王の器」を持った男が現れたのだと。
その事実が、大岡越前守を大いに苦しめ、そして吉宗公を苦笑させることになるのである。
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