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それでも私は地球を選ぶ  作者: 喜多里夫


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第7話 見る側、見られる側

「この子は、誘わないの?」


 塚田が、澪のノートパソコンの画面を指して言った。


「はい」


 澪は、即答した。


「熱心そうだけど」


 画面の向こうの名前は、何度も質問を送り、長い文章を書いてきた相手だった。

 真剣で、前向きで、悪意はない。


 澪は、少しだけ視線を落とした。


 ――塚田先輩みたいな人なんだろうな。


 そう思ったが、口には出さなかった。


 熱意が過ぎると、主観が混じる。

 主観が混じると、観測は「物語」になる。


 今回は、それを選ばない。


「そっか……」


 塚田は、それ以上何も言わなかった。


     * * *


 盆前の晩だった。


 星嶺高校の天文ドームには、照明を落とした静けさが満ちていた。


 開いたスリットの向こうで、月がゆっくりと高度を上げていた。


 白い半球の内部には、赤色灯だけが淡く灯っている。


 ノートパソコンの画面に、四つ、五つと枠が増えていく。


「……繋がった」


 小宮が小さく言った。


 澪は、望遠鏡の赤道儀を確認してから、画面に目を向ける。


 全国。

 同時刻。

 同じ月。


 ――それだけで、少し現実感が薄れる。


「えぇぇっと……聞こえてますか?」


 最初に声を出したのは、画面左上の男子だった。

 背景は暗い部屋。窓の外に、かすかな街灯。


「北海道立網走(あばしり)おおぞら高校一年の佐々木(ささき)蒼真(そうま)です。自宅から参加してます」


 少し緊張しているが、声は落ち着いている。


「望遠鏡は、父の使ってた屈折式です。古いですけど、まだ使えます。うちは……女満別(めまんべつ)空港の近くですが、夜は結構暗いです」


 淡々とした声。でも、目は少しだけ興奮している。


「ありがとうございます」


 澪が頷く。


「次、こちらです」


 画面が切り替わる。


 丸い天井。

 照明の少ない、静かなドーム。


「岩手県立姫神(ひめがみ)高校二年、小野寺(おのでら)(はるか)です」


 女子だった。

 声は低すぎず、高すぎず、間を取る話し方。


「学校の屋上からです。月、今日は輪郭がきれいですね」


 挨拶より先に、月の状態を言った。


 澪の口元が、ほんの少し緩む。


「ありがとうございます。続いて」


 今度の画面は、明らかに設備が違った。


 天井の高いドーム。

 金属フレームの影。

 望遠鏡のサイズが、一目で分かる。


瀬戸内(せとうち)理科大付属高校二年の三宅(みやけ)陽斗(はると)です」


 男子。

 早口だが、言葉が正確。


「主鏡二十インチ、反射式。今日は光害少ないです。データ、共有します」


 説明が、もう報告だった。


 澪から少し離れたところにいる塚田が小声で呟く。


「すご……ガチだ」


 最後の枠が開く。


 画面いっぱいに、夜の闇。

 その中に、懐中電灯の光と、星。


「あっ、聞こえます?」


 少し弾む声。


「沖縄県立やんばる高校一年の知念(ちねん)琉香(るか)です。家の庭からです」


 少しだけ回線が不安定。

 背後で虫の声が入る。


「月、でぇじ明るいさ。星ん、メッチャ多い」


 素直な第一声だった。


 澪は、一人ひとりを見渡す。


 場所も、設備も、立場も違う。


 それでも今、

 全員が同じ方向に望遠鏡を向けている。


「改めまして」


 澪が言った。


「長野県立星嶺高校一年の天野澪です。隣は新聞部の小宮くん」


「どうも、小宮です」


 小宮が軽く会釈する。


「今日は、結論を出すためじゃありません」


 全員の画面が静かになる。


「記録を残すためです。同時刻・同対象。違いが出たら、それも記録」


 一拍。


「月が、何も語らなくてもいい」


 小野寺が、ふっと目を細めた。


 三宅は、すでにキーボードを打っている。


 佐々木は、深く息を吸った。


 知念は、望遠鏡を覗きながら言う。


「……なんかさ」


 少し照れたように。


「今の私たち、一つの目になってる気せん?」


 誰も、否定しなかった。


 澪は、静かにスイッチを入れる。


「観測、開始します」


 全国の夜に。


 同時に。


 望遠鏡が月を捉えた。


「まず、基準時刻を合わせましょう」


 三宅の声が、Zoom越しでもはっきり聴こえる。


「21時30分。日本標準時。露出一秒、ISO八百で一枚撮ります」


「了解」


 佐々木が短く返す。


「こっちも合わせます」


 小野寺の声は静かだ。


 澪は赤道儀を微調整しながら、カウントする。


「……三、二、一」


 同時に、全国でシャッター音が鳴った。


 数秒後。


「送りました」


 三宅が言うと、共有フォルダに画像が並び始める。


 そばにいた誰かが声を上げた。


「……同じ月なのに、全然見え方が違う!」


 確かに。


 瀬戸内の月は輪郭が鋭く、コントラストが高い。

 北海道の月は、少し柔らかい。

 沖縄の月は、明るさが際立っている。


「大気の状態ですね」


 三宅が即座に言う。


「湿度、気温、上空の揺らぎ。特に南はシーイングがいい」


「でも」


 知念が、画面を覗き込んだまま言った。


「ここ、ちょっとだけ変じゃないさ?」


 月の縁。

 ほんの一部が、にじんでいる。


「それ、こっちにもあります」


 佐々木が言った。


「でも、同じ場所じゃない」


 小野寺が静かに続ける。


「位置が、少しずつずれてる」


 澪は、背中に小さなぞわりとした感覚を覚えた。


「偶然?」


 知念が言う。


 三宅は首を振る。


「大気なら、もっとランダムになるはずです」


「でも、同じ現象じゃない」


 澪が言う。


「似ているけど、重ならない」


 一瞬、沈黙。


 小宮が、初めてはっきりと口を開いた。


「それって」


 全員の視線が、画面の中央に集まる。


「月そのものじゃなくて、『見る側』の違いが写ってるってこと?」


 澪は、ハッとした。


 小野寺が、ゆっくり頷く。


「観測者の位置。高度。視線の角度」


 三宅が続ける。


「つまり……」


 言葉を選ぶ。


「『同時観測』して初めて見えるズレ、ですね」


 知念が、少し楽しそうに笑った。


「ズレてるのに、全部ホントさ」


 三宅が、ほんの一瞬だけ言葉を探した。


「知念さんの言い方は感覚的ですけど……」


 画面の数値を見直しながら続ける。


「知念さんの記録、条件は一番きれいです。気温、湿度、風速……全部、他より安定してる」


 塚田が、小声で澪に言った。


「彼女、言うことは、みんなとちょっと違うよね」


 澪は、否定も肯定もしなかった。


 ただ、知念の画面を見る。


 夜の闇。

 虫の声。

 星に囲まれた、月。


 ――彼女は、「説明」じゃなくて「関係」を語っている。


 それに気づいたのは、澪だけだった。


 父の言葉を思い出した。


 ――観測が足りない。


 いや。

 足りなかったのは。

 回数じゃない。

 人数でもない。


「……視点」


 澪が、ポツリと言った。


「一つじゃ、足りなかった」


 Zoomの画面に、五つの月が並ぶ。


 どれも同じで、

 どれも違う。


 小宮が、チャットに打ち込む。


 《現象:月縁部の非対称な明度変化

  共通性あり/位置不一致

  原因:要検討》


 記者の言葉だった。


「ねえ」


 塚田が、少し声を潜める。


「これさ……誰かに見せたら?」


 澪は、即答しなかった。


 しばらく考えてから言う。


「まだ」


「え?」


「今は、『見ている』段階」


 画面の向こうで、小野寺が微笑んだ。


「結論を急がない観測、いいですね」


 三宅も頷く。


「データは、嘘つきませんし」


 知念が月を見上げたまま言う。


「月、今日は静かやさ」


 小宮が、冗談めかして言った。


「見返されてるのかも」


 澪は、否定しなかった。


 もし、何かが見ているなら。


 今夜は、五つの場所から、同時に見返している。


 ――月を見ているはずなのに。


 小宮は、澪の横顔から目を離せずにいた。


 天文ドームの中。

 照明を落としているせいで、澪の表情は半分ほど影に沈んでいる。


 喋らない時の澪は、まるで「音のない場所」にいるみたいだと、小宮は思った。


 ――いや。


 正確には、音が届かないほど遠くを見ている。


「……露出、もう一段下げます」


 澪がそう言って、つまみを回す。


 その指の動きに、迷いがない。


 小宮は、ふと気づいた。


 彼女は、「見つけたい」と思っていない。


 普通なら、こういう集まりは――。

 誰かが何かを発見することを、どこかで期待している。


 でも澪は違う。


 彼女がやっているのは、「見えなかった理由を、丁寧に消していく作業」だった。


 それは、とても孤独な作業だ。


 だから――。


「小宮くん?」


 澪が、こちらを向く。


「今、何か気づいた?」


 不意を突かれて、少しだけ言葉に詰まる。


「……いや」


 一瞬、迷ってから正直に言う。


「月じゃなくて、天野さんの方を見てた」


 言ってしまってから、「あ、これは誤解されるやつだ」と思った。


 でも澪は、驚いたように目を瞬かせただけだった。


「変な人……」


 小さく言って、すぐ画面に戻る。


 否定しなかった。


 小宮は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 彼は知っている。


 澪は、自分が「見られている」ことに、ほとんど関心がない。


 だからこそ、誰かが見ていないと、簡単に一人で行ってしまう。


 チャット欄が、また流れ出す。


 《北海道側、月縁に微妙な揺らぎあり》


 《こちらは変化なし》


 《気温下がってきました》


 全国の誰かが、同じ月を見ている。


 それは、少し不思議で、少し怖い。


 小宮は思う。


 ――この場を「観測」に留めているのは、天野さんだ。


 もし、彼女が一言、「何かあると思う」と言ったら、この集まりは一瞬で「信仰」に変わる。


 だからこそ。


「……高校生限定にして、正解だった」


 小宮は、独り言のように呟く。


「えっ?」


 澪が、またこちらを見る。


「何でもない」


 小宮は、キーボードに手を置く。


 自分の役割は、彼女が月を見るための、地面でいることだ。


 派手じゃなくていい。

 気づかれなくてもいい。


 でも、彼女が足を滑らせないように。


 小宮は、月ではなく澪を「観測」していた。


 突然だった。


「今、少し……」


 三宅の声。


「明るさ、変わりませんでした?」


 ほぼ同時に。


「同じです」


 佐々木。


「一瞬……縁が、強くなったような……」


 小野寺。


「雲じゃない?」


 誰かが言う。


「でも、時間が……」


 チャットに、時刻が並ぶ。


 ――ほぼ、同時。


 小宮は、喉が少しだけ乾くのを感じた。


 データとしては、説明できる。

 でも、揃いすぎている。


 ふと、澪が顔を上げた。


 月から、目を離す。


「……」


 何かを、考えている。


 ――いや、感じている。


 小宮には、そう見えた。


「天野さん?」


 呼びかけると、澪は一瞬だけこちらを見る。


「今……」


 小さな声。


「私たち、見てたよね」


「うん」


「逆だったら、どうする?」


「逆?」


「向こうから、見られてたら」


 小宮は、すぐには答えられなかった。


 冗談にも聞こえない。

 でも、恐怖とも違う。


 それは、気づきに近かった。


「記録……続けよう」


 澪はそう言って、また望遠鏡に向き直った。


 それ以上、誰も何も言わなかった。


 やがて。


「こちらは、そろそろ……」


 佐々木が言う。


「明日、朝早くて」


「お疲れさまでした」


 一人、また一人と、画面が暗くなる。


「おやすみなさい」


「ありがとうございました」


 最後に残ったのは、星嶺のドームだけ。


 Zoomを切ったあと、月は変わらずそこにあった。


 学校からの帰り道。


 夜風が、少し涼しい。


「どうだった?」


 小宮が訊く。


「わからない」


 澪は即答した。


「でも、今日はそれでいい」


 門の前で、立ち止まる。


「送ってくれて、ありがとう」


「うん」


 それだけ。


 澪が家に入るのを見届けてから、小宮は帰った。


 その夜。


 布団に入る前。

 澪は、無意識にカーテンを少しだけ開けた。


 月が、そこにあった。


 見上げた瞬間。


 ――見られている。


 そう思った。


 理由はない。

 音も、光も、変わらない。


 ただ、視線の「向き」だけが、反転した気がした。


 澪は、すぐに目を伏せる。


「……違う」


 声に出して否定する。


 これは、観測じゃない。

 証拠も、再現性もない。


 だから。


 澪は、月をもう一度見上げなかった。



 夢――?


 夜の屋外。

 自分の足で、歩いている。


 家の外。

 学校の外。

 どこか、見覚えのある場所。


 空には、月。


 でも――


 それを見ているのは、自分だけじゃなかった。


 誰かの視線を、確かに感じて。


 澪は、立ち止まった。


 そこで、目が覚めた。


 心臓が、少しだけ速く打っている。


「……夢、だよね」


 そう呟いた声は、闇に吸い込まれた。


 澪はまだ知らない。


 それが――彼女の「能力」の、最初の発現だったことを。

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