第十話 義農作兵衛と塩水選
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伊予を出立する前日。
俺には一つだけ、この地でやっておかねばならない心残りがあった。
前世の記憶にある神社、「義農神社」。そこに祀られていた農民・作兵衛のことだ。
史実では、享保十七年(1732年)の大飢饉で、彼は餓死する。
種麦を守るために自らの食い扶持を絶ち、家族もろとも全滅するのだ。
それは「自己犠牲の美談」として後世に語り継がれるが……ふざけるな。
死んでしまっては意味がない。生きて、その崇高な精神と農業技術を後世に伝えることこそが、真の国益だ。
俺は伊賀之亮や山賊たちには「野暮用だ」と告げ、一人で筒井村へと向かった。
◇◇◇
筒井村の畑で、一人の男が黙々と鍬を振るっていた。
痩せた土地だが、そこだけ土が丁寧に耕されている。作兵衛だ。
俺は畦道に立ち、声をかけた。
「精が出るな、作兵衛」
「へ……? お、お武家様?」
作兵衛は驚いて顔を上げた。見ず知らずの若侍に名前を呼ばれ、困惑している。
俺は周囲に人がいないことを確認すると、懐からあの「葵の御紋」の短刀を取り出し、彼に見せた。
「驚かせてすまない。俺の名は徳川天一。……将軍家の血を引く者だ」
「は、ははーーっ!?」
作兵衛はその場にひれ伏した。
純朴な彼は、葵の紋を見ただけで震え上がっている。俺は膝をつき、彼の泥だらけの手を取った。
「面を上げろ。お前に頼みがあって来た」
「め、滅相もございません! 百姓の分際で……」
「お前だからこそだ。……作兵衛、近い将来、この国に未曾有の飢饉が来る」
俺の言葉に、作兵衛が息を呑む。
俺は現代の知識を、予言として告げた。
長雨、冷夏、そして浮塵子の大発生。西日本の稲が全滅する未来を。
「そ、そんな……。おらが村には、蓄えなどございません」
「だからこそ、今から備えるのだ。……これを使え」
俺は懐から、小判五枚を包んだ紙を押し付けた。
作兵衛の手が震える。一生かかっても拝めない大金だ。
「こ、これは!?」
「これで今のうちに、麦と米を買い溜めておけ。飢饉が始まってからでは遅い。……そして、もう一つ。これが本題だ」
俺は地面に木の枝で図を描き、現代農業の基本中の基本を伝授した。
「塩水選」だ。
「種籾を選ぶ際、塩水に漬けるのだ。中身の詰まった良い種は沈み、悪い種は浮く。浮いた種は捨て、沈んだ種だけを蒔け」
「塩水に……? そんなことで?」
「そうだ。悪い種を育てても、労力の無駄だ。強い種だけを育てれば、冷害にも害虫にも勝てる」
さらに、害虫の発生源となる雑草の早期焼却、油を使った駆除法などを矢継ぎ早に教えた。
作兵衛は真剣な眼差しで、全てを頭に叩き込んでいる。この男の「農への執念」は本物だ。
「作兵衛。お前は種を守るためなら、自分の命など捨てかねない男だ」
「……!」
「だが、それは許さん。種を守るのと同じくらい、お前自身の命も守れ。お前が生きて、この技術を村中に広めねば、救える命も救えん」
俺は彼の肩を強く掴んだ。
「これは将軍家(仮)からの命令だ。……死ぬな。生きて、豊作の秋を迎えろ」
作兵衛の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼は泥に額を擦り付け、声を震わせた。
「ありがたき……幸せにございます! この命に代えても、村を守り抜いてみせまする!」
◇◇◇
帰り道。俺は少しだけ足取りが軽かった。
史実は変わるだろう。
作兵衛は餓死しない。彼の家族も死なない。
彼は村人を指導し、塩水選と備蓄によって飢饉を乗り越え、後に「義農」として――悲劇の英雄ではなく、郷土を救った賢人として称えられるはずだ。
「さて、農民を救った後は、国盗りといきますか」
俺は伊賀之亮たちの待つ隠れ家へと戻った。
自己満足かもしれない。だが、あの実直な男が報われる世界線を作れたなら、この詐欺旅行も悪くない。
懐の小判は少し軽くなったが、俺の心には、黄金よりも重い「自信」が満ちていた。
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