第6話 わからないままで
明日から夏休みという日の放課後。
「まあ、うちは二期制だから終業式も無いし、明日から課外授業があるから『夏休み』っていう実感も湧かないよねぇ」
それでも天文部の部室は、いつもより少し騒がしかった。
ノートパソコンの画面に映っているのは、古い映像。白黒で、音声がところどころ途切れている。
「アポロ11号、月着陸」
動画タイトルを読み上げるように、塩原が言った。
「何回見ても、画質酷いよね」
「半世紀以上前だし。うちの祖父ちゃんが中学生の頃だって言ってた」
塚田真琴が、椅子にダラッと座ったままで言う。
「でもさぁ」
画面に映る月面の影を指さして、続けた。
「やっぱり、月には何かあるんだよ」
部室の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
「はい、はい」
引退した三年生・丸山に代わって部長となった二年生・塩原が、即座にいなすように返す。
「真琴、また始まった。UFO? 宇宙人?」
「だって不自然じゃん。この影とか」
「オカルト記事の読みすぎ。影は影。照明条件と地形」
即答だった。
「じゃ、じゃあさ」
塚田が、画面を一時停止させて言った。
「月に何かがいて、自分たちを見ているって、アームストロング船長が言ったって話、知ってる?」
「はあ?」
塩原が即座に顔をしかめる。
「それ、完全に都市伝説だよ」
「有名じゃん。『彼らはここにいる』とか言ったってやつ」
「公式記録にそんな発言はない」
塩原は即答した。
「無線は全部公開されてる。後付けだよ」
「でも、映像切り替わるタイミング、妙じゃない?」
塚田は食い下がる。
「着陸直後とか、肝心なところでノイズ多いし」
「当時の通信環境を考えれば普通。意味ありげに見えるのは、人間が意味を探すから」
澪は、そのやり取りを黙って聞いていた。
「じゃ、じゃあ、これは?」
塚田がスマホを取り出す。
「アポロが撮影した未公開写真ってやつ。月面に建造物みたいなのが写ってるって」
「それ、解像度上げただけで岩が四角く見えるやつでしょ」
塩原がため息をつく。
「パレイドリア効果」
「でもさ、NASAがわざわざ『月には何もありません』って強調するのも変じゃない?」
「変じゃない。訊かれるから答えてるだけ」
塩原は肩をすくめた。
「陰謀論ってのは、説明しても説明しても『隠してる』とか言い出すんだよ」
塚田が、チラリと澪を見る。
「天野さんはどう思う?」
少し、期待を含んだ声。
澪はすぐには答えなかった。
父の声が、ふと頭をよぎる。
――それは、どういう意味かな?
――定義を言ってごらん。
――観測が足りない。
少し間を置いて、澪が口を開いた。
「どれも、事実と解釈が混ざってます」
「ほら、天野さんも否定派じゃん」
塩原が言う。
「否定はしていません」
澪は画面を見たまま答えた。
「記録があって、解釈が付いて、それが物語になる。どこまでが観測で、どこからが想像かを分けてないだけです」
「……つまり?」
塚田が首を傾げる。
「観測が足りません……判断するには、情報が足りないのです」
静かに言った。
「足りない?」
「映像一つで、何かがある、とは言えません」
塩原が満足そうに頷いた。
「ほら」
でも、今日の澪はそこで終わらせなかった。
「ただ、否定する材料も足りません」
今度は、塩原が一瞬だけ言葉に詰まった。
「……だったら?」
澪に問いかけるような声。澪は、画面から目を離し、部室を見回した。
「観測してみたら?」
「……はあ?」
「月の観測」
塚田の目が、ぱっと明るくなる。
「いいじゃん!」
「ちょ、ちょっと待って!」
塩原が慌てる。
「ぼくたち、普通の高校の天文部だよ? UFO探しとか、怪しいでしょ!」
「UFOじゃない」
澪はきっぱり言った。
「光学的現象の観測」
言葉を選ぶ。
「月に光学的現象があるかどうかを、記録するだけ」
沈黙。
「……でも、人手足りなくない?」
塚田が首をかしげる。
「夜中ずっと、空見るんでしょ?」
「一人じゃ無理」
澪は頷いた。
「だから、協力者を集めます」
その日のうちに、澪は小宮のところへ行った。
新聞部の部室。
夏休み前で、こちらも緩い空気が漂っている。
「小宮くん」
「あっ、天野さん」
小宮は、部室にいきなり現れた澪に少し驚いた顔をした。
「お願いがある」
「えっ」
身構える。
「観測協力者を、校内で募りたい」
「……観測?」
「月」
小宮の表情が、一瞬だけ変わった。
「あの……」
声を落とす。
「この前の……?」
「断定しない」
澪は即座に言った。
「だから、記録を取る」
小宮は、しばらく考えてから、ゆっくり頷いた。
「新聞部で、呼びかけます」
その後、澪は天文部顧問の篠原にこの話を持っていった。
放課後の職員室。
「無理だな」
即答だった。
「他校を巻き込む活動は、正式な手続きが必要だ」
「観測だけです」
「それでもだ」
篠原は、澪を見た。
「君たちが何をしようとしているかは分かる。でも、学校の名前を使う以上、責任が伴う」
澪は、反論しなかった。
論理的に正しい、とわかっていたからだ。
帰り道。
夕暮れの空を見上げる。
月は、薄く雲に隠れている。
――見てない、だけ。
呟きが、胸の中で反響する。
翌日。
新聞部WEB上に、天文部からの小さなお知らせが出た。
【有志募集】
全国の高校生の皆さんへ
月の光学的観測に協力してくれる方。
写真・目視・時間記録のみ。
主観的判断は不要。
「公式に」ではなく、あくまで「有志」募集ということにした。
「小宮くん、この一文……」
《全国の高校生の皆さんへ》
「これ、あなたが足したの? 『高校生』って」
原案は《全国の皆さんへ》だった。
小宮は少しだけ間を置いて、
「うん」
と、答えた。
「どうして?」
「大人が入ってきたら、話が変わるから」
「変わる?」
「『観測』じゃなくて、『主張』になる。それに……」
ここで小宮は少し言い淀んで、
「高校生なら、まだ『見たかもしれない』って言い方をすると思った」
と、言った。
澪は一瞬、黙った。
「……判断を、先延ばしにするため?」
「まあ、そう」
少しずつ、反応が集まり始めた。
「興味あります」
「望遠鏡ならあります」
「見たことがある気がする」
澪は、画面を見つめながら、静かに思った。
信じる人が増えているわけじゃない。
――見ようとする人が、増えている。
それで、いい。
観測は、いつの間にか、「組織的」になり始めていた。
誰にも気づかれないまま。
静かに。
数日して、ぼちぼちと情報が集まり始めた。
小宮もその整理を手伝った。それを見た新聞部員たちが、
「小宮くん、これじゃあ、もう天文部員じゃん。そんなにしてまで学年一の才女の気を引きたいの?」
と、軽口を叩くと小宮はこう返した。
「うん、だって放っておいたら天野さん一人でするから」
夏休みが始まったが、澪は部室でノートパソコンを開き、黙々と作業を続けていった。
集まってきた情報は、バラバラだった。
撮影時刻が曖昧な写真。
「光った気がする」「動いたように見えた」という曖昧な報告。
中には、月とは無関係な話まで混じっている。
澪は、それらを一つずつ開き、分類していった。
まず、時刻。
「夜」「深夜」「遅い時間」――そう書かれているものは、すべて保留にする。
二十四時間表記で、分単位まで書かれているものだけを、別のフォルダに移す。
次に、場所。
「自宅のベランダ」「近所の公園」
地名が無いものは、これも保留。
市町村名まで書かれているものは、地図アプリで確認し、緯度と経度をメモに追加する。
高度。
方位。
使用した機材。
「肉眼」「双眼鏡」「望遠鏡」
その違いだけで、見えるものは大きく変わる。
澪は、入力欄を一つ増やした。
《主観的表現》
そこに並んでいる言葉を、消していく。
「不思議」
「ありえない」
「明らかに」
すべて削除。
代わりに、こう書き換える。
《光点を確認》
《移動を確認》
《明滅を確認》
確認、という言葉だけを残す。
それ以上の判断は、入れない。
報告者の熱量も、文体も、すべてフラットにする。
誰が書いたか分からないくらいで、ちょうどいい。
作業の途中で、一つの報告に目が止まった。
写真は添付されていない。
だが、時刻、方位、月齢、すべてが揃っている。
澪は、その報告をコピーし、別のフォルダに入れた。
《参考:未検証》
採用でも、却下でもない。
ただ、残す。
夏休みが始まってから、十日ほどが過ぎた。
その日も、時計を見ると、もう夕方だった。
肩が、少しだけ重い。
それでも、作業は止めなかった。
結論を出さない、という判断は、楽ではない。
断定しないという選択は、いつも手間がかかる。
それでも。
澪は、キーボードに指を置いたまま、静かに思った。
――見えた、という事実だけでいい。
それが錯覚でも、勘違いでも、
「見たと思った」という記録は、消してはいけない。
判断は、あとでいい。
今は、集める。
澪は、新しい行を一つ追加し、また次の報告を開いた。
情報の中には明らかに「見間違い」と思われるものもある。
「これ、たぶん嘘じゃないと思う」
塚田が言った。
「本人は、本気だよ」
しかし、澪は画面を見つめたまま、少し考えてから言う。
「だから、切り捨てません」
「えっ?」
「でも、採用もしません」
澪は、こういう報告も《参考:未検証》フォルダに入れた。
「善意の誤報は、間違いじゃない。ただ、観測じゃありません」
あるいは、こんな例。
「結論、いつになったら出るんですか?」
チャットに、そんな質問が流れた。
澪は、少しだけ指を止める。
「出さない」
「え?」
「観測は、結論のためじゃない」
しばらくして、
「じゃあ、何のため?」
澪は、少し考えてから打った。
「分からないことを、分からないまま共有するため」
「なに、それ? わけわかんない」
何人かはそれで去った。
* * *
篠原が部員たちの様子を覗きに来た。
「禁止はしない」
淡々と言った。
「だが、責任は自分たちで持て」
それだけ言って、部室を出ていった。
ドアが閉まる音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
澪は、しばらくその場に立ったまま動かなかった。
禁止はされなかった。
許可も、されなかった。
つまり――判断は、こちらに委ねられたということだ。
澪は椅子に座り直して、ノートパソコンを見る。
集まってきたデータの一覧を、もう一度スクロールした。
人数は、思っていたより多い。
全国から、想像以上に多様な声が届いている。
「全部、集められたら……」
小宮が、画面を覗き込んで言いかけて、言葉を止めた。
「無理だ……」
澪は否定しなかった。
全員を集めれば、観測網は広がる。
けれど同時に、輪郭がぼやける。
澪は、入力欄を一つ作った。
《候補》
そこに、条件を書き出していく。
同時刻に観測できること。
位置が大きく離れていること。
記録が、淡々としていること。
「何があると思うか」を書いていないこと。
逆に、こういう文面は、静かに外していった。
《絶対に何かいると思います》
《証明したいです》
《みんなに分かってほしい》
否定はしない。
ただ、今回は選ばない。
澪の指は、迷わなかった。
「……少ないね」
小宮が言う。
「うん」
四つ、五つ。
それ以上、増やさなかった。
「もっと増やせると思う?」
小宮の問いに、澪は少し考えてから答えた。
「増やせる。でも、そうすると……」
「『観測』じゃなくなる」
小宮が、先に言った。
澪は、ほんの一瞬だけ目を瞬かせてから、頷いた。
「……うん」
選ばれた名前だけが、画面に残る。
地域も、設備も、文章の癖も違う。
共通しているのは、ただ一つ。
断定していないこと。
澪は、そのリストを保存した。
決断というほど、大げさなものではない。
けれど、確かにこれは――選択だった。
小宮が、ポツリと言う。
「怒る人、出るかもね」
「……それでも」
澪は、画面を見たまま言った。
「今回は、『見ること』を優先する」
誰かの期待よりも。
誰かの物語よりも。
月を。
澪は、そっとノートパソコンを閉じた。
――見ているだけで、いい。
そのはずだった。
澪は思った。
――月に何かがあるなんて、信じているわけじゃない。
ただ、もし「何か」がこちらを見ているのなら――。
地球の方から、見返してやる。
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