第8話 終わりを知る者
8月下旬のある日。
朝食後。
「……われわれは思春期になると、感覚の統合が一時的に揺らぐことがある」
と、恒一は独り言のように言った。
論文を読むときの癖で、主語が大きい。
「揺らぐ、って?」
由紀は食器棚に背を預け、腕を組んだまま視線を落とす。
「つまり、脳が大人用に作り替えられる途中で、過剰に――外界と結びつく場合がある。知覚が、内と外の区別を一瞬見失う」
「……澪も、とうとう、そういう時期になった、てこと?」
恒一はすぐには答えなかった。
しばらくして、慎重に頷く。
「可能性の話だ。だが、どうも昨晩、澪の『能力』が……」
「『能力』とか、そういう言い方はやめて」
由紀の声は低いが、強い。
「わかってる」
恒一は眼鏡を外し、レンズを拭きながら続けた。
「説明は、必要になる。近いうちに。変なものじゃない、ということを。危険でもない、ということを――科学的に」
「あなたが?」
「私しか、いないだろ?」
即答だった。
「澪は、まだ知らないんでしょう?」
「ああ。今はまだ。全然」
恒一はレンズを光にかざし、微細な曇りを確かめる。
「本人が『おかしい』と思う前に、枠組みを渡しておきたい。名前が無い現象は、人を不安にするからな」
その時、廊下の奥で、微かに床が鳴った。
二人は同時に口を閉ざす。
「……起きてきた?」
「早いな」
恒一はそう言って、眼鏡をかけ直した。
「おはようございまぁす」
寝巻がわりのTシャツとハーフパンツ姿の澪が現れた。今日は天文部のみんなと出かける日なのだ。
もう夏休みも終盤だった。
川沿いの河岸段丘は、照り返しの強い土の匂いがしていた。
スコップと軍手、リュックを背負った天文部員たちは、どこか遠足気分だ。
「天文部、というよか地学部だよね」
「ホントに今日も何か出るの?」
一年生の高遠や中村たちが半信半疑で言う。
そう、今日は天文部総出で化石発掘ツアーなのだ。6月にスペースバルーンを回収した時に、二枚貝の化石を見つけた場所である。
「出るかもしれない、が正しい」
澪は即座に訂正する。
そして、しゃがみ込んで、地層の断面をじっと見つめている。
「このあたりは更新世の堆積層だから。川の流れが変わるたびに、時間が積み重なってる」
「天野さん、なんか理科の先生みたい」
と高遠が言うと、
「事実を言ってるだけ」
と返す。
小宮は少し離れたところで、篩を使って砂を落としていた。
慣れない作業だが、手つきは意外と丁寧だ――誰にも言っていないことだったが、実は小宮は考古学者志望なので、「発掘」には興味がある。
「でもさ」
塚田が、石を裏返しながら言った。
「昔はさ、ここ、動物だらけだったんでしょ? マンモスとか」
「日本にマンモスは来ていません」
「細かい!」
澪の即座の返しに、塚田は笑う。
「でも、どんな生物だってさ、結局、滅んじゃうんじゃない?」
その言葉に、澪の手が一瞬止まる。
「はい……」
答えは短い。
「環境は変わる……寒冷化だったり、海面変動だったり。生き物は、変化に適応できなければ、残れない」
「なんかさ」
塚田は空を見上げる。
「それって、虚しいよね。じゃあ、生き物が『生きる』ってことに、どんな意味があるんだろう?」
「あれ? 真琴にしては妙に哲学的な」
塩原が横から茶々を入れる。
「むっ、そういう話題はわたしには似合わないとでも言いたいわけぇ?……じゃあさ、話は変わるけど、有人月探査は、なんで中止されたと思う?」
塚田は声も身振りも大きい。
「アポロが、何か見ちゃったからじゃないのぉ?」
「違います」
澪が、淡々と口を挟む。
「宇宙線」
全員の視線が集まる。
「月には磁場も大気もほとんどありません。太陽フレアが直撃する。長期滞在すれば、被曝量は致死量に近づく」
「……夢がないなぁ」
「現実があるだけ」
澪はそう言って、また土に視線を戻す。
「人間の体は、地球用に出来てます。月面での長期間活動は、今の技術水準じゃ、無理」
「じゃあさ」
塚田が、少し身を乗り出す。
「火星なら?」
澪は、ほんの一瞬だけ考える。
「火星は、なおさら厳しい。大気は薄いし、磁場も弱い。『昔は可能だった』かもしれないけど、今は違います」
「……昔は、か」
小宮が、ぽつりと言った。
その言葉に、澪は顔を上げる。
川の流れが、陽光を弾いてきらめいている。
時間は、確かに前へ進んでいるはずなのに――
なぜか、過去と現在が、薄く重なって見える瞬間があった。
「ねえ」
澪は、自分でも意図せず口にしていた。
「もし、滅びる直前の生き物が、空を見上げてたとしたら……何を考えてたんだと思う?」
誰も、すぐには答えなかった。
風が吹き、段丘の草が一斉に揺れる。
澪はその揺れを見つめながら、
昨夜、夢の中で感じた外へ引かれる感覚を、ふと思い出していた。
――まだ、名前のない違和感。
それは、月だけでなく、地層の奥や、過去の時間とも、どこかでつながり始めている気がした。
木陰に腰を下ろして、簡単な昼休憩。
澪は、水筒を置きながら言った。
「この前さ、ペルム紀の化石が出たでしょ」
「出たね」
小宮が頷く。
「二億五千万年前。で、その直後に――」
「大絶滅」
塚田が、即座に続けた。
「生物の九割以上が消えたやつ、でしょ?」
「でもさ」
塩原が首を傾げる。
「それって、最初じゃないよね?」
「うん」
澪は、指先で地面に小さな円を描く。
「その前にも、何度もある」
「一番古いとされるのが、オルドビス紀末だっけ?」
塩原が言う。
「正解」
「次に、デボン紀末」
小宮も思い出すように言った。
「そう」
澪は少しだけ驚いたように目を向ける。
「詳しいね」
「文系だけど、こういう話は好き、て前にも言った気が」
小宮は肩をすくめた。
「あと、ペルム紀末と三畳紀末と白亜紀末の大絶滅をまとめて『ビッグファイブ』って呼ぶんだよな」
塩原が言う。
「五回の大量絶滅」
「最後が、恐竜が消えたやつだよね」
塚田が続ける。
「一番有名だよね」
澪は頷く。
「でも、規模としては最大じゃない」
「最大は、さっきのペルム紀」
「そう」
一拍。
塚田が、少し考えてから言った。
「……でもさ」
「何?」
「生き物の絶滅って『ビッグファイブ』の時期以外にも、あったんでしょ?」
一瞬、空気が止まる。
「……ああ」
澪が答える。
「あります。ただ、そこまでの割合じゃないだけで」
「えっ、そうなの?」
中村が驚きの声を上げた。
「いつの時代も生き物は、減ったり消えたりしてる」
澪の声は、淡々としている。
「生命史って、ずっと右肩上がりじゃない」
「むしろ、リセットの連続か」
小宮が言う。
「うん」
澪は、川の流れを見る。
「増えて、壊れて、少しだけ残って、また増える」
「地球、容赦ないな」
塚田が苦笑する。
「でも」
澪は、少しだけ言葉を選ぶ。
「それでも、一度も『完全にゼロ』にはなってない」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「……不思議だな」
塩原がぽつりと言う。
「こんなに何回も滅んでるのに、まだ続いてる」
澪は、静かに頷く。
「観測できるってことは、途切れてないってことだから」
「天野さんってさ」
塚田が、川を見ながら言う。
「なんか、いつも『あとから来た人』みたいなこと言うよね」
「……どういう意味ですか?」
「いやさ。みんなで見てるのに、天野さんだけ、もう一回り外から見てる感じ」
澪は、少し考えてから言う。
「たぶん、そうしないと落ち着かないだけ」
小宮が、澪を見る。
「じゃあさ」
彼は、半分冗談みたいに言った。
「もし、今が『次の手前』だったら?」
風が吹いた。
澪は、すぐには答えなかった。
「……その時は」
少し間を置いてから、言う。
「私たちは、『知ってる側』でいたい」
「止められなくても?」
「うん」
澪は、はっきり言う。
「観測しないまま終わるより、ずっといい」
塚田は、空を見上げる。
「なんかさ」
「?」
「化石って、『失敗の記録』でもあるんだね」
澪は、わずかに微笑んだ。
「失敗じゃない」
「え?」
「続かなかった、だけ」
人類の未来が続くかどうかは、誰にもわからない。
* * *
「今日さ」
帰り道で、小宮が言う。
「天野さん、ずっと『未来』の話してたよね」
「そう?」
「うん。化石とか絶滅とか、全部、今より先の話として」
澪は、少しだけ立ち止まる。
「……過去は、もう観測出来てるから……」
* * *
夕方、家に帰ると、夕食は少し手の込んだものだった。
鶏の照り焼き。
冷やしたトマトに、オリーブオイルと塩を少し。
ひじきと大豆の煮物。
それに、コンソメベースの野菜スープ。
キャベツと玉ねぎ、それから人参。
和と洋が混ざっているけれど、どれも落ち着いた味だ。
テレビはついていない。
代わりに、窓の外から、夏の夜の音が入ってくる。
「いただきます」
三人分の声が、ほぼ同時に重なった。
箸が動き、しばらくは食事の音だけが続く。
天野家では、沈黙は不自然なものではなかった。
「今日、部活でね」
先に口を開いたのは澪だった。
「河岸段丘に行ってきた。化石探し」
父は、箸を止めずに聞いている。
母は、澪の方を見て小さく頷いた。
「ペルム紀の化石が出る場所で」
「この前も、見つけたんだよね」
母が言う。
「うん。巻き貝みたいなの。保存、けっこう良かった」
「へえ」
父が、そこで初めて顔を上げた。
「ペルム紀か。大量絶滅の直前だな」
澪は、少し考えてから言った。
「……どうして、あんなに一気に滅んだんだろうって話になって」
箸が、止まる。
父は、魚の骨を皿の端に寄せながら答える。
「原因は一つじゃない。火山活動、海洋無酸素化、気候変動。重なった結果だ」
「他の時期にも、あったよね」
「『ビッグファイブ』ってやつだ」
澪が言う。
「知ってる。白亜紀末が最後で……恐竜が……」
「地球史的には他にも大量絶滅が何回もある」
父が補足する。
澪は、箸を止めたまま、ぽつりと言った。
「……そんなに昔から、何度も壊れてるのに……」
母は、スープを一口飲んでから言う。
「壊れて、でもまた増えて。それを繰り返してきたのが、生命史ね」
少し間があった。
「じゃあさ」
澪が、父を見る。
「また、大絶滅って起きるのかな」
父は、すぐには答えなかった。
ほんの数秒。
考える時間。
「起きない、とは言えない」
静かな声だった。
「地球は、そういう星だからな」
「人類が原因になる可能性も?」
澪が訊く。
「ある……第一、現在が第六の大量絶滅期と呼ぶ者もいる。もちろん、人間が原因だ」
即答だった。
母が、そこで口を挟む。
「でも、それを『知っている』のは、これまでの大絶滅とは違う点よ」
澪は、母を見る。
「知っている、からこそ」
母は続ける。
「選べることもある」
父が、ふっと息を吐いた。
「選べるかどうかは、まだわからんがな」
「わかってるだけでも進歩よ」
母の言葉に、澪は少しだけ安心した。
再び、箸が動き始める。
しばらくして、父が何気ない調子で言った。
「ところで」
澪の手が、わずかに止まる。
「最近、どんな夢を見る?」
「えっ?」
母が、父を見る。
「いきなり何?」
「いや」
父は言葉を選んだ。
「澪」
父が、珍しく名前だけを呼んだ。
「もし、何か変だと思うことがあったら」
一拍。
「『おかしい』と思う前に、話してほしい」
澪は、少し驚いたように父を見る。
「年頃になると、いろいろ起きる」
澪は、眉を顰めた。
「なに、それ?」
「そのうち話す」
父はそう言って、ご飯を口に運ぶ。
「……わかった」
それ以上、言葉はなかった。
母も、同意するように頷いた。
「近いうちにね。ちゃんと説明するから」
「ふうん……」
澪は、それ以上追及しなかった。
この家では、「今は話さない」という選択も、尊重される。
食後。
澪は食器を流しに運びながら、ふと思った。
――大絶滅。
――見ている、見られている。
月のことが、頭をよぎる。
でも、それを口に出すのは、まだ先でいい気がした。
今夜は、ただ、いつも通りの夕食だった。
それが、少しだけ、ありがたかった。
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